58話
「遅刻、いい加減にして」
「はいはい、ごめんなさーい」
放課後、風紀委員の仕事がある茜と別れて、私はゆっくりと生徒会室へと向かった。
生徒会室の扉を開くと、いつも通り茂木先輩が睨んできて、ぐちぐちと文句を言われてしまう。
私は、毎回遅刻しているというのに、茂木先輩はまだ私に注意し続けている。普通なら、もうとっくに呆れて、私のことを無視するはずなのに。
(真面目なんだねぇ、諦めた方が楽なのに)
茂木先輩と出会って、もうすぐ二か月が経つ。
なのに、彼女は一向に私に対して注意することをやめず、鬱陶しくなるほどしつこく声を掛けてくる。
正直、どこか感心してしまっている私がいる。今まで出会ってきた人たちに、茂木先輩ほど私に注意してくる人はいなかった。
だからこそ、ちょっとした尊敬のような物さえ、生まれてしまっている。
でも、そこまでだ。
私が一番尊敬している人物は雪乃先輩であり、茂木先輩はその次。
どれだけ真面目で、どれだけしつこく注意してきても、その順位が変わることはないし、そもそも比べ物にならないほどの差がある。
「絵理、コイツに何を言っても無駄ってことはわかってるでしょ。そんなことをしている暇があったら、仕事を続けて」
すると、遠藤先輩が茂木先輩にそんなことを言い始めた。少し意外……でも、私の扱い方をしっかり理解している。
自分で言うのもあれなんだけど、私のことは無視するのが正解なんだと思う。
いくら注意しても、問題行動をやめない。それに加えて、話そうとすれば、煽ってくると来た。
ただ、仕事自体はしっかりと終わらせるため、無視さえすれば害はない。
でも、茂木先輩はその事実をまだ理解していないのか、それとも理解してもなお、注意することを選んでいるのか、遠藤先輩の言葉を聞くと、さらに眉を顰めて、遠藤先輩に言い返してしまった。
「なに? 黒瀬を庇うつもり?」
「はぁ、思い込みが激しいよ。わたしは事実を言ってるだけ。黒瀬に何を言っても無駄なのは、あなたが一番分かってるでしょ」
遠藤先輩は、ため息混じりにそう返した。
その声音は冷静で、どこか呆れている。
「伝わらないからって、諦めるのは駄目でしょ。ルールはルール、それには従わないと」
「はいはい、そうですね。ルールを守らせることばかりに意識が行って、自分がするべきことを疎かにするのは違うと思うけど」
茂木先輩が突っかかって来たからなのか、遠藤先輩の言葉にもわずかに棘が混じった。
普段はもう少し柔らかかったはずなのに、今日だけは少しだけ語気が強い。
(遅刻しただけでこうなるんだ……)
もとはと言えば、いつも通り私が遅刻しただけ。
たったそれだけのことで、ここまでの喧嘩になってしまうのなら、逆に今までよく喧嘩をしなかったなと感心してしまう。
もちろん、誰が悪くて、誰が原因なのかと問われてしまうと、満場一致で私になるだろう。
でも、本当に私だけの責任なのか? こうなったのは、私が遅刻したからというより、どうせそのうち起きていた衝突を、少し早めただけなんじゃないか――そんな気さえしてくる。
「二人とも、喧嘩はしないで。わざわざ言い合いをする理由なんて無かったでしょ」
雪乃先輩が二人の言い合いを止めようとして、そのおかげで空気がようやく落ち着き始めた。
けれど、完全に収まったわけではない。茂木先輩はまだ眉間に皺を寄せたままだし、遠藤先輩は茂木先輩のことを見ようともしない。
そんな様子気にづいて、雪乃先輩は目を伏せ、ほんの一瞬だけ息を整えるように間を置いた。
雪乃先輩が何を思っているのか、私にはさっぱりわからない。でも、雪乃先輩のそんな表情を見ると、何故か胸が重くなってしまう。
(なんで……私は悪くないのに)
こうなってしまった原因は私。そんなことくらいはわかっている。
だからこそ、雪乃先輩の苦しみが、胸の奥にじわりと広がっていく。
雪乃先輩は伏せたままの目をそっと上げ、二人を見つめた。
その瞳には怒りも責める色もなく、ただ静かな悲しさだけが滲んでいる。
その表情を見た瞬間、心の奥底がかき乱される。
「先輩たち、仕事をしてくださいよー。もしかして、サボりですか?」
だから、私は……私があるべき姿で彼女たちに話しかけた。
「なに?」
「言い争いばかりで時間を無駄にして。そんなことの何が楽しいんですか? あ、でも、そのままでいいですよ。先輩たちがサボってくれるのなら、私もサボれるようになりますから」
先輩たちがサボらなくても、私はサボるんですけどね……と言葉を続けて、わざとらしく肩をすくめた。
嫌われ者、それが私のあるべき姿で、今までずっと続けて来た私なんだ。……雪乃先輩や茜と接している時の私の方が例外で、あれは本来の私じゃない。
だから、これが本来の私なんだ。
「誰のせいでこうなってると思ってるの?」
遠藤先輩が、低い声で私のことを睨んで来る。
怖い怖い、そんな目で私のことを睨まないでしょ。
「先輩たちのせいでしょ。ほら、聖書にだって、右の頬を打たれたら左の頬も差し出せって書いてあるじゃないですか。そのくらいのこと、我慢してくださいよ」
「はぁ? なんで、わたしたちがそんなことをしないといけないわけ?」
「先輩で、年上なんですから、そのくらいのことは当然でしょ。あっ、私の誕生日は十二月なんで、同じ年の可能性は零ですよ」
そこまで言って、私はわざとらしく笑ってみせた。
軽口。挑発。いつも通りの、嫌われ者としての私。
でも――
「澪ちゃん……」
雪乃先輩の悲し気な呟きが、私の胸へと突き刺さる。
本来なら、聞こえるはずもない小さな声。実際に、私以外には、その言葉に気付いた人はいない。
でも、何故か私の耳にはちゃんと届いてしまっていて、それが胸の奥をざわりと揺らした。
(そんな目で……見ないでくださいよ)
適材適所。これでいい……そういう役なんだから。
雪乃先輩は、笑ってみんなを幸せにして、私は負の感情を受け入れる。きっと、それが正解なんだ。
「ほら、遠藤先輩も茂木先輩も仕事をしてください。私に言われて恥ずかしくないんですか?」
「……ちっ」
「怖いなー。先輩なんだから、後輩を怖がらせることなんてしないでよ」
私の煽りのおかげか、遠藤先輩たちは互いに喧嘩をしていたことを忘れ、生徒会の仕事に再び取り掛かり始めた。
書類をめくる音、キーボードを叩く音、椅子の軋む音――いつもの、生徒会室の音が戻ってくる。
(……ほらね。これでいいんですよ)
胸の奥がざわついているのに、私はそれを押し込めるように笑った。
嫌われ者としての私が場を動かし、空気を元に戻した。それで十分。それが私の役目。他人に嫌われようとしている私には、それくらいがちょうどいい。
「……」
一瞬だけ、雪乃先輩と目が合う。
謝罪、感謝、悲しみ、以心伝心が出来るほどの関係じゃないんだから、何を思っているのかわからない。
わからないのに――胸の奥が、ひどく締め付けられた。
(そんな目で……見ないでくださいよ)
雪乃先輩の視線は、責めてもいないし、呆れてもいない。
ただ、私の軽口の奥にあるものを、そっと掬い上げようとするみたいに、優しさで満ちていた。
私はその視線から逃げるように、手元の書類を適当にめくる。
(……これでいいんです。これが、私なんですから)
そう言い聞かせるように、深く息を吐いた。
生徒会室には、いつもの作業音だけが静かに流れている。
だから、私は――すべてを忘れるように、数字の世界に身を投げた。




