第5話:馬の次は人間!? 最強騎士のスパルタ移動手段
「王都へは馬車より単騎で行く方が早い」
トランクを抱えて小屋の外へ出たエルを待っていたのは、夜闇に溶け込むような見事な漆黒の毛並みを持つ、筋骨隆々の立派な軍馬だった。……サラブレッドというより、戦場を蹴散らすタイプの重戦車に見える。
騎士は慣れた身のこなしでひらりと鞍の上に飛び乗ると、地上でおろおろしているエルへ向かって、すっと大きな手を差し伸べた。
「乗ってくれ」
「えっ、二人乗り!? というか、私、馬なんて引き具をつけた農耕馬しか見たことないんですけど……!」
「大丈夫だ。しっかり掴まっていろ」
有無を言わさぬ腕力でぐいっと引き上げられ、エルは悲鳴を飲み込みながら、なんとか騎士の背後――ではなく、彼の胸元へとすっぽり収まるような形で跨がされた。大柄な騎士の長い両腕に完全にホールドされる格好だ。
(ちょっ……! 距離が近い近い近い! 背中合わせとかじゃなくて完全に包囲されてる!?)
至近距離から漂う鉄と微かな夜露の香りに心臓が破裂しそうになっていると、頭上から冷徹なカウントダウンが降ってきた。
「急ぐので飛ばします。……舌を噛まないように!」
「えっ、ちょっと待っ――」
ドガッ!
騎士の踵が黒馬の脇腹を容赦なく打ち据えた瞬間、世界の景色が消し飛んだ。
「ひぎゃあああぁぁぁっ!?」
ものすごいG(重力)がエルの体を後ろへ押し倒そうとし、反射的に目の前にある騎士の革鎧のベルトへ死に物狂いでしがみついた。
夜の森の木々が、流れる黒い影となって視界の端を矢のように後方へすっ飛んでいく。
冷たい夜風が容赦なく顔面を強打し、目を開けているだけで涙が横へと吹き飛ぶ。呼吸しようと口を開ければ、風が喉の奥へ直撃して「ふがっ、ごほっ」と変な音が出る始末だ。
しかし、真の地獄は「風圧」ではなかった。
ガタガタガタッ! ドスッ! ガタッ!
「あ、ぐ、お、おし……お尻がぁぁぁぁっ!!」
山道の凸凹を音速で踏破していく軍馬のステップは、完全にエルの骨盤を粉砕しにかかっていた。
一歩駆けるごとに、鞍を通してダイレクトに尾てい骨と腰へ突き刺さる強烈な衝撃。まるで木製のハンマーで下から連打されているような激痛に、エルは涙目で奥歯をガチガチと鳴らす。
(お尻が割れる! いや元から二つに割れてるけど四つくらいに粉砕される!! 馬ってこんな暴力的な乗り物なの!? 移動手段というより拷問器具でしょこれーー!!)
必死に悲鳴を飲み込み、痛みに耐えて悶絶するエル。
だが、そんなインドア引きこもり魔女の尻の危機など露知らず、手綱を握る騎士の背中は微動だにしなかった。その水色の瞳は夜闇の先を鋭く見据え、一点の迷いもない強い決意をまとったまま、漆黒の馬とともに王都への最短ルートを爆走し続けるのだった。
カツン、カツン、パッカパッカ……。
どれほどの時間、暴風と尻の破滅の危機に耐え続けたでしょうか。
脳内でお経を唱えながら心の中で数百回ほど悲鳴を上げきり、魂が口から半分抜けかけていたエルでしたが、ふと耳に届く音が泥を跳ね上げる重い音から、規則正しい硬質な響きへと変わったことに気づきました。
周囲を見渡せば、高くそびえ立つ白亜の城壁と、美しく敷き詰められた石畳の通り。
すっかり日付も変わり、街全体が深い眠りに沈み返った真夜中の王都でした。
「ようやく着いた……」
手綱を引く騎士の低く落ち着いた声が頭上から降ってきたが、エルの脳内は別の感情で埋め尽くされていた。
(き、休憩の一言くらい欲しかった……! サービスエリア的なやつは無かったの!? 私のお尻と腰、もう完全に感覚がログアウトしてるんですけど……!)
騎士が軽やかに飛び降り、エルを降ろそうと両手を差し伸べてくれる。エルは生まれたての子牛のようにプルプルと腕を震わせながらその手にすがりつき、どうにか地面に着地した。
しかし。
「――ぶふっ!?」
地面に足の裏がついた瞬間、長時間の振動で完全に麻痺していた両膝がガクガクガクッと盛大に生まれたての小鹿ステップを刻み始めました。重力という概念をすっかり忘れていた筋肉が悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちそうになります。
「おっと……!」
咄嗟に歯を食いしばり、みっともなくへたり込むのだけは回避したエル。
情けない姿を晒して恥ずかしさで真っ赤になりかけましたが、すぐにくるりと向き直り、肩で息をしている黒馬のそばへとヨロヨロと歩み寄りました。
あんな無茶苦茶なスピードで、重い人間を二人も乗せ、険しい山道を一晩中ノンストップで爆走してくれた立派な軍馬。その首筋には、びっしりと白い汗が浮かんでいました。
エルは自分の腰の痛みをすっかり忘れ、そっと小さな手のひらを伸ばして、黒く艶やかな首筋を優しく撫でた。指実にほんの少しだけ、疲れを癒す緑の魔力を宿らせます。
「……ありがとね。すっごいスピードで怖かったけど、あなたが一生懸命、一歩も踏み外さずに走ってくれたから無事に着けたよ。……本当に、ありがとう」
エルの柔らかく澄んだ声と、手のひらからじんわりと伝わる心地よい温もりを感じ取ったのか。荒々しく肩を上下させていた黒馬は、ふっと穏やかに動きを止めました。
そして「ぶるるっ」と鼻を鳴らすと、気持ちよさそうにとろんと目を細め、大きな額をエルの小さな手のひらにぐいぐいとすり寄せて甘え始めたのです。軍馬の威厳が完全にどこかへ吹き飛んだ、まるで甘えん坊の子犬のような姿でした。
「あはは、くすぐったいよ。よしよし、偉かったね」
笑いながら鼻先を撫でてやるエル。
お尻が四つに割れそうな激痛と疲労困憊の極致にいながら、真っ先に自分を乗せてくれた馬を労い、慈しむその無垢な優しさ。
すぐ傍らに立ち、手綱を握ったままの騎士は、その光景を無言で見つめていた。
張り詰めた氷のような気品を纏う彼の水色の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、春の陽だまりのような、どこまでも優しく切ない温もりがフッと灯ったことを。
馬との戯れに夢中なエルは、まだ知る由もありませんでした。
「団長ーーーっ! クロエ団長ぉぉぉ!! お戻りでしたかぁぁぁっ!」
王都の重厚な正門をくぐった直後、石畳を蹴立てるけたたましい足音とともに、全身をピカピカの白銀の鎧で包んだ若い近衛兵が、息を荒らげて全速力でスライディングするように駆け寄ってきた。
「急いで王宮の奥殿へ! 殿下がお待ちかねです! 一刻を争うとのことです!」
その必死な報告を聞いた瞬間、エルの脳内時計がピタリと止まった。
(……え? いま、この人をなんて呼んだ……? だん、ちょう……?)
エルはまじまじと、隣で手綱を兵士に預けているイケメンを見上げた。
(『クロエ団長』!? ちょっと待って、この人、ただの腕の立つ旅人じゃなくて……この国の近衛騎士団のトップ様だったの!? そんな国家最高戦力みたいな人が、なんで森のあばら家に一人で突撃してきたわけ!?)
思いがけない肩書きの巨大さに、エルの引きこもりハートは盛大に縮み上がりました。国家権力の頂点と二人乗りで尻を痛めつけていたという事実に冷や汗が吹き出します。
そんなエルの内心の動揺など露知らず、クロエ団長は表情ひとつ変えずに短く頷いた。
「分かった。すぐに向かう」
そして、くるりとエルの方へ向き直ると、氷のように整った美貌で涼やかに言い放ったのです。
「魔女殿、急ぐので失礼します」
(あ、はい! さすがにここからは並んで真面目に歩くんですね! 邪魔にならないよう三歩下がって歩きます!)
国家要人への礼儀を瞬時に弁え、エルがトントンと遠慮がちに一歩後ずさった――まさにその瞬間でした。
「わっ……!?」
視界が突然、上下逆さまにひっくり返るような浮遊感。
次の瞬間、エルの体はふわりと宙に浮いていた。
何が起きたのか理解する暇すらありません。クロエは屈強な腕をエルの背中と膝裏へ差し入れると、羽毛クッションでも拾い上げるような軽やかさで、エルを軽々と「お姫様抱っこ」の体勢で抱え上げたのです。
「……え? ちょっ、えっ!?」
「舌を噛まないように」
本日二度目の不穏な忠告が降ってきた直後、クロエの両足が爆発的なバネとなって王宮の石畳を踏み抜いた。
ドババババババッ!!!
「ええええええええええぇぇぇぇぇぇぇっ!?」
深夜の厳かな王宮に、引きこもり魔女の魂の絶叫が木霊しました。
速い。とにかく異常に速い。
馬に乗っていた時も大概でしたが、人間の二本足から繰り出されているとは到底思えない異次元のトップスピードです。燭台の明かりが横一文字の光の線となって後ろへ流れていき、豪奢な大理石の柱が秒速で視界から消え去っていく。
(馬の次は、まさかの人間新幹線!? しかもお姫様抱っこで全力疾走ってどんな絵面なのーーー!?)
胸元に密着したクロエの鎧からはカシャカシャと規則正しい金属音が響き、至近距離から漂う良い匂いと、猛烈なスピードへの恐怖でエルの心臓は爆発寸前でした。
お尻の激痛がまだ引いていないというのに、今度は別の意味で寿命がガリガリと削られていく。
「だ、団長様! 降ろして! 私、自分で走れますからぁぁぁ!」
「遅い。貴方の歩幅では日が暮れる」
「もう真夜中だよ!!」
風圧で涙目になりながら全力でツッコミを入れ続けるエルを抱えたまま、王国最強の騎士団長は、ただひたすら無表情のまま王太子の寝室へと猛ダッシュをキメるのだった。




