第2話:水色の光と、出会うはずのなかった手のひら
魔法をぶっ放した翌朝から、エルは見事なまでに「完全なる一人ぼっちの魔女」へとロールバックしていた。
「ふわぁ……よく寝たぁ!」
ぐーっと両腕を天井へ伸ばし、豪快にあくびをする。
昨日の「セルフ記憶消去・頭部直撃バチィン事件」の後遺症か、頭のてっぺんがほんのりジンジンするのを除けば、体調はすこぶる良好だった。
顔を洗い、いつものように朝食の支度を始める。
小さなお鍋を暖炉にかけて、乾燥させた薬草と野菜をコトコトと煮込む。お玉でひと混ぜしたところで、エルは無意識に、棚から木製の器を「二つ」並べていた。
「……ん?」
並んだ器をまじまじと見つめ、エルは首を傾げた。
「あれ、私、なんで器を二つ出してるんだろ。……しかも片方は、やたら浅くて平べったいスープ皿。……私、こんなお皿持ってたっけ? 犬の餌皿みたいじゃない?」
一人暮らし歴=年齢のはずなのに、なぜか身体が勝手に二人分の準備をしようとする。
エルは不思議そうに眉を寄せつつ、「寝ぼけてたのかな」と浅い皿を棚の奥へと引っ込めた。
朝食は、もちろん一人分。
静まり返った部屋の中で、スプーンが器に当たるカチカチという音だけが響く。
「……美味しい。うん、完璧な味付け」
自画自賛してみるものの、部屋には相変わらず相槌を打つ声も、足元で「まず器を拭け」とばかりにペシペシ叩いてくる気配もない。
(……おかしいな)
すべてが元の形、いつもの平穏な日常に戻ったはずだった。
余計な邪魔が入ることもなく、静かで、誰にも邪魔されない最高の引きこもりライフ。
それなのに――エルの胸の奥には、まるでスプーンでごっそりと抉り取られたような、ぽっかりと底の抜けた穴が空いていた。
森へ薬草摘みに出かけても、どこか落ち着かない。
足元を見つめては、「あれ、踏んづけちゃいけない気がする……誰かを?」とピタリと足を止め、籠を覗き込んでは「なんかここ、もっと重みがあったような……?」と首をひねる。
「私、ボケちゃったのかしら……? まだ若いのに!」
自分の記憶力に盛大にツッコミを入れながらも、日が暮れて夜がやってくると、その空虚さは誤魔化しきれないものになっていった。
ランプの灯りの下、毛布にくるまって暖炉の火を見つめていると、不意に視界がじんわりと滲み始めた。
ツーッと、温かい雫が頬を滑り落ちてシーツを濡らす。
「……えっ? なんで泣いてるの、私!? どこも痛くないし、お腹もいっぱいなのに!」
袖でごしごしと目を擦るが、涙は次から次へと溢れ出して止まらない。
悲しい理由が、まったく分からないのだ。失ったものの名前すら思い出せないのに、心だけが「寂しい」「痛い」と悲鳴を上げている。
(どうしてこんなに胸が痛んだろう……。私、何かすごく大切なものを落っことしてきちゃったのかな……?)
胸をぎゅっと押さえたとき、エルの指先がワンピースのポケットの奥にコロリと固い感触を捉えた。
「……あ」
ポケットから取り出したのは、あの泉で拾ったはずの、水色の石が付いた片方のピアスだった。
ひんやりと冷たいはずの金属なのに、掌に乗せると、まるで生きている誰かの体温のようにじんわりとした温かさが伝わってくる。そして、澄み切った水色の石は、まるで「泣くなよ」とでも言うかのように、ランプの光を浴びて優しく淡く瞬いていた。
「……これ、拾い物なんだから、換金するか捨てればいいのにね」
そう口では言いながらも、エルはそれを手放す気にはどうしてもなれなかった。
記憶を綺麗さっぱり消し飛ばしたはずの魔女の防衛本能すら突き抜けて、魂が「これだけは絶対に離すな」と命じている気がしたのだ。
「……うん、やっぱり返さない。私のものにしちゃおう」
エルはぐずぐずと鼻をすすると、そのピアスをそっと左耳のピアスホールへと差し込んだ。
カチリ、と小さな留め具の音がした瞬間、胸の奥の痛みが、ほんの少しだけ和らいだような気がした。
エルは左耳にそっと手を添え、窓の外――夜霧に閉ざされた深い深い森の空を見上げた。
「……どこかにいるのかな。私のこの、ぽっかり空いた穴を埋めてくれる誰かが」
まだ見ぬ誰かへの言葉にならない想いを抱えたまま、幼い魔女は、少しだけ温もりを取り戻した左耳を撫でて眠りにつくのだった。
それから、数年の月日が矢のように過ぎ去った。
森の奥で伸び伸びと引きこもり生活を満喫していた幼い魔女は、いつの間にかすらりと背が伸び、誰もが見惚れるような美しい大人の女性へと成長していた。……中身は相変わらず「薬草をすり潰すのが大好きなマイペース魔女」のままだったが。
そんなエルの左耳には、あの日から片時も外されることなく、例の「水色の石が付いた片方のピアス」が揺れていた。
このピアス、年月が経つにつれてちょっとした自己主張を始めていた。
時折、まるで誰かの心臓の鼓動に合わせるかのように、トクン、トクンと淡い青い光を帯びて優しく明滅するのだ。
「うーん……電池でも入ってるのかな? 魔法具にしては動力源が謎すぎるのよね……」
エルのファンタジー全開なツッコミはさておき、理由はさっぱり思い出せないものの、このひんやりとした石に指先で触れているときだけは、長年エルの胸の奥にぽっかりと居座り続けている「謎の心の穴」が、ふんわりと温かな綿で埋められるような安心感があった。
そのため、エルはすっかりお気に入りのアクセサリーとして愛用していたのである。
さて、そんな森暮らしのエルにも、たまには社会活動が必要だった。
自慢の薬草を煮詰めて作った万能薬や軟膏を木箱に詰め込み、森のふもとにある小さな村へ行商に出かけるのだ。
実はこの村、代々「森の魔女を温かく、かつ適度な距離で見守る」という、やたらと治安維持スキルの高い協定が受け継がれていた。
村の古老たちは知っていたのだ。かつて幼いエルが子犬を亡くして大号泣の末、ヤケクソでセルフ記憶消去をかまし、「なんか綺麗なピアス拾ったー!」とケロッと村にやってきたあの日のことを。
(あの子、自分で記憶消しちゃったからな……)
(触らぬ神に祟りなし、だが薬はめちゃくちゃ効くし……)
(とにかく温かく見守って、高値で買い取ってやろう……)
そんな村人たちの涙ぐましい気遣いのおかげで、エルはいつも「この村の人たち、いつも妙に優しいし薬もぼったくらずに買ってくれる! 超いい人たち!」とホクホク顔で帰路につくのがお決まりだった。エルにとってこの村は、唯一外の世界の温もりに触れられる安全地帯だったのである。
――だが、その日はあからさまに様子が違っていた。
「……ん? なんか今日、空気がザワザワしてない?」
村の入り口に足を踏み入れた瞬間、エルはピタリと足を止めた。
いつもなら「おやエルちゃん、今日もいい天気だねぇ」と、のんびりしたおじいちゃんが手を振くれるようなのどかな広場が、異様な熱気と騒がしさに包まれていたのだ。
ガハハと響く野太い笑い声、革鎧が擦れ合うジャラジャラとした金属音。
遠くの都市から流れてきたらしい、見るからに柄の悪そうな旅人の男たちが、数日前からこの村に居座っているらしかった。そして運の悪いことに、エルの納品日と、彼らが昼間から酒をかっくらして広場を占拠しているタイミングが、見事なまでにクリティカルヒットしてしまったのである。
「うわぁ……見るからに近寄りたくない人種がいる……」
トラブルが大嫌いなエルは、すかさずローブのフードを深く被り直した。
怪しまれないよう、そろりそろりと壁際をすり抜けて、村長の家へ直行しようとした――まさにその時。
チリッ。
「……痛っ!?」
エルの左耳で、ずっと大人しくしていた水色のピアスが、突然カッと熱を帯びた。
それどころか、普段の控えめな明滅が嘘のように、服の隙間からも漏れ出るほどの強い青い光をボワァッと放ち始めたのだ。
(えっ!? ちょ、ちょっと何これ!? 暴走!? 漏電!? なんで今光るのーー!?)
エルが慌てて耳元を手で押さえた、その瞬間。
ざわつく広場の一角で、酒樽を前にしていた旅人のひとりが、まるで強力な磁石に引き寄せられたかのように、クルリとこちらを振り返った。
「おいおいおい、見ろよ! こんな僻地のド田舎に、とんでもねえ上玉がいるじゃねえか!」
耳元を押さえてあたふたしていたエルの背後から、ツンと鼻を突く安酒の臭気と、聞くに堪えない濁った笑い声が降ってきた。
次の瞬間、万力のような力で手首をガシッ! と掴まれる。
「痛っ……! な、何するの!?」
「いいじゃねえか、減るもんじゃねえだろ? こっち来て俺たちに酒をつげよ。なんなら膝の上に座らせてやってもいいぜ、ガハハ!」
見上げれば、真っ赤な顔をして醜悪な笑みを浮かべていた筋骨隆々の大男。旅人たちのリーダー格らしきその男は、昼間から相当飲んでいるらしく、呂律が怪しいくせに握力だけはゴリラ並みだった。
「離して! 冗談じゃないわよ、誰がアンタの膝になんか座るか! 自分の酒くらい自分で注ぎなさいよ!」
エルは必死に腕を振りほどこうと抵抗したが、相手は引きこもりの薬草オタクと歴戦の荒くれ者である。腕力勝負で勝てるはずもなく、細い手首がみしみしと音を立てる。
異変に気づいた村人たちが、血相を変えてワラワラと駆け寄ってきた。
「お、おい! やめろ! その娘から手を離せ!」
「エルちゃんに触るんじゃねえ、この野蛮人が!」
普段は穏やかな村の男衆が鍬や箒を手に助けに入ろうとするが、旅人の取り巻き連中がニヤニヤと立ちはだかる。見るからに鍛え上げられた傭兵崩れの巨漢たちに睨まれ、村人たちはあっという間に押し返されてしまった。
「うるせえなジジイども! すっこんでろ! 俺たちが楽しく飲んだり暴れたりしてんだ、邪魔すんな!」
「きゃっ……!」
ぐいっと強引に引き寄せられ、エルの頭からフードがバサリと外れた。
さらりと零れ落ちる髪と露わになった白い肌に、男の目の色がさらに下卑たものへと変わる。
(どうしよう……! 痛い、怖い、やだやだやだ……!)
恐怖と理不尽な怒りで、エルの視界が真っ赤に染まった。
普段なら決して破らない「人里で魔法を使ってはならない」という魔女の鉄則が、頭の隅へ吹き飛んでいく。
(もう知るもんか! この無礼者、カエルに変えて畑の肥やしにしてやる……!)
エルが自暴自棄になり、手のひらにバチバチと緑の魔力を集中させようとした――まさにその時。
「――そこまでだ」
低く、しかし氷の刃のように研ぎ澄まされた冷徹な声が、ざわめく広場を真っ二つに切り裂いた。
冗談ではなく、その場の気温が数度下がったような凄まじい威圧感。
男たちの下卑た笑い声がピタリと止まり、エルの手首を掴んでいた男の指が、まるで風のような神速の動きによってパキッと外された。
「……あ?」
「なっ……なんだてめえ!」
男が怒鳴り返そうと振り返った瞬間、エルは目を丸くした。
いつの間間に割り込んだのか、長身の男が、自分を掴んでいた巨漢の胸ぐらを片手だけでヒョイッと軽快に持ち上げていたのだ。
「ぐえっ!?」
成人男性の巨体が、まるで干してある洗濯物のように宙に浮いている。
長身の男は眉ひとつ動かさず、手首のスナップだけでその巨体を後ろの酒樽めがけてポイッと放り投げた。
ドガラガッシャーーーン!!
派手な音を立てて男が酒樽ごと砕け散り、地面にひっくり返る。
「ヒッ……!?」
「な、なんだあいつ……!?」
取り巻きの荒くれ者たちが一瞬で白目を剥いて腰を抜かし、広場全体が水を打ったように静まり返った。あまりの怪力と圧倒的な強さに、エルも魔法を撃ち損ねたまま「え、人間ってあんな簡単に飛ぶっけ……?」と口をあんぐりと開けて固まってしまう。
そんな中、助けてくれた人物が、ゆっくりとエルの方へと向き直った。
上質な旅装束に身を包んだ、驚くほど美しい青年だった。
風にさらりと揺れる銀色の髪、彫刻のように整った凛々しい顔立ち。
そして何より――エルが息を呑んだのは、彼がすっと伏せていた瞼を上げ、自分を見下ろしたその瞬間だった。
(……あ)
息が止まるかと思った。
その瞳は、吸い込まれそうなほど透き通った、どこまでも深く澄んだ――水色。
自分の左耳で、今まさに狂ったようにカチカチと熱を放ち続けているあのピアスと、まったく同じ輝きを宿していたのだ。
青年は地面で伸びている男を一瞥すらすることなく、怯えて尻もちをつきかけているエルに向かって、すっと大きな手を差し伸べた。
「怪我はないか」
低く落ち着いたその声と、目の前に差し出された無骨な手のひら。
初めて会ったはずなのに、なぜだろう。その大きな手から伝わってくる空気感が、どうしようもなく懐かしくて、エルの心臓がトクン、と大きく跳ね上がった。
(……この手、知ってる……? ううん、そんなはずないのに……なんで……?)
左耳のピアスがジュクジュクと痛いほどに脈打つ中、エルは差し出された手を前に、ただ呆然と胸の高鳴りを持て余すのだった。




