43話
「遅い」
「あはは……ごめん、遅れちゃった」
何事も無く学年一位を取った私は、日曜日に雪乃先輩とデートをする権利を得た。
……まぁ、私達に恋愛感情なんて無いし、デートって表現するのは間違っているのだろうが、似たようなことをするんだからそれでいいだろう。
「準備は出来てるの?」
「当然です。前日の夜に終わらせてますし、朝に再度確認しました」
「……真面目だね」
雪乃先輩は、約束の時間よりも十分も早く私の家に来てくれた。
ただでさえ、朝の九時とかいう早い時間を集合時間にしたんだ。それも、私が一方的に。
なのに、雪乃先輩は文句の一つも言わずに集合時間の十分前に、私の家に来てくれて、むしろ私に笑顔を向けてくれている。
もし、私が雪乃先輩だったら、そんなことは絶対に出来ないから、その凄さとありがたさが胸に染みて、少しだけ目を逸らしたくなる。
「それで、今日はどこに行くのか決めてるの?」
「私から誘ったんですから、予定を決めているに決まっています。あと、金の心配はしなくていいですよ。全部、私が払うんで」
私は生活費以外で金を使わない。それは、物欲と言うような物が全くないということや、友達が茜しかいないため、どこかで遊びに行って金を使うということもない。
そのおかげなのか、私の手元にはお金が有り余っているし、そもそも父親が稼いだ金なんだから、無駄に使ってなんぼの物だろう。
「え……先輩だから、わたしが奢るつもりだったんだけど」
「私が誘ったんだから、おとなしく奢られてください」
「でも……」
「時間の無駄です、さっさと行きますよ」
まだ口答えしてくる雪乃先輩の手を引いて、私は家から出発した。
まったく、奢ってあげるって言ってんだから、素直に奢られたらいいのに。献身は美徳だと思うけど、行き過ぎた献身は侮辱になってしまうんだよ。
ドアを開けて外に出ると、五月下旬の湿気が肌にまとわりついた。
風はまだ春の名残を引きずっているのに、空気だけはじわっと重い。
(はぁ、もっと前にすべきだった)
湿度が高い日は嫌いだ。どんよりとした空気が、身体と心を包んでしまい、深く暗いところへと落としてくる。
せっかく雪乃先輩とデートしに行くんだから、もっと湿度が低い日にすればよかった。
(ま、いいか)
でも、ここから先は湿度が高くなる一方。むしろ、晴れの日の方が少なくなるだろう。
だから、後悔なんかをしたところで、雪乃先輩とのデートがつまらなくなるだけ。なら、嫌なことは全部忘れて、心の底から楽しむべきだ。
「まずは、どこに行くの?」
雪乃先輩が背後から問いかけてくる。
彼女は、私の手を振り払おうとせず、むしろ優しく握り返しながら私について来てくれる。その手の柔らかさが、私の固まった心をほぐしてくれるような錯覚を覚えて、手が私の意志を反して離そうとしてくれない。
「ま、黙ってついてきてください。知らないほうが楽しめる部分ってのもありますからね」
私達は駅前へ向かって歩き出した。
湿った空気と、繋いだ手の温度と、胸の奥のざわつき。全部を抱えたまま、ゆっくりと。
こうして、私と雪乃先輩の日曜日が始まった。
「まずは、ここですね」
最寄駅から電車に乗り、数駅先の駅で降りた。
車内の冷房で少しだけ落ち着いた湿気も、駅を出た瞬間にまた肌へまとわりついてくる。
目の前に広がるのは、休日で賑わう大型ショッピングモール。
ガラス張りの外壁が朝の日差しを反射して、やけに眩しい。
「ショッピングモール? なにか買いたいものがあったの?」
雪乃先輩は、私に問いかけてくる。
それは、決してショッピングモールに来たことを嫌がっているようには見えないが、楽しさよりも困惑の方が勝っているように見えた。
「まぁ、一個だけ買いたいものはありますし、それを買うためにここに来たんですが、誰かと買い物に行くってことをしたことが無くて、それを経験してみたいなって思っただけです」
本当のことに、ちょっとした嘘を混ぜて答える。
それも、意図的ではなく無意識のうちに。理由なんてわからないし、わかろうともしない。
雪乃先輩は、私の言葉を聞いて一瞬だけ瞬きをした。
困惑しているのはわかる。
でも、その奥に――ほんの少しだけ、嬉しそうな色が混ざっていた。
「……そっか。誰かと買い物って、したことなかったんだ」
「はい。必要なものは全部ネットで買いますし、外に出る理由もありませんから」
「でも、今日はわたしと来てくれたんだね」
「……まぁ、そうですね」
言いながら、繋いだ手に少しだけ力が入る。
湿度でべたつくはずなのに、雪乃先輩の手は不思議と心地よかった。
「その買いたいものって何なの?」
「それは最後に買いに行く予定なので、それまでに教えてくださいよ。誰かと一緒に買い物に行く楽しさってやつを」
(ま、飼いたいものを買えれば、それでいいんだけどね)
誰かと一緒に買い物をするのが楽しいって思う人もいるらしいけど、私にはそれが理解できない。
買うと言う単純でつまらない行為を楽しむだなんて、呼吸をすることを楽しめと言っているような物だろう。
「なるほどなるほど、買いたい物についてはさっぱりわからないけど、澪ちゃんが買い物の楽しさを知りたいってことはわかったよ」
「……何でニヤけているんですか、気持ち悪い」
「ふふん、それならば先輩であるわたしに任せてね! 買い物の楽しさという物を教えてあげる!」
「……何か間違った気がする」
雪乃先輩の笑顔を見て、何故か嫌な予感が私を襲ってきた。
それも、不安とかそういうものじゃなくて、なんかこう……心が沈むような、面倒くさいことが目の前に迫って来ているような、憂鬱な気配。
「じゃあ、まずは服屋に行こっか!」
その明るい声が、湿った空気を軽く押しのけるように響いた。
嫌な予感はまだ胸の奥に残っている。けれど、繋いだ手の温度がそれを少しだけ薄めていく。
(まぁ、悪くないかな)
私は今、一人じゃない。
だったら、一人だと知ることが出来ない物について知ろうとするのも悪くない。
それに何より、雪乃先輩の目の中には、私だけが映っている。
「それなら、案内してくださいよ。ついていくので」
「了解、経験は無いけど……このデートを最高のものにしてあげるから」
私達は手をつないだまま、ショッピングモールの奥へと歩き出した。
ガラス張りの外壁から差し込んで来る日光も、人混みのざわめきも、全部どうでもよくなるくらいに、雪乃先輩の手はあたたかかった。




