七話
「遅刻、ふざけてるの?」
放課後、昨日と同じように生徒会室に行くと、茂木先輩に睨みつけられた。
今の時間は、四時三十分。終礼が終わってから三十分も時間が経っていて、集合の時間を大きく遅れてしまっていた。
「すみません、遅刻してしまって」
「なんで、遅刻したの?」
「掃除が長引いてしまったので」
もちろん、これは嘘だ。今日は、掃除の担当日ではないし、私が遅れたのも、図書室で時間を潰していたからにほからなない。
そんなことをした理由は、わざと遅刻して生徒会の先輩方を怒らせようとしたからであり、今のように睨まれているのは、わたし自身が望んだことなんだ。
横目で、茂木先輩以外の人たちを見る。
遠藤先輩は、茂木先輩ほどじゃないけれど、私のことを睨み、手に持っていたペンを強く握り絞めていた。それは、指の関節が白く浮き上がるほど力が入っていて、そのままペンが折れるんじゃないかと思うくらいだった。
また、同級生の二人は、私が来たことで一気に変わった空気に戸惑い、視線を揺らしながら私を見ていた。
二人とも、私と目が合うと、すぐに視線を逸らす。けれど、完全には外しきれず、またすぐにこちらへ戻ってくる。
やっぱり、想像通りだ。
なのに――
「あ、黒瀬ちゃん。こっちに来て。今日は、それぞれの役職の練習をするからね」
生徒会長は、昨日と同じように、私のことを温かく迎え入れた。
彼女は優しく微笑み、その笑顔だけが、この部屋の空気から浮いていた。
「わかりました。茂木先輩、もう少し机に寄ってください。通れないので」
「おま……はぁ、もういい。勝手に通れ」
茂木先輩は、椅子をほんの数センチだけ引いた。
その動きは、通れるようにしてくれたというより、これ以上関わりたくないと言っているようだった。
私はその隙間を通り抜ける。
腰が机の角に触れないよう、少しだけ身体を傾けながら、出来るだけゆっくりと生徒会長のところへと歩いて行った。
もし、これが茂木先輩だったとしたら、私の態度に苛立っているだろう。けれど、生徒会長は、この態度にも顔色一つ変えなかった。
「黒瀬ちゃん。今日は、会計の主な仕事の中でも、まずは予算書の数字を転記する練習から始めようと思っててね。簡単な仕事だと思うかもしれないけど、書き方とかがあるから、しっかり聞いてね」
生徒会長は、机の上に置かれた書類の束をそっと持ち上げた。
「これは、各委員会や部活動から提出された予算案なの。会計は、ここに書かれている金額を、正式な予算書の方に写していく作業があるの。数字を間違えないように、丁寧にね」
それらの紙には、部活動ごとの名前と、必要経費の金額が並んでいた。数字の列はどれも似たような書式で、ただ淡々と積み重ねられているだけだった。
(めんどくさい……)
それらを見ていると、ペンを握ろうという意志が、どこか遠くの方へと飛んで行ってしまう。
こんな書類の束を見たのは、高校の入学手続きをした時以来だ。それ以外で、私は書類の束と正面から向き合ったことは無い。
だから、こんな気分になるのは当然だった。
「それじゃあ、やってみようか」
なのに、生徒会長は、私の気持ちと対照的な笑みを浮かべ、予算書を私に渡してきた。
「エクセルとか使えばいいじゃないですか」
「……パソコン支給されないんだよね。この学校」
「自称進学校なのに?」
「うん」
会長は、申し訳なさそうに笑った。
その笑みは、冗談ではなく、本当に困っている人のものだった。
「パソコン室はあるんだけどね。授業以外では使えない決まりで……生徒会にも一台もないの」
「へぇ」
思ったよりも本気で不便らしい。
けれど、だからといって私のやる気が戻るわけでもなかった。
「だから、全部手書きなんだ。数字を写すだけでも、慣れないと時間がかかっちゃうから……まずはここからね」
「わかりました」
気は進まなかったものの、これは仕事だから仕方がない。私は、決められたルールに従って、予算書に数字を書き込んでいった。
数字を書き写すたびに、紙の上でペン先が乾いた音を立て、その音だけが、やけに大きく耳に残る。
書式に合わせて桁を揃え、決められた欄に数字を置いていく。ただそれだけの作業なのに、長時間続けていると、肩のあたりがじわりと重くなってきた。
やりがいなんて、これっぽっちも感じない。この仕事は、私にとって、ただの拷問と何一つ変わらず、苦痛でしかなかった。
けれど、会計になったのは、私が選択した結果。責任はすべて私にあり、八つ当たりしようとも思わない。
「あの冊子、ちゃんと読んでくれてたんだね」
すると、生徒会長がそんなことを言ってきた。
あの冊子……あぁ、昨日盗んだ、会計の仕事についてまとめていた冊子のことか。確かに、私は昨日の夜に、あの冊子についてかなり読み込んだ。
けれど、アレはただの暇つぶしのような物であり、褒められることではない。
……いや、むしろ褒めないでほしい。褒められると、体中から冷汗が出て、鳥肌がじわりと立ってしまうからだ。
「偉いよ、黒瀬ちゃん」
「……気持ち悪いので、褒めないでください」
言った瞬間、部屋のどこかで、空気がひとつ沈んだような気がした。
会長は、目を瞬かせた。驚いたというより、どう返すべきか一瞬だけ迷ったような表情。
「あ……そっか。ごめんね。嫌だったなら、もう言わないから」
その声は、さっきよりもずっと小さかった。
怒りも、呆れも、戸惑いもない。ただ、自分が誰かを不快にさせたという事実だけをまっすぐに受け止めている声だった。
生徒会長は、書類の端をそっと押さえたまま、ほんの少しだけ頭を下げた。
「黒瀬ちゃん、わたしに対して、遠慮しないでいいからね。嫌なことは、嫌って言ってほしい」
会長は、そう言いながら、書類の端を押さえていた指をそっと離した。
その動きには怯えはなく、ただ、自分の言葉が相手にどう届いたのかを、きちんと受け止めようとする慎重さだけがあった。
(どうして、この人はこんなに気持ち悪いんだろう?)
私の怒りは、理不尽な物であるはずだ。
褒めるという善意に対して、私は悪意で返した。一般的に考えて、そんなの許される行為じゃないはずだ。だから、生徒会長は、私に対して怒りを向けていい。
なのに、あの人は、最初に謝罪……それも、心のそこからの謝罪を私に向け、それだけにとどまらず、自分の行動を改善しようという動きを見せたのだ。
生徒会長自身は、何一つ間違ったことをしていないのに。
「ちっ」
無意識のうちに、舌打ちをしていた。
それを聞いて、茂木先輩や遠藤先輩がこっちを見てくるが、生徒会長は嫌な顔一つせずに、私に寄り添って会計の仕事の説明をしていく。
「あ、ここね。冊子には書いていなかったんだけど、こうしたほうが見やすいでしょ」
「……そうですね、冊子に書いておけばよかったのに」
「あはは……先輩が作る時に入れ忘れてたからね。付け足すことが出来ればよかったんだけど、スペースが無かったから」
舌打ちも、嫌味も、何一つ彼女に届かない。
なんで、こんな人物がこの世に存在しているんだろう。
善意を向けても、悪意を向けても、結局はどこかで踏みにじられる――そんな当たり前みたいな現実を、この人は平気な顔で裏切ってくる。
(もし、もっと前に……。いや、もしもなんて意味は無いか)
あり得ない可能性が頭をかすめて、
すぐに霧みたいに消えていった。
この人を見ていると、胸の奥がじわりと熱を帯びる。
怒りでも、苛立ちでもない。
名前をつけようとすると、指の間からこぼれ落ちていくような熱だった。




