第14話:王宮ぐらし無期限延長と、騎士団長の秘密の姿
息を整えてようやく床から起き上がったエルの頭上から、静まり返った執務室を切り裂くように、クロエの低い声が降ってきた。
「エル……『森へ帰る』って? しかも、すぐに?」
「ま、まぁ……家も心配だし、いつも薬を卸している村のみんなも気にかかるから……」
なぜだろう。クロエの切なげで、しかしどこか有無を言わせぬ圧力を帯びた瞳で見つめられていると、自分は何も悪いことをしていないはずなのに、まるで通信簿で「授業中に居眠りをしました」と親に怒られている子どものような、気まずい罪悪感がむくむくと湧き上がってきた。
(えっ、待って。私、何か犯罪級の我が儘言った? 被害者は私なんですけど!?)
心の中でふつふつと無実を訴えるエルをよそに、今度は机の奥からシルフがスッと立ち上がった。その端正な顔立ちは、先ほどの和やかな雰囲気から一転して、王国の重鎮としての冷徹な鋭さを纏っている。
「エル殿。それはできない」
「えっ!?」
あまりの即答に、エルは思わず間抜けな声を上げた。
「誤解しないでいただきたいのですが、エル殿の意思を否定するわけではありません。ただ、今すぐに森へ帰るということは、物理的に許可できないということです」
「……どういうことですか?」
「今回の呪いの事件の首謀者が、まだ捕まっていない。その状態でエル殿が城を離れ、たった一人で森の小屋へ戻るということは、犯人にとって『一番無防備で格好の狙い目』を自ら差し出すようなものです」
シルフの言葉に、クロエがすっとエルの前に一歩歩み寄り、切実な眼差しでその肩に手を置いた。
「つまり……エル。リリアーナ様を救ったことで、君はすでにこの王宮の陰謀の中心にいる。犯人からすれば、唯一の治療手段である君を排除したい、あるいは自分たちの都合のいいように利用したいと考えているはずだ。……君もまた、奴らのターゲットにされているんだ」
――嘘でしょーーー!?
エルの脳内で、盛大に警報ブザーが鳴り響いた。
(ちょっと待ってよ! 私はただ、馬車に揺られて美味しいお菓子を食べて、街のハーブ屋さんを眺めて「王都すごい!」って感動して帰るだけの予定だったはずでは!? なんでいつの間にか、命を狙われる暗殺未遂の共犯者みたいなポジションに昇格してんのよ!)
静寂の森でひっそり薬草をすり潰していただけの、穏やかで平和な引きこもりライフは、完全に音を立てて崩れ去っていた。 自分の左耳で、水色のピアスが「ここからが本当のサバイバルだぞ」とでも言うように、かつてないほど激しく、冷たく青い光を放って脈打つのだった。
「じゃあ……犯人さえ捕まったら、すぐに森へ帰れるんですよね?」
エルがすがるような気持ちで問いかけた瞬間。
「「「…………」」」
王太子シルフ、騎士団長クロエ、そしてお姫様のリリアーナ――なぜかその場にいた三人全員が、一斉に見事にすっと視線を逸らした。 誰も、その問いに「ああ、そうだ」と返事をしない。
(……え? なんでみんな急に遠くを見つめ始めたの? 星空でも見えてるのここ室内だよね!?)
嫌な予感しかしない沈黙に耐えかねて、エルは半ば引きつりながらシルフへと詰め寄った。
「で、殿下。犯人の目星は、もうついているんですよね……?」
「いや……それが、今のところ怪しい人物のリストすらない。貴族なのか、男なのか女なのか、そもそも城の人間かすら分かっていない状態だ」
シルフの歯切れの悪すぎる回答に、エルは白目を剥きかけた。
(手掛かりゼロじゃん!! じゃあいつ犯人が捕まるの? 明日?来年? 十年後!? 私の静かな森の小屋が、その頃には完全に野草に飲み込まれて森の一部に帰っちゃうよ!)
絶望に打ち震えるエルの横で、リリアーナはふわりと上品に両手を合わせ、なぜかものすごく嬉しそうにとろけるような笑みを浮かべた。
「ふふっ。では、この事件が解決するまで、まだまだ時間がかかりそうですわね」
「り、リリアーナ様……?」
「エル様、私、魔法について知らないことだらけなんですの! だから、このお城にいらっしゃる間でいいので、色々と面白いお話や魔法の仕組みを教えてくださいな!」
きらきらと少女漫画の背景のように目を輝かせるリリアーナ。 お姫様のご機嫌な提案の裏で、エルの頭の中では「引きこもり魔女、王宮ぐらし無期限延長・強制労働決定のお知らせ」という悪夢のテロップが盛大に流れていた。
(やばい……このままだと私、王宮の一室に監禁されて、いつの間にか『宮廷専属・呪い専門の便利屋魔女』として一生こき使われるルートに入ってない……!?)
ガタガタと震え出すエルの背中にそっと歩み寄り、クロエは「安心していい、俺が守るから」と言わばかりの熱い眼差しを注いできている。 逃げ場なし、完全包囲。 世間知らずで不器用な魔女の、波乱万丈すぎる王都ライフは、まだまだ終わる気配を見せなかった。
***
ーー次の日。
今日は、リリアーナの治療が完全に完了する記念すべき最終日だった。
(……これで、無事に治療が終わる。本当はめでたいことだし、喜ばしいはずなんだけど……)
エルは窓の外の景色を見つめながら、複雑な気持ちで小さいため息をついた。 犯人が捕まるまで王宮から一歩も出られないという現実が、「私の平穏な引きこもりライフが遠のいていく……!」という絶望感とともにずっしりと重くのしかかっている。
まだ朝日が昇りかけて間もない、世界がまだ青みがかった薄闇に包まれている早朝のことだった。 眠気覚ましに窓を開けて冷たい朝の空気を吸い込んでいたエルの視界の隅で、ふと、中庭の植え込みのあたりで動く影が捉えられた。
(……ん? あれは……犬? いや、にしてはちょっと大きいな。野良の大型犬……にしては姿勢が良すぎるか? 狼かな?)
首をかしげるエルの視線の先で、漆黒の美しい毛並みを持った一匹の大きな狼が、まるで人間のように静かに木の根元に腰を下ろしていた。
(なんだか、あの背中……妙に見覚えがある気がする……)
森で動物たちと暮らしていたわけではないのに、なぜかその後ろ姿に胸の奥がざわめくような違和感を覚える。どこでこんな生き物を見たっけと考えていた、その時だった。
(え……?)
薄暗い中庭の影で、その狼の体がふわりと淡い光に包まれた。 驚きに目を見開くエルの前で、獣のシルエットがみるみるうちに形を変え、しなやかな人間の男性の姿へと変化していったのだ。
「――っ!?」
絶句して息を呑むエルの視線の先。 そこに立っていたのは、見慣れた黒い軍服をまとい、整った銀髪を朝風になびかせる近衛騎士団長の姿だった。
「……クロエさん……?」
そのまま、クロエは周囲に誰もいないことを確認するかのように一瞥すると、何事もなかったかのように悠然とした足取りでその場を去っていった。
ふわり、とカーテンがエルの頬を撫でる。 部屋に取り残されたエルは、頭の中で盛大に警報器が鳴り響くのを感じながら、窓枠にしがみついたままガタガタと全身を震わせるのだった。
窓枠に両手をすがりつかせたまま、エルはポカンと口を開けたまま固まっていた。
(い、いま……クロエさんが……狼から人間の姿に変わった……よね……!? 幻覚じゃないよね……!?)
早朝の冷たい空気が肺にしみるが、それどころではない。頭の中の思考回路が完全にショートを起こして火花を散らしていた。
(えっ、待って待って待って! クロエさんは人間じゃなかったの……!? え、じゃあ何? あの人、実は人外の魔獣とかそういう系……!?)
これまで「冷徹で頼れるイケメン騎士団長」だと思っていた男性が、まさかの朝の庭で変身ポーズをキメていたという衝撃の真実。 インドア生活の長いエルにとって、これは人生最大のキャパシティオーバーだった。
さらに、脳内で恐ろしい疑念が鎌首をもたげる。
(……待って。もしかして、クロエさんが今回の事件の犯人……?)
リリアーナを呪い殺そうとしていたのは、実はあの騎士団長本人だったのでは――? そう考えれば辻褄が合う気もしてくる。王宮の警備をすり抜け、誰も気づかないうちに呪いを仕掛けることなど、最強の騎士団長であれば朝飯前だろう。
(でも……! でもさ……!)
エルの脳内で、必死の反論会議が巻き起こる。
(もしクロエさんが犯人なら、なんでわざわざ私のところまで夜通し馬を飛ばして迎えに来たの? わざわざ『王国唯一の呪いを解ける魔女』を城に連れてきて、自分の犯行をわざわざバラすような真似をする……!?)
それに、ハーブ専門店へ連れて行ってくれたときに見せたあの真剣な表情や、店主を問いただす鋭い眼光、そして何より――あの優しく頭をポンポンと撫でてくれた大きな手の温もりは、どう見ても「演技」や「犯人側の余裕」とは思えなかった。
(ううう……分かんない! 頭から煙が出そう……!)
エルは両手で自分の頭をガシガシとかきむしり、ベッドの上にバタリと倒れ込んだ。 人間かどうかも怪しいし、犯人なのか味方なのかも分からない。けれど、あの時の切なげな瞳や、自分を守ろうとしてくれた必死な姿を思い出すと、「やっぱり悪い人じゃないはずだ」という直感がどうしても消えてくれない。
(今日でリリアーナ様の治療も終わるし……。夜になったら、もう一度あの人のこと、ちゃんと観察しなきゃ……!)
混乱と動揺を胸に抱えたまま、引きこもり魔女は、人生で最も落ち着かない最終日の朝を迎えるのだった。




