第1話:静寂の森の幼い魔女と、嵐の夜の珍客
人が滅多に寄り付かない、霧深き「静寂の森」。
結界でがっちりガードされたその奥地で、幼い魔女エルは今日も今日とて、すこぶるマイペースに暮らしていた。
親の顔は知らない。友達もいない。話し相手は窓の外で揺れる木の葉くらい。
普通なら「なんて過酷で孤独な境遇……!」と誰もが涙するところだが、当のエル本人は、
「今日も薬草をすり潰す音が良い感じ! 孤独最高、スープが美味い!」
と、一人暮らしを満喫しきった引きこもり生活をエンジョイしていた。
そんな平穏なインドアライフが崩壊したのは、バケツをひっくり返したような嵐の夜のこと。
バリバリと雷が鳴り響くなか、扉の向こうから「……くぅん」と、今にも消え入りそうな音がした。
「……ん? 風の音……にしては湿っぽい声だな」
お気に入りのショールを羽織り、そっと扉を開けてみる。
足元の水たまりに、泥団子……ではなく、銀色の毛玉が転がっていた。
手のひらサイズの子犬だ。雨でぐっしょり濡れ、ガタガタと震えている。
「ちょ、ちょっと! なんで結界をすり抜けてんの!? っていうか風邪ひくじゃん!」
エルは慌てて泥まみれの子犬をすくい上げると、暖炉の前へダッシュ。
指をパチンと鳴らして薪に火をつけ、お気に入りのウールマントで子犬をぐるぐる巻きのロールケーキ状態にした。
「大丈夫!? 息してる!? ほら、あったかいよ!」
必死にゴシゴシと拭いてやると、もこもこの中から、ひょこっと丸い頭が出てきた。
濡れそぼった長い睫毛が瞬き、エルをじっと見つめる。
その瞳は、吸い込まれそうなほど綺麗で澄んだ――水色だった。
子犬はエルの顔をじーーーーっと凝視すると、
「くぅ……ん(※訳:ふっ、仕方ない、世話されてやるか)」
とでも言いたげに深いため息を一つ吐き、エルの指先をペロッと舐めた。何故かその仕草が無駄に気品に満ち溢れている。
「……くぅ、って鳴いたね。よし、あなたの名前は今日から『クゥ』だ!」
こうして、エルの静かな一人暮らしは「やたら態度のデカい子犬との共同生活」へとクラスチェンジした。
***
クゥは子犬のくせに、妙に人間くさかった。
朝、エルが二度寝しようとすると、前足でペシペシと正確に頬を叩いて起こしてくる。
森へ薬草摘みに出かければ、エルの籠の中にふんぞり返って陣取り、まるで「そこの草だ、摘め」と指示を出す現場監督のような顔でフンスと鼻を鳴らす。
極めつけは夜のスープだ。
「はいクゥ、特製ミルク入り薬草スープだよ」と差し出すと、クゥは前足で器のフチをトントンと叩き、
「……まず器を拭け」と言わんばかりの視線をエルに向けてくる。
「何その目! 文句あるなら自分で作りなさいよ!」
ギャンギャン言い合いながらも、クゥが美味しそうにスープを平らげると、エルは思わず顔をほころばせた。
(――ふふ。うるさいけど、あったかいな)
自分より遥かに小さいのに、たまに妙に男前な眼差しで見つめてくる謎の子犬。
エルにとってクゥは、退屈だった毎日にやってきた、初めての騒がしくて愛おしい「家族」になったのだった。
だが、そんなドタバタで幸せな日々は、ある朝、唐突にクラッシュした。
「ふわぁ……よく寝た。おいクゥ、今日の朝ごはんは……」
寝ぼけ眼で隣に手を伸ばしたエルだったが、触れたのは冷え切ったシーツの感触だけだった。
「……クゥ?」
目を開けると、そこに毛玉の姿はない。
見れば、頑丈なはずの小屋の扉がスーッと開いており、寒々しい風が吹き込んできていた。
「嘘でしょ!? 鍵かけて寝たのに! 犬が自力で閂開けて脱走したの!?」
エルはパジャマのまま外へ飛び出した。
「クゥーーー! どこ行ったのー! 朝ごはん抜きにするわよーー!」
森中を叫び散らしながら駆け回ること小一時間。
息も絶え絶えになって辿り着いたのは、森の奥の泉だった。
そこに、クゥの姿は――なかった。
代わりに、泉のふちの苔の上に、キラリと朝日に照らされて主張の激しい物体が落ちていた。
「……え? なにこれ」
拾い上げてみると、やたらと細工が細かく高級そうな、水色の石が付いた片方のピアスだった。
「…………は?」
エルの脳内で思考が高速回転する。
犬を探しに来たら、犬はいなくて、代わりに貴族が身につけるような超高級ピアスが落ちている。
(えっ、なに? クゥはどこ!? まさかこのピアスに変化したの!? いやいや、百歩譲って誰かに攫われたとして、身代金の要求にしては置いていったものが高価すぎるでしょ!!)
ツッコミが追いつかない。
だが、どれだけ呼んでも、あのフンスと鼻を鳴らす生意気な毛玉は戻ってこなかった。
静まり返る森。手の中に残された冷たい金属。
状況のシュールさに反して、エルの胸の奥に、じわじわと耐え難い痛みが広がっていった。
(いなくなっちゃった……。あんなに毎日一緒にいたのに……)
ぽっかりと空いた心の穴。
一人ぼっちだった頃には戻れない。あのもふもふの温もりを知ってしまった今、またあの静けさに耐えるなんて、絶対に無理だ。心が張り裂けて死んでしまう。
「……う、うわぁぁん! 痛い! 胸が痛いよぉぉぉ!」
大号泣しながら、エルは涙でぐしゃぐしゃの顔で叫んだ。
「こんなに辛いなら……! こんな気持ち、忘れちゃったほうがマシよ!!」
ヤケクソになった幼い魔女は、全力で胸に手を当て、禁忌の術式を展開した。
魔力を込めて、力いっぱい叫ぶ。
「消えろ私の記憶! あんな生意気な毛玉のことなんて綺麗さっぱり忘れてやるんだからーーー!!
あ、でもやっぱり全部忘れるのは嫌だから、悲しい気持ちだけ忘れるーーー!!」
バチィィィィン!! と小屋が揺れるほどの閃光が弾け、エルの頭部を直撃した。
あまりの魔力の衝撃に、エルは白目を剥いてその場にバタリと倒れ込んだ。
…………数分後。
「……いたたた」
エルは頭をさすりながら、のそのそと起き上がった。
「あれ……? 私、なんでここで突っ伏して寝たんだっけ? ……ていうか、なんで泣いてるの私? 朝の散歩中に盛大に転んだ?」
忘却魔法は、大成功だった。
ただ、途中で切り替えたつもりだった魔法は、最初のクゥとの思い出全ての忘却のほうがすでに発動してしまっていた。
それによってクゥの名前も、共に過ごした日々も、全部綺麗さっぱり霧の彼方へ消え去っていた。
「……ん? 手に何か握ってる……」
手のひらを開くと、そこには見覚えのない、けれどやたら綺麗な水色のピアスが一つ。
「なにこれ、綺麗……。え、道端で高級ジュエリー拾っちゃった? ラッキー……ってこと?」
何故か胸の奥がチクッと痛む気もしたが、エルは「まあいっか! 似合うかも!」と、よく分からないままそのピアスを自分の左耳にパチンと装着した。
こうして、愛犬を失った悲劇のヒロインになるはずだった魔女は、盛大なセルフ記憶喪失により、「なんか耳元がおしゃれになった魔女」として、再び呑気な日常へと戻っていくのだった。




