49話
「何があったのか、聞いていい?」
「……はい」
しばらくたって、私が少し落ち着いてきた時、雪乃先輩が柔らかい声で話しかけてくれた。
話しかけられたくない時は、黙って寄り添ってくれるだけで、そうじゃない時はそっと声をかけてくれる。
その距離感が、今はありがたかった。
「前、私の過去について色々話しましたよね。特に、父親について」
「……うん、父親に恨まれてるって」
「ええ。だから私は、父親を嫌ってるんですけど、それでも数年くらいは……もしかしたら、普通の親子に戻れるかもしれないって期待してたんです」
あの時の私は幼くて、そんな幻想を抱いてしまっていた。
何かのきっかけさえあれば、また笑い合える日が来るんじゃないかって。
でも――現実は、そんなに優しくなかった。
「良い子になれば、また父親が私を見てくれるかもしれないって、家事とかも出来るだけ自分でしてたんです。これは、前にも似たようなこと言ってましたよね」
「うん、それは聞いたことがあるけれど……」
「けれど、いつまでたっても父親は私のことを見てくれなくて、疲れて母親と何度も言ったことがある駄菓子屋に行ったことがあったんです。そこに行けば、ちょっとは元気になれるかなって」
そこまで言って、言葉が喉の奥で止まった。
あの時の空気も、匂いも、声も、全部まとめて胸の奥に押し寄せてくる。
今はもう潰れてしまったけど、幼い時に何度も母親と行ったことを覚えている。
いつも、食べたい菓子をねだって、母親が呆れながらも買ってくれた。その幸せだった日々は、忘れることが出来ない。
「でもまぁ、あの時の私は、父親に迷惑を掛けてはいけないって思っていましたから、駄菓子を見るだけで何も買わなかったんですけどね」
横目で、雪乃先輩がどんな表情をしているのかそっと確かめる。
彼女は、まだ私が何を言おうとしているのか理解していないようだったが、それでも何も言わずに私の話を聞いてくれている。
だから、私は嫌な記憶を自然と話すことが出来ていた。
あの温かかった夜もそうだけど、雪乃先輩は話を聞くのが上手だ。そう言う所は、凄いと思う。
「さっき見たヨーグルト風味の菓子とか、たばこみたいなラムネとか、口に入れるとぱちぱちする飴とか、懐かしい物を見て、ちょっとだけ心が温まったんです。そして、その中には……よくお母さんと一緒に練っていた水飴もあって……」
本当に、それは懐かしい幸せな思い出だ。
不器用ながらも、がっばって水飴を練り続けて……でも、途中で手が痛くなって、母親に練ってもらう。
そのたびに、母親に頼るしか出来ない自分に恥ずかしくなって……けれど、そんな私にも付き合ってくれる母親の温かさが身に染みて、あの時の私は、駄菓子屋に行くのが好きだった。
「優しいお母さんだったんだね」
「……はい、母親は優しくて、温かくて、私と一緒の景色を見てくれる、私が一番尊敬している大人ですから」
母親とはまったく違う道を歩いている私が……言っていいことでは無いってことはわかっている。
でも、誰かには、母親の凄さを知ってほしかった。娘が私だったということ以外には、欠点なんて何一つない母親の凄さを。
「ただ、そんな私の動きが奇妙に思えたんでしょう。駄菓子屋から出てしばらくすると、駄菓子屋の店主が追いかけて来たんです」
「え……」
雪乃先輩の小さな声が、空気に溶けるように漏れた。
理解できない……そんな考えが表情に出てしまっている。
「子供が駄菓子屋に来て、何も買わずに帰る。それが不自然だと思ったんでしょうね。駄菓子を盗んだんだと思ったらしく、走って私に追いついて、怒鳴り声で問い詰めてきましたよ」
「でも、澪ちゃんは……」
「ええ、今の私でもそんなことをしないのに、当時の私がそんなことするはずもないじゃないですか。何とか盗んでいないと理解してもらいましたけど、三十分以上は問い詰められましたし……何より、それを見ていた人たちが、通っていた小学校に通報してしまったんです」
私は、学校から帰るついでに、その駄菓子屋に行ってしまっていた。
そのせいでランドセルを背負ってしまっていたし、何よりどの小学校かもバレてしまった。
しかも、野次馬の人たちが通報したせいで、『盗んだんだろ』とか『正直に言え』と言った店主の言葉を真に受けて、私が物を盗んだかのように学校に知られてしまった。
そして……
「そこからは、元々私のことを嫌っていた先生ですから、誤解だと伝えてもまだ疑ってきましたし、何より……私が弁明するように父親に伝えられたんです」
そこまで言った瞬間、胸の奥がじわりと重くなる。
あの日の空気が、また薄く蘇る。
「父親は、学校からの電話を聞いて……すぐに私を呼び出しました。本当のことを言えって、どうせ嘘をついてるんだろうって」
淡々と話しているつもりなのに、声が少しだけ震えた。
「盗んでないって、何度も言いました。でも……信じてもらえませんでした。しまいには……おまえは本当に母さんの娘なのかって」
「――っ」
雪乃先輩の息が、ほんの一瞬だけ止まった。
声にならない衝撃が、横顔のわずかな強張りに滲む。
親に恵まれていた雪乃先輩では、これは理解できないはずだ。
「ははっ、泣けてきますよね。父親にすら、こんなことを言われてしまうんですよ。でも、それを証明しようとしても、唯一証明できる母親は、私を庇って死んじゃったんです。だから、全部私のせいで……何も言い返せなかったんですよね」
乾いた笑い声が出て来たのに、何故か視界が歪んで来る。
でも、私に悲しむ資格なんて無い。昔の私ならともかく、今の私は母親とは全く違って、性格も悪くて、褒められることは何一つしていない。
だから、娘じゃないと言われても、何も言い返せない。
だって、全部私が悪いんだから。
「澪ちゃん……」
「これは、忘れようとしていたんですけど……さっきの駄菓子屋で水飴を見たのがとどめになって、思い出してしまったんですよね。……ああ、別に雪乃先輩のせいって言ってるわけじゃないんで、そこは安心してください」
「そんなことは、どうでもいいよ」
雪乃先輩の声は、驚くほど静かだった。
責める響きは一つもないのに、胸の奥にまっすぐ届く。
「なんで、今のでわたしのことを気遣ったの? 辛いのは、澪ちゃんでしょ」
「でも、雪乃先輩のことだから、自分が駄菓子屋に行きたいと言い出したせいで、澪ちゃんを苦しめたって思ってそうですから」
「で、でも――」
「それにもう、慣れましたから」
言った瞬間、自分でもわかるほど軽い調子になっていた。
けれど、その軽さは本物じゃない。ただ、これまで何度も繰り返してきて、こうやって自分を誤魔化すことに慣れただけだ。
水飴を見て取り乱したのは確かだけれど、時間を置けば落ち着ける。
そうやって、ずっとやってきた。初めて雪乃先輩が家に来た日のように、どうしようもなく崩れたのは一度きりだ。
だから、大丈夫。
今の私なら、水飴だって普通に食べられる。
「澪ちゃん……」
その声に顔を上げた瞬間、胸の奥がざわついた。
どうして、そんな目で私を見るの。悲しげで、痛々しいものを前にした時のような、触れたら壊れてしまうものを見つめるみたいな目で。
「雪乃先輩……?」
「そっか、澪ちゃんは……ううん、なんでもない。気にしないで」
雪乃先輩は、何かを飲み込むように一度まぶたを伏せ、それから小さく決心したみたいに頷いて、立ち上がった。
そして、迷いのない動きで私に手を差し出して、温かい瞳で、私を見つめる。
「もう、大丈夫?」
「大丈夫ですけど、いったい何を……」
「こんな雰囲気、澪ちゃんも楽しくないでしょ。なら、もっと楽しまないと」
それには賛成するけど、この変わりようは何なのだろうか。
私の話を聞いて、何か決心したような……。
とはいえ、雪乃先輩のことだから、私にそれを教えてくれないだろう。
それに、私だって、少しはこのデートらしきものを楽しみたい。
「……じゃあ、行きましょうか」
「そうだね、後はしっかり楽しもう」
差し出された手を取ると、雪乃先輩の指先がそっと私の手を包んだ。
その手は、私の手よりもちょっとだけ温かかった。




