六話
(眠い)
次の日、私の高校は、進学校だったようで、さっそく授業が始まってしまった。
白板の前には、数学の先生が立っており、多項式について説明している。
ペンが白板を擦る音が、やけに大きく聞こえた。その音が、眠気でぼんやりした頭の奥に、じわりと染み込んでくる。
ノートを開いたまま、ペンを持つ指先が動かない。書こうと思えば書けるはずなのに、手が重い。昨日の疲れが、まだ腕の中に残っているみたいだった。
(というか、聞く必要なんてないじゃんか。寝よう)
私はペンを指から離し、顔を机にゆっくりと近づけた。 頬が木の表面に触れた瞬間、ひんやりとした感触が広がる。その冷たさが、まぶたの重さをさらに引き寄せた。
ベッドの上で横になるのとは、また違う心地よさ。数学の先生の声も、私の眠気を擽ってくれて、これなら私はきっと眠ることが出来るだろう。
教室のざわめきが、遠くに薄く伸び、意識が私から離れていく。
白板にに書かれる文字の音も、先生の声も、水の底から聞こえてくるみたいにぼやけていった。
そんな時だった――
「おい、そこの金髪。授業中だってことが分かってんのか?」
低く落ちてきた声が、眠気の膜を一瞬で破った。机に触れていた頬が、びくりと小さく跳ねる。
顔を上げると、白板の前でペンを持ったままの数学教師が、こちらを真っ直ぐに睨みつけていた。
どうやら、私は初日から先生に目を付けられていたらしい。
まぁ、それも当然か。校則違反の金髪とピアス、進学校のような場所では、私のような存在が許されるはずもない。
「分かってますけど、それがどうしたんですか?」
「喧嘩を売っているのか? 授業中に寝るなと言っているんだ」
教師がペンで教卓を叩き始める。
カツカツカツカツ、木が叩かれる音が鼓膜を震わし、眠気でぼやけていた頭の奥に、その音だけが鋭く突き刺さってくる。
(……うるさい)
言葉にはしなかったが、眉がわずかに寄るのが自分でも分かった。
教師は叩く手を止めず、まるでその音で私を押し潰そうとしているみたいに、一定のリズムで教卓を打ち続ける。
「まったく、なんでおまえはこの学校に入って来たんだ。ここに入るだけで、いい大学に行けるとでも思ったのか?」
「いや、家から近かったからですけど」
そう答えた瞬間、教室の空気がぴたりと止まった。教師の手が、叩きつけるように教卓の上で止まる。
……なるほど、この学校の偏差値は、案外高かったらしい。中学の教師ども、わざと私に教えなかったな。
とはいえ、今はそれどころではない。私は眠いんだ、説教をされている暇があるのなら、机に突っ伏して、目を瞑っていたい。
「おまえ、この学校のことを舐めているのか?」
「舐めてませんよ。いや、ほんとに。あと、安心してください。いい大学に行きたいなんて、これっぽっちも思ってませんから」
大学ってのは、学びたいことがある人が行く場所だ。勉強に関心が無い私が、苦労してでも行くべき場所ではないだろう。
もし、行くとするならば、やっぱり家に一番近い場所でいい。だって、私が大学に行くとするならば、その理由はどうせ他人に嫌がらせをするためなんだから。
だが、私の返答に対して、先生の表情は一気に険しくなった。口元がきゅっと吊り上がり、頬の筋肉が固くなる。
その変化が、教室の空気を一瞬で張りつめさせた。
「ふざけるな! 学校とは、学問を学ぶ場所だ! 親から甘やかされていたのかもしれないが、社会という場所で、おまえのような子供は通用しないぞ!」
(親から甘やかされる、か)
頭が冷たくなり、眠気がすっと引いていく。
さっきまでは、寝ていた私が悪いと思っていたんだよ。だから、誠心誠意、答えてあげたというのに、その返答がこれか……。
だったら、もう二度と、話しかけないでほしい。
「どうせ痛い目を見るのは私でしょう? 私は寝ているだけで、周りに迷惑をかけてないんだから、別にいいじゃないですか」
もし、これが仕事なら、話は変わってくるだろう。
けれど、学校の授業は、私の父親が金を払って受けさせていただいているものだ。だから、損をしているのは、私の父親だけで、学校側は得をしている。
そして、私は授業中に寝ることで、父親の金を無駄にすると言う嫌がらせが出来る。最っ高のwinwinじゃないか。父親以外、誰も損をしない。
だから、怒られる理由なんて無いはずなんだ。
けれど――
「そういう問題ではない! この学校――」
「はぁ、それなら正直に、私の先生としての評価を下げたくないので、どうか寝ないでくださいって言えば? もしくは、私の大事なプライドを壊さないでくださいって頭を下げるだけでもいいよ」
教師が何度も何度も、私に怒鳴り声をあげて来たせいで、胸の奥に溜まっていた何かが爆発してしまった。
私が悪いってことは、もちろん自覚している。だけど、理屈じゃ腹の中にたまっている物は消えない。
喉の奥が、じわりと熱くなる。
それを押し殺すように、私はゆっくりと息を吸った。
「……だからさ」
声が自然と低くなる。
怒鳴り返すでもなく、震えるでもなく、自分らしい……誰かを馬鹿にするような、軽薄な声。
「私のことはほっといてくれません。どうせ先生って、生徒のことを思っていないでしょう?」
先生は、私の言葉を聞いて、ほんの一瞬だけ、目を細めた。
怒鳴り返すでもなく、否定するでもなく、そのどちらでもない、乾いた目。
だが、それは一瞬だけのこと。先生は、すぐに私から視線を外し、白板の方へ顔を向けた。
「授業を始めるぞ。この式だが――」
もう、私の方を見ない。
もう、私に声を掛けることもしない。
先生は、私のことを、完全に無視し始めた。
それを見て、私は目を閉じた。胸の奥にあった熱が、ゆっくりと冷たいものに変わっていく。怒鳴られるよりも、ずっと静かで、ずっとはっきりした拒絶。
私は頬を机に預けたまま、ゆっくりと息を吐いた。
(なら、もういいや)
ひんやりとした木の感触が、さっきよりもずっと心地よく感じられた。
まぶたの裏が暗く沈んでいく。先生の声は、もう雑音にしか聞こえなかった。




