42話
「それじゃあ、今日はおしまい。おつかれさまー」
生徒会の仕事も終わり、雪乃先輩がみんなに呼び掛けた。
その呼びかけに応じて、遠藤先輩が身体を伸ばしたり、茂木先輩が大きく息を吐いている。
どうやら、彼女たちもテストの疲れが残っていたらしい。
普段は何事もなくこなせる仕事であっても、一週間も続いたテストの後では、さすがに疲れが残っているようだ。
「……」
「……」
一瞬だけ大江と目が合う。
先ほどのことを気にする様子を全く見せない桃井と違い、大江は心の底から私に対して怒っているようで、無言のまま私のことを睨んで来る。
どうせ、彼女は無駄なプライドでも持っていて、私の言葉で深く傷ついたのだろう。
謝るつもりも無いし、悪いことをしたとも思っていないけど、そんな目で見られるのは、かなり不快だった。
(なんでだろ、これ……)
おかしい。普段の私なら、こんな目で見られることを好んでいたはずだ。
けれど、今の心の中には喜びのような物はなくて、ただもやっとしたものが渦巻いているだけ。気持ち悪い。こんなの、私は知らない。
「じゃ、おつかれさまです」
だから、私は逃げるように生徒会室から出た。
大江から逃げようとしているわけじゃない。よくわからない感情を心の中から消し去るために逃げたんだ。
廊下に出た瞬間、空気がひんやりしているのがわかった。
生徒会室のざわめきが扉の向こうに閉じ込められて、世界が急に静かになる。
なのに、胸の中だけは静かにならなかった。
「澪ちゃん、待って!」
すると、雪乃先輩の声が背後から飛んできた。
その声のせいで、つい振り返ってしまうと、雪乃先輩が自分の荷物を背寄って、私の方まで走って来た。
「廊下は走ったら駄目って習いませんでした?」
「そうだね。澪ちゃんが黙っててくれると、わたしとしては嬉しいんだけど」
「茂木先輩に報告しときます」
絵理ちゃんかぁ、ちゃんと怒られそうだねと雪乃先輩は悪びれた様子で呟いた。
その表情は、悪いことをしたと思っていながらもどこか楽しそうで、何を考えているのかわからない。いや、そもそも雪乃先輩が私を追いかけてくる理由なんて無いはずだ。
もう、家には泊まってくれないんだから。
「で、どうしたんですか? 週に一回は家に泊るとか言ってましたけど、まだ月曜日ですよ」
「もちろん、今週中に泊るつもりだけど、今日じゃないよ。ただ、一緒に帰ろうかなって」
変なの。
「勝手にすればいいじゃないですか」
私は前を向き、自分のペースで歩き始める。
雪乃先輩が「待って!」と言いかがら追いかけてくるが、早歩き程度の速さなんだから追いつけるはずだ。
それに、雪乃先輩なんだから、きっと追いかけてくれる。
校舎を出ると、夕焼けの赤い光が私の顔を照らし、影が長く伸びた。
その影のすぐ横に、もうひとつ、同じ速度で伸びていく影がある。
「はぁ……澪ちゃん、歩くの早いよ」
雪乃先輩が私の隣に立ち、手で光を遮りながら赤い空を見上げた。
雪乃先輩の頬が赤く染まり、夕焼けの光に溶けていく。その横顔を見た瞬間、胸の奥がまたざわついた。
私は視線を逸らし、歩幅を少しだけ広げた。
追いつかれたくないわけじゃない。ただ、隣に並ばれると、心の中が落ち着かなくなる。
「良い運動になったからいいじゃないですか?」
「う、確かにわたしは運動不足だけど……でも、澪ちゃんも運動不足なんじゃないの?」
「テスト週間はしてませんけど、ちょっとした筋トレぐらいは毎日してます」
もし、日頃運動していないせいで、何か大きい病気になった時、それを治すための費用や時間は、日常生活に支障をきたすほど多くとられてしまうだろう。
だが、毎日十分程度の筋トレをするだけで、ある程度の予防になるのならば、やらない理由なんてどこにもない。
雪乃先輩はちょっと抜けているところがあるから、筋トレをしていなくても不思議ではないが、茂木先輩なんかは私以上に運動していそうだ。
それこそ、筋トレだけじゃなくて、ジョギングなどの外で長時間する運動とかを。
健康のためならば、きっとそう言うことをするべきなんだろうね。
でも、家の中で出来る筋トレとは違い、外に出る必要があるジョギングなどは、めんどくさくてする気が起きないけど。
「それにしても、澪ちゃんは凄いね。いい点を取るってことは予想できてたけど、まさか今のところすべてのテストが満点だなんて」
「……別に、普通ですよ」
即答したのに、声が少しだけ硬かった。
普通。当たり前。そう言い切れるはずなのに、雪乃先輩に褒められると、胸の奥がじわっと熱くなる。
きっと夕焼けのせいだ。赤い光に胸が暖められて、こんな気持ちにさせられた。
くそったれ、だから晴れは嫌いなんだ。
「普通じゃないよ。というか、澪ちゃんは自他共に厳しすぎるんだと思う。だって、満点だって結果にも、特に喜んでるわけじゃないんでしょ」
「……だって、喜ぶところなんてどこにもないじゃないですか」
そう言い切った瞬間、自分の声が思ったより冷たくて、少しだけ驚いた。
雪乃先輩は、すぐには返事をしなかった。
夕焼けの光を受けながら、ほんの数秒だけ考えるように視線を落とす。
「そこまで、自分のことを認めれないの?」
「……」
何も言い返せなかった。
私のせいで、お母さんが死んだこと。裏切られ続けたせいで、歪んでしまって周りの人に迷惑をかけ続ける人になってしまったこと。もう引き返すことが出来なくて、ずっとそのままクソみたいな性格のままでいること。
だから、私は私のことを認められない。
「そっか、そうなんだね。わかったよ」
「……話を変えてください。ムカつくんで」
「わかったよ。うーん、それじゃあ一位を取ったご褒美について話そっか」
雪乃先輩は、わざとらしいくらい明るい声で言った。
さっきまでの空気を、無理やりでも変えようとしているのがわかる。
「まだ一位を取ったって決まってませんけど」
雪乃先輩は、私が学年一位を取ればなんでも言うことを聞くって言ってくれた。
でも、まだ全部のテストが返ってきたわけじゃない。一位を取れる自信がないわけではないけれど、まだ決まってないんだから報酬に関して話すのは早すぎると思う。
けれど――
「あ、別に一位ってのはどうでもいいんだよ」
「…………は?」
意味わからないことを言ってくる。
一位を取ったらって言ったのは雪乃先輩じゃないか。嘘でもついていたわけ? そんなの、裏切りじゃん。
「嘘ついたんですか?」
「そういうわけじゃないんだけど、そういう事なのかもしれない」
「どういうことですか?」
「なんというか……一位を取ることには意味が無くて、真剣にテストを受けたことが大事なんだよ」
(どういう……いや、そういうこと?)
例えるならば、私は馬だ。
テストで一位を取れば、何でも言うことを聞くって言われたせいで、真剣に勉強し、真面目にテストを受けされられた。
それは、目の前にニンジンを吊るされた馬のような状態であり、私はただ、それに釣られて走っただけだ。
「してやられたってわけですか?」
「そう言うことになっちゃうかな? 私としては、澪ちゃんに真面目にテストを受けて、先生たちに認めてほしいなって気持ちがあったから」
「すみませんね、そんな気持ちを台無しにしてしまって。あ、もちろん後悔なんてありませんから」
「ふふっ、澪ちゃんらしいね。でも、そうなるかもなって予想していた部分もあったから、そこまで気にしてないんだよ。茜ちゃんほどじゃないけど、悲しい気持ちになったのは事実だけどね」
雪乃先輩は笑っていた。
何かを隠しているような笑顔じゃなくて、ちゃんと感情の全部を見せてくれる笑顔だった。
「でも、何でも言うことを聞くってのは本当。澪ちゃんは、テストをしっかり受けてくれたんだからね。だから、言ってみて? 何でもいいよ」
「……っ」
それは、あの時から決めていて、何が欲しいのか、何をしたいのか。それははっきりと言葉になっている。
でも、それを言っていいんだろうか? 欲しい物は問題なんて無いんだけど、したいことは多少問題がある。そのせいで、少しだけ躊躇ってしまった。
(……けど、悪いのは雪乃先輩だよね)
そう自分に言い聞かせて、私は口を開いた。
「今度の日曜日、私に全部ください」
「それって、どういうこと?」
雪乃先輩が首を傾げる。
そんな仕草でさえ、胸の奥をざわつかせる。でも、もう迷わない。迷ったら言えなくなる。
「日曜日、私に付き合ってほしいってことです。……まぁ、つまり――」
息を吸う。胸が痛いほど脈打っている。
言ったら戻れない。でも、もう戻るつもりなんてない。
「――日曜日、私とデートしてくださいってことです」




