54話
「――きて、起きてってば」
「うるさいなぁ、もうちょっとくらい寝ていいじゃんか」
雪乃先輩が電気をつけたせいで、光が瞼を刺す。
眩しさに顔をしかめながら、布団を頭まで引き上げようとしたけれど――その前に、腕を掴まれた。
「だめ。起きて、朝ごはん冷めちゃうよ」
声は優しいのに、少しも腕を放してくれる気配が無くて、私は渋々目を開いた。
白い天井とぼやけた視界の端に映る雪乃先輩の影。まだ眠くて、視界がぼやけれいるけれど、雪乃先輩の姿だけははっきりと見えた。
「おはよう、澪ちゃん」
「……ちっ、おはようございます」
「あ、今日も元気そうだね」
私が舌打ちをすると、雪乃先輩は嬉しそうに笑い、その笑顔が視界の真ん中にくっきりと浮かんだ。
ほんと、何が楽しいのだろうか。こんなにも拒絶しているのに、喜んでしまうなんてね。
「朝ご飯はもう作り終えたから、顔を洗ってきてね」
「えぇ、もうちょっと寝たい……」
「だめ。生徒会なんだから、遅刻したら駄目でしょ」
「……今更でしょ」
馬鹿じゃないの、金髪にピアスっていう校則違反をすでにしているのに、遅刻したところで何が変わると言うのか。
それに、雪乃先輩も、透明とは言え、今日からピアスをつけて投稿することになるんだから、私の行動にとやかく言う資格なんて無い。
だからさ、一緒に二度寝しようよ。
堕ちるところまで堕ちてしまえば、きっと楽になるよ。
「えっと……『もしもし、茜ちゃん?』」
「え、なにを――」
「『うんうん、了解。ごめんね、迷惑をかけて』……澪ちゃん、もし遅刻したら、茜ちゃんが説教するって」
「…………は?」
寝起きの頭が一瞬で覚醒した。
布団の中で跳ね起きそうになるのを、ぎりぎりで堪える。
「ちょ、ちょっと待ってください。なんで茜に連絡してるんですか」
「こうすれば、澪ちゃんが起きるかなって」
「てか、何で電話番号を知ってるんですか。私だって……」
「電話番号じゃなくて、L○INってアプリだけど……というか、それって澪ちゃんが誰とも繋がろうとしないのが悪いんじゃない?」
確かに、私は誰にも電話番号を教えていない。もちろん、雪乃先輩や茜にも。
でも、それは彼女たちが私から離れていってしまった時に、何か残っている物があると、どこか虚しくなってしまうからだ。
だから、茜が雪乃先輩と繋がっていることにも、雪乃先輩が茜と繋がっていることにも、嫉妬する資格なんて無いことは分かっている。
けれど、そんな理屈では、感情が収まってくれなかった。
「ふんっ」
「あ、布団の中に潜らないで。学校に行くんだよ」
「インフルエンザになったので休みますー」
「仮病は駄目」
雪乃先輩は、ため息をつくでもなく、怒るでもなく、ただ当たり前みたいに布団の端をつまんで、そっと引き上げた。
「澪ちゃん、ほら。出ておいで」
「……やだ」
「やだじゃないの。ほら、手」
子供か、私は。
そんなので、布団から出るわけないじゃんか。……いや、布団から出ない方が子供なのか? なら、子供でいいや。ちょうどいい言い訳になるんだし。
そんなことを思いながら、布団の中にこもっていると、何かいい匂いが鼻腔を擽ってきた。
「……なに、してるんですか?」
「作った味噌汁の匂いを布団の中に送ってるだけだよ」
「釣りでもしてるんですか?」
「うん。澪ちゃんが釣れるかなって」
「……馬鹿ですか?」
そう言いながらも、布団の中に漂い込んでくる味噌汁の匂いは、反則だった。
だしの香りがふわっと広がって、食欲を刺激してくる。
これがもし、お湯を注ぐだけで出来る味噌汁だったから、こんなことにはならなかっただろう。
でも、雪乃先輩が作ったという事実だけで、こんなにも食べたくなってくるんだから、雪乃先輩は魔女かなんかに違いない。
「いいの? わたしが食べちゃうよ」
「別にそれで――」
言い切る前に、布団の中で、私の腹が裏切った。
ぐぅっと静かな朝に、不釣り合いなほど大きく響く。
「……聞こえました?」
「うん。朝ごはんは今すぐ食べれるよ」
「あぁもうわかりました! 起きればいいんですよね、起きれば!」
半ば投げやりな気持ちになって、私は布団を勢いよく跳ね上げた。
冷たい空気が肌に触れて、ようやく完全に目が覚める。
「偉いね、朝に起きれるなんて」
「嫌味ですか?」
「えっ、違うけど」
これだからこの人はめんどくさいんだよ。
そんなことを思いながらも、私は雪乃先輩に従って、洗面台に方へ足を進める。
(雪乃先輩って、絶対に天然なとこあるよね。はぁ、天然の奴はこれだからめんどくさい)
蛇口を捻る。冷たい水が、両手の中にたまっていき、小さな水たまりを作り出す。
その水が顔に触れると、嫌な気持ちも、心地よい睡魔も、荒れた感情までも洗い流してくれるように思えて、何度も何度も、水を掬ってしまう。
このまま、雪乃先輩に関する記憶さえも洗い流すことが出来るのなら…………そんなことを、ほんの一瞬だけ考えてしまった。
(……出来るわけ、ないのに)
きっと、雪乃先輩のことを忘れたら、楽になれる。
でも、あの人からもらった物もすべてなくなったことになってしまう。ほんと酷い、雪乃先輩からいろんなものを貰いすぎた。だから、捨てようとしても捨てきることが出来ない。
「澪ちゃん、どうかしたのー?」
洗面所の扉の向こうから、のんきな声が響いた。
その声が、さっきまで胸の奥に沈んでいた重たい感情を、あっさりと浮かせてしまう。
「……なんでもないです。あ、箸とかはそっちにありますか?」
「うん、準備は全部しておいたからね」
「ありがとうございます」
濡れた顔と、最悪な気分をタオルで拭いて、雪乃先輩がいる部屋へと戻った。
今日の朝ご飯は、温かい味噌汁と卵掛けご飯。卵掛けご飯の方は、少し手抜きだと思ってしまうけれど、朝早くから味噌汁を手作りしているのは、正気の沙汰だとは思えなくて少しだけ引いてしまう。
なのに、雪乃先輩は顔色一つ変えずに、いただきますと言って朝ご飯を食べ始めており、その姿があまりにも自然すぎて、逆にこっちが戸惑ってしまう。
「前から思ってましたけど、もっと楽な料理でもいいんですよ」
朝ご飯なんて、おにぎり程度で充分だ。フレンチトーストとか、味噌汁のような手の込んだものを作る必要なんてないし、そもそも私の朝ご飯を作っていること自体がおかしいんだ。
私と雪乃先輩の関係なんて、ただの後輩と先輩でしかなく、ここまでしてもらう理由なんて無い。
「気にしなくていいんだよ。味噌汁とか、わたしが勝手に作っているだけだから」
雪乃先輩は相変わらずそんなことを言ってくるけれど、いっつも言ってくることが同じで、全く納得出来ない。もう少しバリエーションを増やしてほしい。
(まぁいいか、何を言っても無駄なんだし)
そう思いながらも、湯気の立つ味噌汁をひと口すすると、だしの優しい味が舌に広がって、思わず肩の力が抜けた。
「……悪くはないです」
小さく呟くと、雪乃先輩はぱっと顔を明るくした。
「よかった。澪ちゃん、ちゃんと食べてくれると嬉しい」
「……変なの」
「変じゃないよ。澪ちゃんが朝ごはん食べてくれるの、わたしすごく好きだから」
嘘つき。でも、箸は止まらなかった。
味噌汁も、卵掛けご飯も、気づけば半分以上なくなっている。
雪乃先輩は、そんな私を見て、満足そうに微笑んでいた。
その笑顔が、朝の光よりも眩しくて、胸の奥がじんわりと温かくなる。
これ以上、何も貰いたくないのに。




