第6話:王宮の寝室にて、引きこもり魔女が本気出す
高速移動する騎士団長アトラクションの余韻で、三半規管が完全にシェイクされたエル。
ようやく床に降ろされたときには、足腰が生まれたてのクラゲのようにふにゃふにゃになっていた。しかし、息を整える暇も、乱れ散らかした髪やローブを直す暇すら与えられない。案内されたのは、金糸のタペストリーや豪華絢爛な彫刻で埋め尽くされた、目も眩むような豪奢な一室だった。
(うう……頭がぐわんぐわんする……。でも、ここは絶対に粗相しちゃいけない場所だ……!)
エルが自分の頬をペチペチと叩いて必死に気合を入れていると、張り詰めた静寂を破り、重厚な両開きの扉が――。
バァァァァン!!!
ノックの「ノ」の字すら存在しない、凄まじい勢いで蹴破るように跳ね開いた。
「ひぎゃっ!?」
エルは思わず悲鳴を上げて飛び退きそうになったが、隣に立つクロエは微動だにせず、慣れた動作ですっと美しい敬礼の姿勢を取った。
こんな真夜中の王宮の最深部で、護衛も咎めず、ここまで横暴かつ圧倒的な存在感で部屋をぶち破れる人物など、この国に一人しかいない。
「殿下、静寂の森より魔女殿をお連れいたしました」
クロエの澱みのない、澄んだ声が室内に響く。
その脇で、エルは心臓が口からまろび出そうな緊張に耐えながら、ゴクリと唾を飲み込んで、恐る恐る視線を扉の先へと向けた。
「クロエ、よくぞ戻った……! 助かったぞ!」
入ってきたのは、仕立ての良い上着を羽織った一人の青年だった。
流れるような金髪に、彫刻のように整った顔立ち。纏う空気には生まれながらの気品が満ち満ちている。――けれど、その眉間には痛々しいほど深い苦悩の皺が刻まれ、目の下には濃い隈が落ちていた。
この国の王太子殿下、その人だった。
「……魔女殿、お初にお目にかかる。突然の無礼な呼び出しを許してほしい」
王太子はエルのボロボロの格好や、さっきまでお姫様抱っこで運ばれてきてボサボサになった頭など気にする様子もなく、切迫した眼差しでエルを真っ直ぐに見つめてきた。
(ほ、本物の王太子様だ……! 絵本に出てくる王子様そのまんまだけど、すっごく思い詰めてる……!)
次代の王が放つただならぬ覇気と、愛する人を失いかけている人間の放つ悲痛なオーラに気圧され、エルは思わず息を呑んだ。
――その時だった。
チリチリッ、と。
エルの左耳で、あの水色のピアスが再び小さく、けれどこれまでにないほど激しく熱を帯びて瞬いた。
(……え? なんで……?)
この王太子様を前にして、どうしてピアスが反応するのか。
激しい動悸と耳元の熱さを抱えたまま、エルは目の前の高貴な青年に向かって、ぎこちなく頭を下げるのだった。
豪華絢爛な部屋の真ん中で、エルは縮こまりそうになる背筋を必死に伸ばした。
馬の激走でお尻は悲鳴を上げ、お姫様抱っこダッシュで髪は寝癖のようにボサボサ。おまけに目の前には一国の王太子。完全に場違い極まりない状態だったが、ここでオドオドしていても始まらない。
エルは深呼吸をひとつ挟み、ペコリとお辞儀をした。
「初めまして、森の薬師……あ、いえ、魔女のエルです。私が呼ばれたのは、婚約者様のことと伺いましたが」
緊張のせいで語尾が少し上ずってしまったものの、引きこもり特有のコミュ障を気合でねじ伏せ、はっきりと要件を切り出した。
部屋の主である王太子――シルフは、張り詰めていた肩の力をわずかに落とし、胸元に手を当てて深く息を吸い込んだ。
「ああ……よくぞ来てくれた、エル殿。単刀直入に頼みたい。私の婚約者であるリリアーナを、どうか救ってほしい」
シルフの声は、気品ある美しい響きを持ちながらも、痛々しいほど震えていた。
未来の国王としての威厳の裏側に、今にも崩れ落ちそうな恐怖と焦燥が透けて見えている。どれほどその婚約者を大切に想っているのかが、痛いほど伝わってきた。
――だがその時、エルの思考を別の衝撃が激しく揺さぶった。
「リリアーナ」
その名前が王太子の唇から零れ落ちた瞬間、エルの左耳のピアスが、まるで雷に打たれたかのように激しく発光したのだ。
ジクジクとした熱が耳朶を焼き、トクン、トクン、ドクン! と、誰かの胸の鼓動そのもののような激しい脈動が頭蓋骨を揺らす。
(――リリアーナ……?)
頭の奥底、あのヤケクソな忘却魔法で幾重にも鍵をかけて封印したはずの心の引き出しが、ガタガタと猛烈な勢いで音を立て始めた。
知らないはずの名前。聞いたこともないはずの誰か。なのに、どうしてこんなにも胸がざわめくのか。
(待って、私、この名前を知ってる……? いやいや、知るわけないでしょ! 私はずっと森で一人暮らしだったんだから! ……でも、なんでこんなに耳が熱いの!?)
耳元が勝手にカイロと化してパニックになりかけるエル。
しかし、目の前で必死に自分へ頭を下げようとする王太子の姿を見て、魔女としてのスイッチをカチリと切り替えた。今ここで自分の謎ピアスに振り回されている場合ではない。
エルはギュッと拳を握りしめ、高鳴る鼓動を強引に抑え込んだ。
「殿下、頭を上げてください。まずは彼女の状態を直接診せてください。……原因が何であれ、きっと私が何とかしてみせますから」
世間知らずで不器用な魔女の瞳に宿った、確かな薬師のプライドと決意。
それを受け取ったシルフは、救われたように目を見張り、力強く頷いたのだった。
シルフに先導され、エルとクロエは奥に続く重厚な両開きの扉の前へと立った。
王太子の寝室のさらに奥、厳重に警備された一角にある天蓋付きの豪奢な寝台。そこにリリアーナが横たわっているのだという。
シルフが静かにノブに手をかけ、扉がギギ……とゆっくり開かれた、その瞬間だった。
「――っ、うわっ!?」
エルは肺の中の空気をすべて吐き出すように息を呑み、反射的に二歩、三歩と後ずさった。
あまりの衝撃に、後ろに控えていたクロエの胸板に背中から盛大に激突しそうになる。
(な、な、なにこれぇぇぇぇっ!? 部屋の中でタイヤでも燃やしたの!? 視界ゼロなんですけど!!)
目の前に広がっていたのは、豪奢な内装など完全に霞むほどの異様な光景だった。
部屋の隅から天井、床に至るまで、どす黒く濁ったタールのようなモヤが、ドロドロと濃密に渦を巻いていたのだ。氷点下の冷気と、ねっとりとした悪意を鍋で煮詰めたような息苦しい魔力の奔流。その瘴気の塊が、寝台の上で人形のように横たわる少女の華奢な体を、じわじわと蛇のように締め付け、侵食していた。
(息が詰まる……! なんでこんな換気の悪い部屋で平気なの!? ……って、あれ?)
エルは目を白黒させながら周囲を見渡した。
先を歩くシルフも、部屋の四隅に直立不動で控えている護衛の兵士たちも、顔色ひとつ変えていないのだ。咳き込む様子すらなく、至って平然と佇んでいる。
(見えてない……! 私以外、誰もこのドス黒いモヤモヤが見えてないんだ……!)
常人には不可視の、濃密な魔力による瘴気。
つまり、医学の教科書を何百冊積み上げようが、宮廷医師団が束になってかかろうが、原因が分かるはずもなかったのだ。
「どうかしたか」
背後から、低く鋭い声が降ってきた。
エルの急停止と尋常ではない動揺を察知したクロエが、水色の瞳を細め、怪訝そうに覗き込んできている。その瞳があまりに至近距離でキラキラしているせいで、別の意味でも心臓に悪い。
「……う、ううん! なんでもないです! ちょっと足の小指を柱にぶつけただけ……!」
苦しすぎる言い訳を並べつつ、エルは静かに首を横に振った。
今ここで「部屋中が真っ黒な煙だらけです!」と騒ぎ立てても、オカルト扱いされて医師団に塩を撒かれるのがオチだ。
(やっぱり……普通の病気なんかじゃない。想像以上にヤバい、超一級品の『呪い』だわ……!)
左耳のピアスが、ジリジリと皮膚を焦がすような熱を帯びて激しく脈打つ。まるで「ここからが本番だぞ」と警告するように。
エルはギュッと奥歯を噛み締め、両手でローブの裾を握り直した。
そして、深い昏睡に沈むリリアーナの枕元へ向かって、黒いモヤを心の中で掻き分けながら、静かに歩み寄っていった。
「リリアーナ、君を診てくれる人を連れて来たよ」
シルフは寝台の傍らにそっと膝をつくと、まるで薄氷に触れるかのような手つきで、掛け布団の上の小さな手を取った。王太子の瞳には、今にも零れ落ちそうなほどの祈りと痛切な愛が滲んでいる。
「……でん……か……」
微かなシルフの声に反応し、リリアーナの長い睫毛がかすかに震えた。
ゆっくりと開かれた瞳には生気がまるで宿っておらず、透き通るような白い肌は、血の気どころか温度すら失われかけている。唇から漏れ出た声は、吐息と変わらないほど弱々しい。
(うわ……近くで見ると、モヤの密度がえげつない……!)
エルは内心でゴクリと喉を鳴らした。
リリアーナの全身に巻きつく黒い瘴気は、まるで獲物を締め上げる大蛇のようにドロドロと蠢き、一秒ごとに彼女の生命の灯火を削り取っていた。呼吸をするたびに、少女の魂の輪郭が薄くなっていくのが魔力で見えてしまう。
(完全に時間切れ寸前じゃない! あと半日……いや、数時間放置したら魂の根っこまで食い破られて手遅れるわ……!)
切迫した状況に、エルの脳内シミュレーションが超高速で回転する。
手持ちの薬草を煮出している暇などない。薬学の範疇を完全に超えている。今すぐこの黒い悪意を力づくで引き剥がし、浄化する術式を展開するしかない。
――だが、ここは王宮の心臓部だ。
国家最高権力者たちの目の前で、怪しげな光を放つ魔女の呪文をぶっ放す。それは、一歩間違えれば「王太子婚約者を暗殺しようとした大逆罪」として、その場でクロエの神速の剣に首をチョンパされかねない超ハイリスク行為だった。
(でも、ここで保身に走って見殺しにしたら、一生寝覚めが悪くて薬草スープも喉を通らなくなる……!)
エルはキュッと奥歯を噛み締め、意を決して振り返った。
引きこもり特有の挙動不審さをかなぐり捨て、真っ直ぐに見据える。
「殿下、もう一度だけ確認させてください。……魔法を、使っても構わないですね?」
静まり返った豪奢な部屋の中に、エルの澄んだ声が凛と響き渡った。
それは森の奥で薬草をすり潰していただけの世間知らずな娘ではなく、命と向き合う覚悟を決めた「魔女」としての問いかけだった。
室内の護衛兵たちがギクッと息を呑み、微かに空気が強張る。
しかし、その重圧を切り裂くように、すぐ隣に控えていたクロエが一歩進み出た。その水色の瞳は、疑念の欠片もなくエルを見つめている。背中を預けてもいいと語るかのように。
そして、シルフは一切の迷いを捨て去った顔で、力強く頷いた。
「構わない。リリアーナを救えるなら、何を使ってくれても構わない! 全ての責は私が負う……頼む、エル殿!」
未来の王の確固たる言質が取れた瞬間、エルの左耳でピアスがカチッと誇らしげに青い光を弾けさせた。
(よし、言質は取った! あとはやるだけよ……!)
エルは大きく息を吸い込み、袖をまくり上げて両手をリリアーナの上へと掲げたのだった。




