37話
「よし、今日はこれでおしまい。みんな、ゆっくりと家に帰るんだよ」
あれから時間が経ち、やっと生徒会の仕事が終わった。
最初は苦戦しいたノートパソコンの扱いも、今では慣れて、ある程度扱えるようになっている。そのおかげで、手書きでやるよりも早く仕事が進んでいき、効率がぐっと良くなった。
「ふぁぁ、やっと終わったー」
「おつかれさま、肩もんであげよっか?」
「い、いえいえ、先輩にそんなことさせれませんよ」
桃井が腕を伸ばし、凝った身体を伸ばしていると、遠藤先輩が笑いながら両手を桃井の肩に乗せた。
そのせいで、桃井の身体は、さらに強ばったのだが、そんなことを気にせずに遠藤先輩は楽しそうに肩を揉み続けていた。
「茂木先輩、あんな感じで肩をもんでくれませんか? すっごく疲れているんですよ」
「……ふざけてんの?」
「えー、冷たいなぁ」
茂木先輩に冗談を言うと、眉を顰めて冷たい殺気のような視線を向けられてしまった。怖い怖い、ここまで嫌われていたとは。
「澪ちゃん、わたしが肩をもんであげよっか?」
「しなくていいです。嫌々肩をもませることに価値があって、自分から肩をもんであげようとするマゾにやらせたところで意味が無いんですよ。それに、肩凝ってないし」
「……は?」
茂木先輩が信じられないような物を見るような目で私のことを見てくるが、そんなのは無視して身体を伸ばす。
たぶん、雪乃先輩は誰かの世話をするのが好きなんだろう。だから、私の肩をもむことを嫌がらないはずだ。
そんなの、本当にしょうもない。プライドが高かったり、無駄なことを嫌う人が嫌々他人の肩をもむのを見るのが好きなのに、雪乃先輩はそんな様子を絶対に見せないじゃないか。
それに比べて、茂木先輩は私の好みを体現してくれている。だから、もっと顔を歪ませて、苦しんでほしい。
「あのね、いい――」
「ストップ! 絵理ちゃん、落ち着いて!」
「は? 今のはどう見ても、黒瀬の方が悪いでしょ」
「それはそうだけど、喧嘩は駄目だから!」
「……それはそうってんなんですか?」
雪乃先輩め、よくも茂木先輩の味方をしやがって。どこからどうみても、私に悪いところなんて……いや、悪いところしかないか。
でも、私の味方をするって言ったんだから、私の味方になってほしい。ま、喧嘩を止めようとした時点で、私の味方かもしれないけど。
「二人ともいちゃついてないで早く帰りなよー」
「いちゃついてるって、誰と誰が」
「絵理と澪ちゃん」
「は? とうとう頭がおかしくなったの?」
すると、遠藤先輩が横やりを入れて来た。そのせいで、茂木先輩はさらに眉を顰め、もはや眉間に皺がずっと残ってしまいそうなほど機嫌が悪くなってしまっていた。
いいぞ、もっとやれ。その顔、好みだから。
「どこがいちゃついてるように見えるの? 私はコレのこと、嫌いなんだけど」
「私の方は結構気に入ってますけどねー」
「本音を言って」
「よく鳴るおもちゃとして、気に入ってますよ」
「おまえ…」
茂木先輩の拳がわなわなと震え、今にも爆発しそうなほど怒りが溜まっていた。
ちょっとやりすぎちゃったかな? 他人を煽るのは、丁度いいバランスが大事なんだから、これ以上はやめておこう。
「じゃ、さようなら。明日は、生徒会があるんですよね?」
「うん、そうだよ。また明日ね」
「ちょ、逃げるな!」
「絵理ちゃん、落ち着きなよ……」
頭に血が上っている茂木先輩から逃げるように、私は生徒会室から出た。
雪乃先輩は私に手を振って、遠藤先輩は呆れたようにため息を吐いている。そんな二人を横目で見ながら、私はさっさと廊下へ足を向けた。
背後でまだ茂木先輩の怒鳴り声が響いていたが、もう聞く気にもならない。
冷たい風が誰もいない廊下に流れ、私の頬を撫でる。その冷たさが、高揚した私の心をゆっくりと沈めていく。さっきまで胸の奥で暴れていたものが、風に押し流されるみたいに形を失っていくのがわかった。
外に目を向けると、校舎の端に沈みかけていて、窓の縁だけが赤く染まっていた。その色が、さっきまで胸の奥で暴れていた感情とはまるで無関係みたいに、ただ静かで、穏やかで――少しだけ腹が立つ。
(……なんなの、ほんと)
誰に向けたわけでもない言葉が、喉の奥で小さく転がった。
夕焼けに照らされた廊下を歩きながら、私は鞄の紐を握り直す。
落ち着いたはずの心が、またじわりとざわつき始めていた。
「で、何でここにいるんですか?」
帰宅路の途中、私は前を向いたまま、横にいる人物に話しかけた。
もう太陽は沈んでいて、街灯の白い光が歩道に細長い影を落としていた。その影の中を、私とこいつの足音だけが並んで進んでいく。
「え? 家の方向が同じだから」
「また明日は何だったんですか?」
「一緒にいる時間が長いほうが良いって思わない? これはボーナスみたいなもんだから」
「……はぁ、勝手にしてください」
私の横にいる人物――つまり、雪乃先輩は柔らかい笑みを浮かべて、私の横を歩いている。
雪乃先輩は、私の近くを歩いていて、足を進める度に、肩がぶつかりそうになって心臓が少し跳ねる。そのたびに、私はほんのわずかに身体をずらすのだが、雪乃先輩は気づいているのかいないのか、同じ距離を保ったまま歩いてくる。
「そんなに離れなくてもいいのに」
「離れてませんよ」
「そうかな?」
「そうです」
ムカつく、私以外と勉強会をするくせに、私の側に来るなんて。
もちろん、勉強会に参加しない私が悪いし、八つ当たりだってことはわかっているけれど、そんな醜い感情を今すぐに吐露したいほど、そんな醜い感情を今すぐに吐露したいほど、胸の奥がじりじりと熱を帯びていく。
なのに、口を開けば何かが壊れそうで、私はただ前だけを見て歩き続けた。
「澪ちゃん、歩くの早いよ」
「……別に普通です」
「そっか。じゃあ、わたしが合わせるね」
軽い声。
何も考えていないようで、全部見透かしているような声。
(……ほんと、やめてよ)
夜風が頬を撫でても、熱は少しも冷めなかった。
むしろ、雪乃先輩の足音が隣で響くたびに、胸の奥のざわつきは大きくなる。
「じゃ、さようなら」
しばらくの間、無言のまま歩いていると、やっと家の前まで辿り着いた。
これで、もう雪乃先輩と関わらなくて済む。そう思うと、胸の奥が少しだけ軽くなる――はずだった。
けれど、実際にはまったく逆で、心臓の鼓動はさっきよりも落ち着かず、喉の奥に言葉にならない何かが引っかかったままだった。
(もういいや、さっさと家に入ろう)
全力で自分の感情を押し殺し、私は家の中に入ろうとした。
雪乃先輩がいるから、こんな気持ち悪い気分になっているんだ。雪乃先輩から離れることが出来れば、もうこの気持ちを捨てられる。
そう思って、足を踏み出した時だった。
「待って」
雪乃先輩の手が、私の腕を掴む。
雪乃先輩の温かい体温が、私の冷たい体に伝わってきて、一瞬だけ呼吸が止まった。
「今日、泊っていい?」
耳に届いた言葉の意味を理解するまで、数秒かかった。
胸の奥が一瞬でざわつき、掴まれた腕が熱を帯びる。
「……は?」
かろうじて絞り出した声は、驚きとも怒りともつかない、情けないほど薄い音だった。
雪乃先輩は、ただ静かに私を見つめている。その視線が、逃げ場を塞ぐみたいに重かった。
喉の奥に引っかかっていた何かが、さらに深く沈んでいく。




