お父さんはママならない
「ご指名ありがとうございます、彰人です」
「彰人さん、綺麗なひとだ……失礼ですが彰人さんは男性で、女装なさってるんですよね?」
「綺麗って……照れますね。ありがとうございます。はい、女装していますよ」
「彰人さん! どうか私に女装を教えてください!」
テーブル席に着くなりとなりに座ったオレに、新規のお客さんが開口一番そう言った。
このお客さんは、入ってくるなりスタッフを見回してオレを指名してくれたひとである。
基本的にドクターストップは茂美の手が空いていれば、茂美が話を聞く。
ただ、お客さんが誰かと話したいと言えばそのスタッフが接客を担当することもあった。もともと指名制のある店ではなく、茂美はドクターストップはお客さんたちが自由に飲む空間を目指しているそうで、指名料などは特にない。
「女装希望のお客様ですか、えっと、お客様なんとお呼びすればよろしいでしょうか?」
「おっと、これは失礼しました」
そういうと男性はスーツの胸ポケットをまさぐる。グレーのスーツに整髪剤で整えた髪型。ちょっと生えかけているヒゲにくたびれた表情。いかにも仕事帰りという感じだ。
年のころは三十台中盤といったところであろうか。
「私、こういうものでして。どうぞよろしくお願いいたします」
男性は名刺を取り出すと立ち上がり、腰を九十度近く折り曲げて名刺を差し出してきた。
オレは慌てて立つと、同じように深々と頭を下げて名刺を受け取った。なんとも生真面目なお客さんである。
「お名刺、ありがとうございます。ええと、島本良平さん、ですね。今日はどうぞよろしくお願いいたします」
「はい、よろしくお願いします! ぜひ、女装のやり方を!」
「か、かしこまりました。女装希望ということで……」
島本さんの熱意に押され、オレは苦笑しながらうなずいた。とりあえず席で飲み物をと思っていたが、この様子ではとにもかくにも女装が最優先のようだ。
オレはカウンターのそばに行って、茂美に声をかけた。
「茂美、お客さんが更衣室使うよ。なんか女装を教えて欲しいってことだから、オレも一緒に入るから。よろしく」
「オッケー、了解よ~ん。彰人、初めての女装レクチャーじゃない。頑張ってお客さんをとってもビューティーにしてあげるのよ」
「自信はないけど、オレも勉強したからな、頑張る! それじゃあ、ちょっと更衣室行ってくる!」
島本さんの手を取って、更衣室に入る。
更衣室はだいたい六畳半ほどの広さがあり、照明は白熱灯の光でとても明るい。美容室なんかであるような照らし方で、身も蓋もなくいうなれば実物よりもちょっとよく見えるライトを使った鏡台がふたつ並んでいる。
ほかに埋め込み式のクローゼットと、衣装を並べる大きな什器にさまざまな服やコスチュームやウィッグが用意されていた。これだけのラインナップがあれば、さまざまなご要望にお応えできるだろうと茂美が力を入れた空間である。
「じゃあ島本さん。スーツはお預かりしますので、こちらの鏡台の椅子に座ってください」
「はい! お願いします!」
「えっと、髪型とか服装とか、こんな風にしたいっていうご希望はありますか?」
鏡越しに島本さんをのぞき込んで問いかけると、彼の表情が一瞬かげった。
疲れた目がかすかに悲しい色をたたえたが、すぐに笑顔に塗りつぶされる。
あの表情はなんだったのだろう。これから楽しく女装しよう、というひとの顔には見えなかった。
「あの、どうかなされましたか?」
「いえいえ、色々あって迷っちゃって。恥ずかしいんですけど……」
そういって、島本さんがスマートフォンを取り出した。画面には、穏やかな笑みをたたえた美しい女性が映っている。
「無理なのは十分承知しているんですが、出来るだけこの女性に似せられないでしょうか?」
「とってもきれいな方ですね。わかりました、難しいことですが、やってみましょう」
オレと同じくらいの髪の色と長さ。目の大きさも近いかもしれない。これが、オレが指名された理由であろうか。メイクはナチュラルで、清楚な雰囲気を感じるひと。
なかなか難しいリクエストだが、とにかく今は島本さんの要望に全力で応えるのみだ。
「メイク道具の準備をしますので、そこのヒゲそりで軽くヒゲをそっておいてください」
「はい、かしこまりました!」
生えかけたヒゲを処理してもらっている間に、島本さんの肌の色に近い化粧下地とファンデーション、それにコンシーラーを準備する。
少し発色を良くした方が、先ほどの女性のイメージには近いだろう。無理のない範囲で、明るめの色をチョイスする。フェイスパウダーは出来るだけ自然な仕上がりになるものを選んだ。
鏡台のほうを見ると、島本さんがヒゲそりを終えそわそわしているところであった。
「お待たせしました。ヒゲそれましたね、お疲れ様です。それじゃあまず洗顔からいきますね。ちょっと冷たいですよー」
本来なら洗顔料を使い洗面所で顔を洗うのが望ましいが、さすがに店内でそれはできない。そこで使うのがドクターストップ一押しの『拭くだけキラリ★洗顔シート』である。
ウエットティッシュに似た見た目のシートで、島本さんの顔を丁寧に洗顔していく。
次にコットンに化粧水をたっぷりしみこませて、肌が吸収するようにポンポンと軽くたたくように顔に慣らしていく。
最後に乳液を顔全体に塗って、まずは下準備オーケーだ。
「じゃあ、これからお化粧に入りますね」
「よろしくお願いします。……女性のメイクって、始める前から大変なんですね」
「あはは、オレも最初は戸惑いました。でも慣れですよ。慣れればあっという間ですから」
かくいうオレがいまだに慣れていないわけだが。それでも、ナルや茂美に教わった知識を総動員して、島本さんにメイクを施していく。
緊張しているのが伝わらないように、常に笑顔で応対を心掛けた。
「まずは化粧のノリを良くして綺麗にするために、化粧下地を塗りますね」
島本さんは当然男性なので、ここはテカリ防止機能に優れた化粧下地を塗っていく。次はファンデーションである。
「くすぐったかったら言ってくださいね」
「ふぁい!」
鼻さきを通っていくスポンジに、ムズムズした顔で目を閉じた島本さんが喋りにくそうに答えた。
顔の中央、おでこの中央から外側へしっかりとのばし輪郭まで丁寧になぞる。
お次はコンシーラー。ファンデーションでカバーしきれない部分に、適量使っていく。
島本さんは男性だし、普段あまりスキンケアなどしないだろうから、少々使いたい部分が多い。クリームタイプでやりすぎない程度に塗って、目立つ場所をナチュラルにケアしていった。
緊張したまま座っているのに疲れたのか、島本さんがもぞもぞと動いている。
「もう少しでお肌仕上がりますからね。休憩入れますか?」
「いえ、ぜんぜん大丈夫です! 続けてください!」
目を閉じたままそういうと、島本さんが背筋をすっと伸ばした。オレもひとに化粧をするのはまったくと言っていいほどなれていないので、姿勢がしんどい。だが島本さんが頑張っているのだから、オレが弱音をはくわけにはいかなかった。
コンシーラーを終えた島本さんの顔に、フェイスパウダーをポンポンと軽くなじませていく。うん、肌はいい感じに出来た、と思う。
お次は眉をどうにかしたいが、さすがに女性のように描けるほど剃るわけにはいかないだろう。島本さんの日常生活に影響が出てしまう。ここはハサミで少量だけカットし整える。さて、続いてはアイメイク。
「島本さん、目のお化粧をしますので、ちょっとこっちに身体を向けてください」
「はい。こうですか?」
「そんな感じです。まずはアイシャドーしますので、目を閉じたままでお願いします」
最初にアイシャドウである。スマートフォンで見た女性の目元は自然な雰囲気だったので、ナチュラル感を大事にしてピンクブラウンを選択。うわまぶたの部分に小さなハケで丁寧に塗っていく。何度か目を開けてもらいながら調整し、お次はアイライン。
ついついバッチリと描きすぎてしまうことが多いが、これはやりすぎるといかにもなオネエさんになってしまうので、女装では注意しなくてはならない。
目頭部分に薄く入れ、黒目のうえにも描いて自然体で目がぱっちりと見えるようにする。最後に黒目の外側から目の切れ際にかけてゆるく引いて終わり。
「ちょっとまつ毛をあげますね」
「まつ毛をあげる!?」
驚いた声をあげる島本さんの閉じてしまいそうな目にピューラーをあて、まつ毛の角度を調節。ゆるりとできたカールを保持するようにマスカラを当て、少しして上にあげる。
マスカラもまた、やりすぎるとケバくなるアイテムである。重ね塗りはせずにまつ毛を三か所にわけて整えていく。
したまつ毛にもかるくマスカラを当て、アイメイクはオッケーだ。つけまつ毛はお好みによるが、写真の女性に近づけるなら特に必要はなさそうであった。
最後に全体のトーンを崩さない、落ち着いた色のリップをつけてメイクの完成。
「島本さん、オレの手を握って。目を閉じたままこっちへ来てください」
「はい。……柔らかい」
えっ、オレの手柔らかい?
なにそれちょっと嬉しいんだけど。というのは置いておいて、今メイクだけ完成した姿を見せても、顔だけ出来上がったオッサンになってしまう。ボブカットのウィッグをかぶってもらい、丁寧にならす。
服装は大きめのサイズもあるので、写真のひとに寄せて白のワンピースにする。肩幅があっても着やすいアイテムであるとともに、カーディガンなどの羽織をダークトーンで選んであげると、肩幅も少し小さく見えるので使いやすいのだ。
着替えを終えた島本さんを大きな姿見の前まで誘導する。
「それじゃあ、島本さん。今あなたは姿見の目の前にいます。メイクアップした自分の姿を確かめてみてください」
オレの言葉に、島本さんがゆっくりと目を開く。生まれ変わった自分の姿に驚いたのか、短く声をあげたものの――。
「おおっ! おおー……こうなるか。うーむ」
「お気に召しませんでしたか?」
「あっ、いえいえ! こんなに素敵にしていただいて、本当に光栄です! こんなに変わるものなんだなぁとびっくりしています。ただ、写真の女性のようになるのはやっぱりそんな簡単じゃないですよね」
「それは……そうですね。出来るだけ雰囲気は似せましたが、やっぱり違うひとですし、骨格もぜんぜん違いますし。同じようなアイメイクはしましたが、持って生まれた目元までもそっくりにはなかなか……」
「ですよね。うん、そうですよね……」
いろいろな角度から自分の姿を確認して、残念そうに息を漏らす島本さん。
オレの女装させるスキルが足りなかったのだろうか。いわゆる男の娘というには無理があるが、スーツ姿でスッピンのときとはまったく別人になっただけのクオリティにはできあがったと思ったのだけど。
女装を始める前に垣間見せた悲しげな表情がよみがえる。なにか訳があるのだろうか。
「良かったら、テーブルに戻りませんか。お話もしたいですし」
「ああ、ですよね。はい! じゃあ、メイクを落として」
「島本さん、ここは女装バーですから。もし差し支えなければ、そのままの格好で大丈夫ですよ」
「このままの格好でお店に!? ううーん」
口元に手を当ててうなった島本さんが、はにかみながら顔をあげた。
「そうですね。お姉さんに、あっ違うお兄さん? えーっとお姉さんは違うし、お兄さんはなんか、失礼かも? なんと呼んだらいいでしょうか?」
「お気遣いいただきありがとうございます。彰人と呼んでください」
「じゃあ、彰人さんと呼ばせて頂きます! せっかく彰人さんが丁寧にメイクしてくれたんだし、なんだか照れくさいけどこのまま出ようかな」
連れたって更衣室を出ると、茂美がすかさず寄ってきた。
「あ~っら、ダンディな企業戦士が美少女に早変わりよー! イケてるー! 茂美もドッキドキだわぁー! んぅぅ~」
「いやぁ、ママさんそんな大声で。お店で目立っちゃうから、ね」
島本さんが謙遜し、オレも目で茂美を制した。すると「んぅぅ~」と言いかけていた茂美が流れるように身体の向きを変え、カウンターへと向かっていった。
「んぅぅ~ウッホウッホホホホ! 茂美オススメ『カマすオレンズ』準備出来たわよ~!」
すかさず出かかった言葉をオススメメニューの宣伝に言い換える茂美。さすがのゴリラテクニックである。
島本さんに注文を聞き、茂美にドリンクを頼むと島本さんとともにもといた場所のテーブルに並んで腰かける。改めて、となりからメイクを終えた顔をのぞき込んだ。我ながら上出来であるが、島本さんの表情はすぐれない。
「ごめんなさい。女装とメイク、あんまり島本さんのお好みに出来なかったですね」
「いやいやいや! そういうわけではないんです! 自分がこんな風に変わって、びっくりしているし、違う自分になったような気もします。ただ……」
言葉を切って、島本さんが下を向いた。ふたりの空間に、気まずい沈黙がおとずれる。何かしら言葉をかけて、場の空気を変えるべきだろうか?
だけど、島本さんの悲しげな顔から紡ぎ出される次の言葉こそが大切な気がして、オレはぐっと息を飲んでこらえた。そして、そっと島本さんの膝に手を置いた。
テーブルのうえで組んだ指先をかすかに動かしながら、島本さんが再び口を開いた。
「さっき写真で見せた女性、私の妻なんです」
「島本さんの奥さんですか?」
奥さんそっくりに仕上げて欲しい?
少し不思議に思いながら、島本さんのさみしげに伏せた目元をじっと見つめた。
「実はですね。三年前に、妻は病気で亡くなっていまして」
「えっ、お亡くなりに……」
「娘もまだ七歳でした。妻自身、この世に残したものが多すぎる死だったと思います。私も必死でした。仕事だって大変なときだったのに、生涯の伴侶をいきなり失って……」
テーブルにさりげなく置かれたふたつのカマすオレンジの片方を、そっと島本さんの前に置いた。鮮やかなカシスとオレンジが混じり合うグラデーションを見上げ、島本さんがグラスにそっと触れる。
「しばらく、茫然自失でした。ただ、私には娘がいます。妻との間に生まれた、大切なふたりの宝物です。心の中心に穴が開いたまま、私はなんとか身体を動かしました」
大切なひとを失っても、立ち止まることすら出来ない立場。
想像が及ばないくらい、どんな言葉でも足りないほどに――。呼吸をすることすら苦しくなってしまうような、胸を締め付けられる状況だろう。
「今まで妻がやっていたことも、自分なりに必死でこなしてきたつもりでした。娘の学校はお弁当なんですが、それも慣れないながらに早起きして作ったり。学校行事にも、時間を見つけて顔を出したり」
「本当に、大変な時間を過ごされたのですね」
オレの言葉に、島本さんが顔を下に向けたまま何度か頷いた。そしてグラスのオレンジを少しだけ飲んで、唇をかみしめるようにして続けた。
「三年間、必死に走り続けました。最近になって娘も大きくなって、心に少しだけ余裕が出来たというか、あっという間に過ぎ去ってしまった三年を振り返ってみたんです」
「振り返って、どうでしたか?」
オレの問いかけに、島本さんは自嘲気味に弱々しい笑みを浮かべた。
「父親として、娘に……遥香に出来るだけのことは出来たと思います」
「きちんと、お父さんの役目とお仕事を全うされたのですね。軽々しくオレの言えることじゃないんですけど、すごいことだと思います」
「父としては、私は及第点だったかもしれません。だけど、私は亡くなった妻の分、母親としての役割も果たさなくっちゃいけなかった。それなのに母親として、私はなにも出来ていなかった。気付いたとき、愕然としました。この三年間は、私の自己満足だったんじゃないかって」
「そんな!」
最愛の奥さんを亡くして、父親の役目も仕事も全力で果たしてきたのに。それで自己満足だと思ってしまうなんて、あまりに厳しすぎる。
「もっと遥香に甘えさせてあげたかった。遥香はね、妻が亡くなってから、ぜんぜん泣かなくなったんですよ。あんなに泣き虫だったのに。わがままも言わないで、寂しい生活を耐え忍んでくれた」
「それはきっと、島本さんのことを遥香ちゃんがよく見ていたからじゃないですか? お父さんの頑張りが、きちんと娘さんに伝わっていたんじゃないですか?」
「だとしたら、私は遥香に甘えてしまっていたんじゃないかって。そう、思うのです。お父さん頑張ってるから、遥香も我慢してね、そう無言で言っているような……」
「でも! ひとりの人間に、何もかもこなすことなんて出来ないです。島本さんは父親としての役目をはたして、学校のことにも参加して、もちろんお仕事だってこなして。遥香ちゃんにとって、自慢のお父さんなんじゃないでしょうか?」
ああ、このひとはたったひとりで何もかも背負い込んでしまったんだ。
島本さんの心労を思うと息が詰まる。さっきウィッグをかぶせるときに垣間見えた白髪が、彼の苦労を語っていた。
「お父さんにはなれても、どうしてもなんとかしてお母さんとしても何か……って考えてしまって。実は再婚とかも、考えたんです。でも、すぐにその考えは捨てました」
「どうしてですか?」
「娘の母親代わりを探すためだけの再婚なんて、相手に失礼過ぎる。婚活を始めるまえに、ギリギリそれに気が付けたので」
このひとはどこまでも配慮が出来て、どこまでも優しいひとのだ。力ない笑みをたたえる横顔を見つめて、オレは島本さんの言葉に頷いた。
「再婚計画も捨てて、それでどうにも行かなくなってここを訪れたんです。なんとかして、妻の面影を遥香に見せることが出来ないかなと思って」
「だから、ここに女装をしに来たのですね」
「はい。……でもちょっと、無理がありすぎましたね。ははっ、こんな無茶に付き合わせてしまって、申し訳ございませんでした」
オレのほうに向きなおり、頭を下げる島本さん。
何が出来る? オレはこのひとのために、そして遥香ちゃんのためにいったい何が出来るのだろう。どうすれば、彼の心の荷物を少しでも軽くしてあげられるのか――。
「島本さん、この格好で遥香ちゃんに会ってみませんか?」
思ったとき、オレは言葉に出して言っていた。
「えええっ!? こ、このメイクと服装で、遥香にですか!?」
「はい。もともとは、島本さんもそのつもりでここにいらっしゃったんですよね? だったら思い切って、遥香ちゃんに見てもらいましょう」
「でも、妻のようにはとてもなれなかったですし」
「いいんですよ、似ていなくても。島本さんが、奥様そっくりに変身して遥香ちゃんに会おうとしたっていう事実を、その気持ちを遥香ちゃんに伝えてあげましょう」
「気持ちを、伝える……」
島本さんがグラスを両手で抱えるようにして、考え込んでいる。
オレはここまでひとのことを、誰より遥香ちゃんのことを考えて行動し続けた島本さんの気持ちを、どうしても遥香ちゃんに知って欲しいと思った。
遥香ちゃんが呆れるか、笑うか、泣くか――。彼女を知らないオレにはその反応までは予想できない。だけど、お母さんを亡くしてからわがままも言わなくなり、泣くこともなくなった、そんな父親思いの子なら。
きっと島本さんの気持ちのかけらくらいは、伝わるはずだ。どれだけ遥香ちゃんを思っていたか、オレはなんとかしてその思いを彼女に届けたい。
「遥香ちゃんのことを思って、島本さんはここまでやったんじゃないですか。今の姿だってそうです。それをぜんぶありのままに、遥香ちゃんに伝えましょう! オレに出来ることだったら、なんでも協力しますから!」
「遥香に、ぜんぶ……。そうですね。私は、伝えることをおこたっていたのかもしれません。わかりました、やります!」
それから数日のあいだ、島本さんは会社帰りにドクターストップにより、メイクと女装の練習やスキンケアの勉強をしていった。
そして土曜日、とうとうメイクした島本さんが遥香ちゃんと会う日がおとずれる。
朝の七時、小さな女の子を連れた島本さんが店にやってきた。
「どうも。今日はよろしくお願いします」
「お父さん、このお店でいったいなにをするの?」
茂美にやや驚きつつ、遥香ちゃんが大きな目をぱちくりとさせた。ドクターストップの雰囲気は、小学生の女の子には独特だろう。
小学四年生だという遥香ちゃんは、好奇心旺盛そうなよく動く瞳のわりに落ち着いた雰囲気をまとっていた。彼女もまた、様々なことに耐えてこの三年間を過ごしていたのかもしれない。
肩で切りそろえられた柔らかな黒髪が、遥香ちゃんが首を左右に動かすたびに繊細に揺れ動いていた。可愛らしいヘアゴムで、ちょこんと頭の上に一束の髪がまとめられていた。
「お父さん、ちょっと奥に行ってくるから、遥香はここで待っていてね」
「えっ、私だけここでお留守番? お父さん、どこいくの?」
「大丈夫、すぐに戻ってくるから」
茂美がテーブルに遥香ちゃんを座らせてオレンジジュースを出しているのは見届けると、オレたちは更衣室へ入った。そしてこの数日間で磨いたお肌とメイクと女装スキルを駆使し、島本さんを変身させていく。
フルメイクして姿見に立った島本さんと、鏡越しにうなずき合う。
いよいよご対面だ。
島本さんが緊張でこわばる顔をマッサージしながら更衣室を出た。
遥香ちゃんと目が合う。遥香ちゃんはテーブル席でしばし目を丸くした後、大きな声で笑いだした。
「あっははははは! お父さん、何やってるのー!?」
「遥香! 今のお父さんはお父さんだけど、お母さんでもあるんだ! さあ、今まで甘えられなかった分、どーんと甘えてきなさい!」
島本さんが両手を広げて遥香ちゃんの前にしゃがみこんだ。笑いを抑えきれない遥香ちゃんはポケットからスマートフォンを取り出すと、島本さんに向けてシャッターを切った。
「こ、コラ遥香! 写真なんていいから、おいで! 来るのよ!」
「ふふふ、この写真、いつかお母さんにも見せられたらいいな」
「は、遥香?」
両手を広げたまま戸惑う島本さん。遥香ちゃんは椅子から立ち上がると、島本さんのすぐそばに立った。
「お父さん、最近妙に肌に気を使ったり、帰りが遅くなったりしたと思ったら、コレのためだったの?」
「いや違う、それは、たまたま……」
「うーっそ。お父さんが言いよどむときって、ウソをついてる証拠だもん」
遥香ちゃんは得意げにほほ笑むとスマートフォンをしまい、島本さんの頭を撫でた。
「お父さんのバカ。どんなにお母さんのマネをしたって、私にとってお父さんはお父さんだよ」
「遥香……お父さんじゃやっぱり、お母さんの代わりになんてならないのか?」
「違うよお父さん。私はね、お父さんはお父さんのまま、大好き。ほかの何かに取り替えるとか、そういうのじゃないの。世界でたったひとりの、大切なお父さんなの」
「は、遥香!」
「お父さん。私のことを一生懸命考えてくれて、ありがとう。でもね、私だってずっと、お父さんのこと、思っているから。なにかあったらこんな風にひとりで抱え込まないで。ちゃんとお話してほしいの」
島本さんが目に涙を浮かべ、ぎゅっと遥香ちゃんを抱きしめる。
三年前にお母さんを亡くした遥香ちゃんは、島本さんやオレが思っていたよりも、ずっとずっとたくましく、大人に育っていたのだ。
そして――。
涙を流し続けるお父さんを前にして、遥香ちゃんも少しずつ、目に涙を溜めていった。
「お父さん、いつもありがとう。いっぱいいっぱい、ありがとう。遥香、きちんとお礼を言えてなかったよね。ありがとう!」
「父さんこそ、不器用でぜんぜんうまくいかなくて。それなのに、遥香、お前ってやつは。ありがとう!」
「お父さんは、どんな格好したって私の好きなお父さんだよ。それにね、私……大好きなお母さんのこと、絶対に忘れないから。大丈夫だから」
遥香ちゃんのほほを、一筋の涙が零れ落ちる。
島本さんと同様に、彼女が三年間背負い続けたものもほんの少しだけ……あの涙とともに流れていけばいい。ふたりを見つめて、そう願わずにはいられなかった。
ひとしきり抱擁のときを過ごしたふたりが、どちらからともなく離れた。ふいに、遥香ちゃんの手がオレのスカートに伸びる。
「だからね、お父さんはお母さんの格好なんてしないでいいよ。私、どうしても甘えたくなったら、お父さんを変身させてくれた優しいこのお姉ちゃんに甘えるから」
「えええっ、オレに!?」
「あっ、このお店のひとはおねえちゃんじゃないのか。だけど、おにいちゃんでもなく、おねえちゃんでもなく……? じゃあ、おねにいちゃん! おねにいちゃんさん、お名前は?」
「おねにいちゃんさん? 彰人だけど」
「彰人おねにいちゃん、お父さんがお世話になりました」
べコリと頭を下げる遥香ちゃん。あげた顔には、満面の笑みが浮かべられていた。
「お母さんに横顔がそっくりな彰人おねにいちゃん! これから仲良くしてね!」
「お、オレがっ!?」
「うふふ。ホラ彰人、しっかりしなさいな」
後ろで見守っていた茂美に、ドンと背中を叩かれる。
オレは駆け寄ってくる遥香ちゃんを、全身で受け止めた。
「まだまだ勉強中で未熟者なおねにいちゃんだけど、よろしくね。遥香ちゃん」
「うん! お父さんも、おねにいちゃんも大好き! よろしく!」
小さな身体をぎゅうと抱きしめる。その後ろで、穏やかな顔で頭を下げる島本さんの姿。
おねにいちゃん。おかしな立場に立っちゃったみたいだけど。島本さん、遥香ちゃん。これからもずっと、よろしくな!
「彰人おねにいちゃん、おっはよー!」
「おはようございます、お世話になります」
あれから、土曜や日曜の朝に島本さんはよく遥香ちゃんを連れてドクターストップに来るようになった。
お酒を出すお店だし、ちょっと特殊な場所でもあるドクターストップ。
そこに子供が来るのはどうか、という話にもなったのだけど『朝の七時から九時まで、島本さんが連れてくる場合のみ来店可』という話し合いが、島本さんと茂美の間で交わされたのであった。
「でね、これがお父さんが星型に作ったつもりの人参! 手裏剣にしか見えないよね」
「ええー、そんなことないだろう! お父さん頑張ったんだぞ!」
遥香ちゃんは、お父さんが作ってくれたお弁当を全部スマートフォンで撮影していた。
「いや、妻がいなくなってから連絡がとれるようにと持たせたスマートフォンだったんですが、こんな風に使われていたとは、いやはや」
困ったような笑顔を浮かべる島本さんも、まんざらではなさそうである。
オレは遥香ちゃんが来るとふたりで並んでカウンターに座って、島本さんのお弁当特集を見せてもらいながら朝ごはんが出来るのを待つ。
「はい! 地鶏と卵のドキドキ禁断親子丼、並とミニお待ちっ! 彰人、アンタも賄いまだだからいっしょに食べておきなさい」
茂美が大きなどんぶりをふたつ、そして小ぶりなどんぶりをひとつカウンターに並べて言った。遥香ちゃんと一緒にご飯を食べなさいという茂美なりのメッセージだろう。
「えっ、オレのぶんもあるの!? ラッキー!」
実際、オレは休憩は挟んだものの開店からたいして物を口にしていなかったので、腹ペコである。遥香ちゃんの横に腰かけると、ありがたい申し出を二つ返事で受け取った。
「おいしそーだねー、彰人おねにいちゃん!」
「うん。熱いから、ふーふーして食べようね」
「はーい!」
遥香ちゃんが元気に頷いて、どんぶりの前で手を合わせた。オレたちもそれをまねる。
「いただきます!」
島本さんと遥香ちゃんとオレ、三人で声を合わせて言って食事スタート。
どんぶりのうえにはやや半熟のたまごに包まれた鶏肉のたまねぎ。箸で触れる柔らかな肉の感触は、もも肉だろう。箸を差し込むとふわりと甘い香りに包まれる。横には紅しょうがも添えられていた。
ふぅっとひとつ息を吹きかけて、ふんだんに卵をまとった肉とたまねぎをほおばる。
うまいっ!
肉は想像以上に柔らかく、甘みとダシの香りがしみこんでいる。そういえば茂美がフォークを取り出していたことに気付く。あれは肉に無数の穴をあけ、素材の味をしみこませるためのものだったのか。
「美味しーい!」
遥香ちゃん向けを意識してだろう。親子丼はかなり甘めの味付けである。たまねぎを煮詰めた甘さに加え、これはおそらくみりんの風味――けれど、それ以上の奥深さも感じるような……。
じっとどんぶりを観察してみると、たまねぎのほかにもみじん切りにされた何かが加えられている。ちょっとだけ焦げ色のついたそれを箸でつまみ、口にもっていく。香ばしさと豊かな甘みが口のなかにひろがった。
「これ、隠し味に長ネギがはいってるのか」
しっかりと炒めて香ばしさと甘みを引き出した長ネギ。これが親子丼に深い味わいを与えている。そしてかつおダシが、親子丼に香ばしさと甘味に加え、豊かな風味をもたらしているのだ。
なんという三重奏。なんという美味しいの掛ける三倍!
「ほんとにうまいっ! 茂美すげぇや!」
濃厚な味付けになれた口を、紅しょうががすっきりリフレッシュさせてくれる。そうすることで再び甘さと香ばしさと風味の深みを飽きることなく味わい尽くせるのだ。シンプルながら計算されつくした完成形。
それはまさにひとつの『どんぶり』のなかに作られた食べるアートのようである。
おいしそうにどんぶりを抱えながら、小さな手で一生懸命箸を動かしている遥香ちゃんが可愛らしい。オレたちは舌鼓を打ちながら、贅沢な朝食を平らげていった。
「ごちそうさま!」
元気よく丼からあげた顔のほっぺたに、一粒のお米がついていた。
「遥香ちゃん、ほっぺたにお米ついてるよ。はい、これでよし」
「ありがとう、彰人おねにいちゃん!」
お米を取ってあげると、遥香ちゃんがにっこりとほほ笑んだ。
ドクターストップとっても優しいお父さんと、最年少の可愛い常連さんが出来たのであった。




