59話
「あれ? 桃井ってなんだったっけ?」
「な、なんですか? 急に」
「いや、役職のこと」
私が嫌われ役を買って出たせいで、生徒会室は張り詰めた空気のまま、沈黙で包まれてしまっていた。
何か話そうとしても、茂木先輩と遠藤先輩が纏っている空気がそれを許さず、雪乃先輩でさえ空気を変えることが出来ていなかった。
(さすがに、やりすぎたかな?)
だから、ちょっとだけ……ほんのちょっとだけ申し訳ない気持ちになってしまった。
そのせいで、つい口が勝手に動いてしまったのだ。
「広報だけど……」
「ふーん。なら、これ。お願いできる?」
「部活動の予算について……これを広めればいいってこと?」
桃井が恐る恐る紙を受け取る。
その声は震えているのに、ちゃんと返事をしようとしているのが分かる。
「あれ? 何か作ったの?」
すると、雪乃先輩が私に話しかけて来た。
やっぱり、あの人ならこうしてくれると思っていたよ。
「はい。過去に予算を超えていた部活もあったので、念のために前もって注意喚起をしようかと。夏休みには、合宿をする部活もありますし」
「なるほどね。わざわざ、それを作ってくれてたの?」
「時間が余っているんでね」
仕事に関する話だったが、静かだった生徒会室がほんの少しだけ動いた。
これで生徒会室の空気がいい方向に変わっていく……わけではないけれど、ちょっとくらいは話しやすい空気になるだろう。
こういうことは、柄じゃないって思うけど。
「黒瀬さんって……」
そんなことを考えていた時、急に桃井が口を開いた。
同級生ではあるけれど、言葉を交わすことはほとんどない間柄。そのせいなのか、向こうは敬語で私に話しかけてくる。
「結構、真面目だよね」
躊躇うように。でも、嘘は吐いていないようにはっきりと。
「……っ」
雪乃先輩が息を呑む音が聞こえた。
私にとって、真面目だとか、良い子とか、そのようなプラスの評価は、心の底から嫌いな言葉だ。
実際、そのせいで、心がおかしくなってしまったこともある。……おかげで、今の雪乃先輩との関係があるから。悪いとは言えないことだけど。
でも、何故か、桃井にそんなことを言われても、私は何も思わなかった。
もちろん、それは嫌じゃなくなったとかではなくて……子供に悪口を言われた時のような、無の感覚に近かった。
「……正気? 客観的に見て、そんな感想が出るなんて思えないけど」
「あ、いや……そうじゃなくて、思ったより真面目なんだなぁって思っただけだから……」
一か月前くらいにあった雪乃先輩との一件を覚えていたからなのか、桃井は慌てて手を振りながら答えた。
でも、それは保身のためと言うより、私のことを傷つける意図は無かったとでも言うような謝罪に近かった。
(別にいいんだけど……)
わざわざ謝るようなことじゃない。それも、私と桃井は知り合い程度の関係だってのに。
それに加えて、私は桃井を困らせるようなことを何度もしていただろうし、私が生徒会にいると言う事実だけで、桃井の立場が悪くなったこともあっただろう。
「……はぁ」
雪乃先輩の方を横目で見る。
今までの私なら、善意を悪意で返すことが出来ていただろう。それが、私らしい行動だったから。
でも、今の私ではそうすることが出来ない。
だって、そうしてしまったら、雪乃先輩がきっと悲しんでしまうから。
人と関わるってことは不便になるってことなんだ。雪乃先輩に側にいてほしいって気持ちがあるせいで、今までのような私ではなくなってしまっている。
もちろん、今でも他人に悪意をぶつけることはかなりあるが、それでも頻度は少なくなってしまっている。…………ほんと、私らしくない。
「そんなことより、出来そうか出来そうじゃないかだけ教えて」
「あっ、えっと……今すぐは無理だけど、一週間後までには出来るかな」
「なら、それでお願い。情報の伝達が出来てないと、冬くらいに苦労するからしっかりしてよ」
だから、私は話を逸らした。
善意を悪意以外で返す方法なんて知りやしない。雪乃先輩にだって、善意で接することが出来ないんだから、言い方が悪いけど、桃井なんかに善意で接するなんて出来るはずもない。
「……うん。相談くらいはしていいよね?」
「勝手にすれば?」
桃井が私に尋ねてくる。私の顔色を窺うように、ちらちらと目を向けながら。
怯えるのなら、勝手に怯えていればいい。そんなことは、私に関係ないことなのだから。
「雪乃先輩も、私の方を見てないで手を動かしてくださいよ」
「……っ、うん」
(はぁ……そこまで、私は危ういかなぁ。いや、危ういか)
そうして、桃井と会話している間、ずっと心配そうに私のことを見ていた雪乃先輩に声を掛ける。
悪夢のことを知ってるからなのか、私の過去を知ってるからなのか、その視線には、どうしようもなく気遣いが滲んでいた。
そんなもの、向けられたところで扱い方なんて知らない。
むしろ、触れられたくない場所にそっと手を置かれたようで、落ち着かない。
なのに、雪乃先輩が私のことを見てくれていたという事実だけで、何故か心が温かくなってきたんだ。
(……ほんと、意味わかんない)
私のことを心配してくるのも嫌だし、茂木先輩や遠藤先輩ばかりを気にかけるのも嫌だ。
嫌なことばかりで、どれもこれも気に入らない。生徒会に入ってから、こんなことばかりだ。後悔はしていないけど、自分でもどう思っているのかわからない。
「遠藤先輩、ここ教えてくれませんか?」
「いいよ。えっとね、ここは――」
私が桃井に話しかけたおかげで、生徒会室の空気が柔らかくなったからなのか、大江が遠藤先輩に話しかけ、仕事で分からなかったとことを教えてもらっていた。
遠藤先輩は、茂木先輩と話していた時のような張り詰めた雰囲気ではなく、いつもの柔らかい様子で大江に教えていく。
それを見ていた雪乃先輩は、ほっと聞こえないほど小さい溜息を吐いて、肩の力を少しだけ抜いていた。
その仕草は、誰にも気づかれないほどささやかで……
けれど、私にははっきりとわかった。
「……絵理ちゃん。何かわからないことある?」
「は? ふざけてないで仕事して」
「えー、ちょっと話そうよ」
「仕事をしろ、生徒会長」
「……ごめんなさい」
茂木先輩に、ちょっかいを掛けて、見事に躱されていたけど。
とはいえ、そのやり取りは、いつもの二人の距離感そのままで、さっきまでの張り詰めた空気が嘘みたいに、自然と生徒会室に馴染んでいく。
遠藤先輩は大江に説明を続け、茂木先輩は書類をめくりながら小さくため息をつき、雪乃先輩は肩の力を抜いたまま、静かに作業へ戻っていく。
ほんの少し前まで、息が詰まるほど面倒で、煩わしくて、嫌な空気だったはずなのに。
今は、ただのいつもの生徒会室だった。
私は手元の書類を整えながら、そっと息を吐いた。
その息が、自分でも驚くほど穏やかだった。
ほんとうに、私らしくない。でも――今だけは、それでいいと思えてしまった。
そんな自分が、いちばん厄介だった。
(……もっと、私らしくならないと)




