第3話:イケメンだからって結界パスは許さない!……いや、開けちゃうけど
粉々に砕け散った酒樽の残骸と、白目を剥いて転がる巨漢。
あまりの光景に静まり返っていた広場で、正気に戻った村の長老が、腰を抜かしかけた足を必死に叱咤しながらワタワタと駆け寄ってきた。
「き、騎士様ぁぁぁっ! 助けていただき、本当に、本当にありがとうございました……!」
長老はペコペコと頭を下げながら、背後にいるエルの前へと滑り込むように立ち塞がった。
「部外者のいざこざに巻き込んでしまい、誠に申し訳ございません! ほらエルちゃん、大丈夫かい!? 怪我はないか!? 何も喋らんでええ、ワシの後ろにお隠れ!」
(長老、かばってくれるのは嬉しいけど、背中がプルプル震えてて壁としての頼りなさがすごい……!)
エルは心の中で密かにツッコミを入れつつも、差し伸べられていた騎士の手を取れぬまま、ふらつく足取りで一歩後ずさった。
手首の痛みよりも、それどころではない異変が耳元で起きていたからだ。
そっと指先を触れると、左耳のピアスは先ほどよりも激しく熱を帯び、まるで「ここにいるぞ」と叫ぶ生き物のようにドクンドクンと脈打っている。やけどしほどの熱さなのに、不思議と痛くはない。
(あの人の瞳……どうしてあんなに、胸がぎゅーっと締め付けられるんだろう……?)
エルの視線は、長老の肩越しに立つ騎士へ吸い寄せられていた。
引き締まった長身、冷たい氷のような気品。見つめ合おうとすると、なぜか急激に心拍数が跳ね上がり、呼吸の仕方を忘れそうになる。薬草の知識を総動員しても、この動悸の正体がまったく診断できない。
お礼を言わなきゃ、とエルがオドオドしながら口を開けかけた、その時だった。
「いや、たまたま居合わせただけだ。気にするな」
騎士の声は、耳元をすり抜ける冬のすきま風のように冷淡で、無機質だった。
それ以上エルに視線を向けることもなく、長老の過剰な謝罪に軽く片手を挙げて応えると、彼はスッと背を向けた。
まるで「落ちていたゴミを片付けただけ」とでも言わんばかりのスマートさで、広場の隅の席へと戻っていく。
「あ……」
エルの口から、間抜けな小さな声が漏れた。
(えっ……終わり!? 『名乗るほどの者ではない』的なやつ!? お礼も名前も聞けてないんだけどー!?)
あっさりと遠ざかっていく広い背中。
だが、その背中が離れれば離れるほど、エルの胸の奥底――あのヤケクソの忘却魔法でガッチリと南京錠をかけ、鉄板で溶接したはずの「記憶の扉」が、ミシミシ、ギギギ……と不穏な軋み音を立てていた。
まるで、錆びついた鍵穴に無理やり合鍵を突っ込まれて回されたような、猛烈な疼き。
(なんなの、これ……。胸の奥が、すっごく変……)
誰にも気づかれないよう、エルは左耳の熱い石をキュッと指先でつまみ、静寂が戻りつつある広場の片隅で立ち尽くした。
酒場の席で優雅にお茶を口に運んでいる、あの水色の瞳の騎士。
その冷たく凛々しい横顔を、エルはただただ、瞬きも忘れてぼんやりと見つめ続けるしかなかった。
「これ以上ここにいたら、村の人たちに迷惑がかかっちゃう……!」
長老から薬の代金(いつもより三割増しくらいの危険手当付き)を慌ただしく受け取ると、エルは逃げるように村をあとにした。
背後から「エルちゃん気をつけてねー!」「塩撒いとくからねー!」と温かい(?)見送りの声が聞こえたが、振り返る余裕など微塵もない。
心臓は早鐘を打ち、左耳のピアスは相変わらずホカホカとカイロのように温かいまま。
胸のざわめきと、頭の中をぐるぐる巡る水色の残像を抱えたまま、エルは小走りで森の獣道を駆け抜けた。木々の影が長く伸び、やがて周囲が濃紺の夜の帳に包まれるころ、ようやく見慣れた我が家――古びた木造の小屋へと滑り込んだ。
「ふ、ふぅ……! 帰ってきたぁ……」
バタンと扉を閉めて閂を下ろし、背中を預けてズルズルとその場に座り込む。
慣れ親しんだ薬草の匂いと、静寂。
ふらつく足で立ち上がり、マッチを擦ってテーブルの上のオイルランプにポッと橙色の火を灯した。
木製の椅子にどっかりと腰を下ろし、エルは深いため息を吐き出す。
いつもなら「今日も無事に稼げたぞ、うひひ」と硬貨を数えてホクホクしている時間だ。それなのに、今夜はまったく手につかない。
(あの騎士様……)
目を閉じると、鮮明に思い出されてしまう。
あの荒くれ者の大男を片手でポイ捨てした人間離れした怪力……は一旦置いておくとして。
(すっごく冷たい人に見えたのに……どうして、あんなに胸が騒いだんだろう。あの綺麗な水色の瞳と目が合った瞬間、なんだか……すごく懐かしくて、胸の奥がキュウゥゥって痛くなって……泣きたくなるような気持ちになった……)
椅子の上で膝を抱え込み、エルは自分の胸元をぎゅっと押さえた。
考えれば考えるほど、左耳で揺れるピアスがじりじりと熱を帯びていく。
それはまるで、あの日のヤケクソ忘却魔法によって心の奥底へ沈められた記憶の底から、小さな泡がポコポコと水面に湧き上がってくるような、もどかしくてこそばゆい痛みだった。
(まさか私、あの騎士様のこと……一目惚れ!? いやいやいや! ないないない! だって今日初めて会ったんだよ!? しかも相手は超絶イケメンだけど愛想ゼロの氷人間だよ!?)
「落ち着け私! 吊り橋効果よ! 命を助けられたからドキドキしたのを恋だと錯覚してるだけ!」
ブンブンと激しく首を横に振り、両手で自分のパタパタと熱い頬を叩いて雑念を力いっぱい振り払おうとした――まさにその瞬間。
コン、コン、コン――。
静まり返った森の奥の小屋に、硬質で落ち着いたノックの音が、規則正しく響き渡った。
「…………え?」
エルの動きがピタリと停止した。
時が止まったかのような静寂。
(……気のせいよね? 風で小枝が当たっただけよね……?)
コン、コン――。
(気のせいじゃなーーーい!!!)
エルは息を呑み、心臓が喉から飛び出そうになるのを必死で手で押さえた。
こんな夜遅くに、人が足を踏み入れることすらできないはずの、結界に守られたこの深い森の奥で――一体、誰が扉の前に立っているというのか。
エルは音を立てないように椅子から立ち上がると、震える足で、暗がりの中に浮かぶ頑丈な木製の扉へと、恐る恐る視線を向けた。
(おかしい……。ぜっっったいにおかしい!!)
エルは恐怖と混乱で、呼吸するのも忘れてフリーズしていた。
この「静寂の森」は、ただ木々が生い茂っているだけの田舎の森ではない。古代の強固な魔法によって幾重にも防壁が張られており、森そのものが「受け入れた者」以外を容赦なく弾き返す、超一級の立ち入り禁止区域なのだ。ふもとの村人たちですら「森の奥に入ると神隠しに遭う」と恐れて決して近寄らない。
だからこそ、エルは今日まで人目を気にせず、ノーメイク・部屋着のまま薬草をすり潰す優雅な引きこもりライフを満喫できていたのである。
それなのに、なぜ。
外にいる正体不明の何者かは、自慢の防犯セキュリティ結界をまるで暖簾でもくぐるかのようにスルーし、迷う素振りすら見せずにこの小屋の玄関前へと到達している。
(まさか……森の魔獣!? いや、魔獣はこんな礼儀正しく三拍子でノックしない! てことは、結界を力技でブチ破ってきた不審者……!?)
エルは防衛本能から、手近にあった一番硬くて重いすり鉢を両手で構えた。
生まれたての子鹿のようにプルプルと膝を震わせながら、抜き足差し足で重い木の扉へと近づいていく。板一枚を隔てたすぐ向こう側に、確かに何者かの気配があった。
すり鉢を振り上げる体勢を整え、エルは上ずりそうな声を必死に絞り出した。
「……だ、だれっ!?」
叫び声に近いその問いかけに対し、扉の向こうから返ってきたのは――あまりにも聞き覚えのある、低く凛とした、涼やかな美声だった。
「昼間、村で会った者だ。話があって来た。……開けてくれないか?」
「ぶふっ……!?」
エルは変な声を出してすり鉢を取り落としそうになった。
あの声は、間違いなく昼間に広場で荒くれ者をジャイアントスイングした、あの超絶イケメン騎士様である。
(な、なんでアイツがここにいんのーーー!?)
パニックメーターが限界突破した。
いや待て、それ以前にとんでもない大問題がある。
(どうして……あの人が、この森に入れたの……!?)
森の結界は、侵入者の悪意や嘘を見抜いて迷路のように感覚を狂わせる仕組みだ。力づくで突破しようものなら雷が落ちるはずなのに、何の破壊音も聞こえなかった。ということはつまり――森が、彼を「害のない客」として、すんなり受け入れたということになる。
(森の審査基準、どうなってんの!? 顔パス!? イケメンなら通しちゃうガバガバ判定なの!?)
エルが心の中で猛烈なツッコミの嵐を巻き起こしていると、左耳のピアスが「カチリ」と小さな音を立てて、警告音のように激しく熱い光を放った。ジクジクとした熱さが耳朶から全身へと広がり、胸の奥のざわめきが一気に加速していく。
忘却の魔法で頑丈にフタをしたはずの記憶の深淵で、何かがパツンと音を立てて弾けそうになる。
(開けちゃダメな気がする……でも、開けないと話が進まない気もする……!)
葛藤で頭を抱えそうになりながらも、昼間に助けてもらった恩があるのも事実だった。
エルは覚悟を決めると、すり鉢をそっと床に置き、震える指先をゆっくりと扉の鍵へと伸ばした。
カチャリ、と重い金属音が静寂に落ちた。
エルは呼吸を整え、意を決して頑丈な木の扉をギギギ……と数センチだけ開けた。もし襲いかかってきたら即座に扉を蹴り閉めて、さっき床に置いたすり鉢を全力で投げつける算段である。
だが、そんなエルの必死の防衛プランは、扉の隙間から覗く光景によって一瞬で木っ端微塵に吹き飛んだ。
夜の深い闇を背負い、そこに立っていたのは間違いなくあの騎士だった。
青白い月明かりに照らされた銀色の髪が、夜風にさらりと揺れている。そして、どんな暗闇の中にあっても絶対に発光体として認識できそうなほど透き通った、吸い込まれそうな水色の瞳が、隙間から顔を覗かせるエルを静かに捉えていた。
(……うわ、本物だ。っていうか、間近で見ると顔の造形が暴力的に綺麗すぎるでしょ……)
頭では「昼間に広場にいた騎士様だ」と完全に理解しているのに、あまりの現実感のなさに、エルは自分がまだ暖かいベッドの中で奇妙な夢の続きを見ているような覚醒に囚われかけた。
「……は、話って……何ですか?」
身構えたまま、戸惑いを隠せずに恐る恐る尋ねるエル。
しかし、騎士はエルの質問にすぐ答えることはしなかった。その涼やかな視線が、エルの顔から――彼女の左耳でチカチカと不穏な自己主張を続ける「水色のピアス」へとスッと吸い寄せられるように落ちた。
わずかに彼の眉がピクリと動いたのを、エルは見逃さなかった。
(な、なによ……? 私の耳になんか変なゴミでもついてる!? それともピアスのデザインがダサいって言いたいの!?)
内心で猛烈に動揺していると、騎士は口元をわずかに引き結び、低い美声で淡々と告げた。
「……話は長くなる。入っても?」
「……っ」
その落ち着き払ったトーンに、エルは思わず言葉を詰まらせた。
深夜、森の奥深くのあばら家に、妙齢の女子が成人男性(しかも人間を片手で投げ飛ばすゴリラ並みの怪力イケメン)を招き入れるなど、危機管理能力ゼロの愚行である。「お断りします! お引き取りを!」と叫んで扉をバタンと閉めるのが、全人類の模範解答のはずだった。
けれど、どうしてだろう。
エルの本能は警鐘を鳴らすどころか、「この人を帰してはいけない」「この人について、絶対に何かを知らなければならない」という、抗いようのない強烈な予感をビンビンに告げていた。
「あ...どうぞ……」
エルは観念したように情けない声を漏らすと、体を半身ほど引いて、小さな小屋の中へと彼を招き入れた。
騎士が長身を屈めて敷居を跨ぎ、部屋へと足を踏み入れた瞬間――不思議なことが起きた。
開け放たれた扉から流れ込んできたはずのヒヤリとした夜風が、なぜかふわりと角の取れた、優しい温もりを帯びたような気がしたのだ。
(あれ……? なんだか、部屋が急にあったかくなったような……?)
暖炉のわずかな残り火がパチリと爆ぜ、二人の影を床に長く引き延ばす。
騎士は無言のまま、エルが案内するよりも早く部屋の木製の一番座り心地の良い椅子を見つけ出すと、まるで昔からそこが自分の定位置であったかのように、極めて自然な動作で腰掛けた。
そして、所在なげに立ったままオロオロしているエルを、水色の瞳で真っ直ぐに見据えた。
「……お前、そのピアスはどこで手に入れた」
開口一番に放たれたその言葉は、エルの予想の斜め上を時速数百キロでかっ飛ばすものだった。
「……へっ!?」
王宮の密命でも、森への不法侵入の尋問でもなく、まさかの「アクセサリーの入手経路」。
しかし、その声に滲む真剣さとただならぬ迫力に、エルの心臓はトクン、と痛いほど大きく跳ね上がるのだった。




