32話
「うわっ、まだいるよ。あいつ」
「よく、堂々と学校に来れるよね」
(そう言えば、あの噂が広がっていたんだった。めんどくさ)
学校に行くと、生徒たちが私を見て、陰口を言い始めた。
生徒会長のせいで、すっかり忘れてしまっていたけれど、私に関する悪い噂が学校中に広まっていて、こうして陰口を言われ続けていたんだ。
まぁ、別に陰口程度のことで嫌な気分になったりはしてないんだけど、視線が身体に突き刺さってくるのが気持ち悪い。
正直、陰口って言っても、ワンパターンだけであり、最初の内は面白いと思うけど、続けば飽きてくるんだよね。
(どうでもいいか、そんなこと)
とはいえ、そんなことを気にすることが出来るほど、今の私は暇じゃない。
生徒会長のせいで、茜に謝る必要が出来たのだから。
教室のドアを開ける。
友人たちと談笑していたクラスメイト達は、私の姿を見ると一斉に静かになり、教室の空気が一段と重くなった。
私に聞こえないように小さな声で、隣人とひそひそ話し始める。
何を話しているのかは聞こえない。でも、どんなことを言っているのかは、簡単に想像できた。
けれど、私はそんなクラスメイト達に目もくれず、話さなくてはならない人まで、まっすぐ歩いた。
「茜」
「……っ」
茜の肩が、びくりと小さく跳ねた。
その反応だけで、昨日のことがまだ胸に残っているのがわかる。
「ちょっと来て」
「う、うん」
茜は立ち上がりながら、周囲の視線を気にしている。
クラスメイト達は、空気みたいに何も言わない。私と茜の間だけが、妙に静かだった。
茜はおそるおそる私の後ろに付いてくる。
その歩幅は小さくて、でも逃げる気配はなかった。
「……」
「……」
「……いい天気だね」
「う、うん」
誰もいない朝の屋上で、私達は空を見上げていた。
茜はこの気まずい空気に耐えられないのか、靴先で床をこつこつとつつきながら、何度も空を見ては私の横顔をうかがっている。
風が吹くたびに、茜の髪が揺れて、私の肩にかすかに触れた。
そのたびに、茜の肩がびくっと跳ねる。
「あ、あの……何の用で……」
茜が消えそうな声で、私に尋ねて来た。
風に紛れたら消えてしまいそうなほど弱い声だったのに、耳にははっきり届いた。
茜は視線を落としたまま、指先でスカートの裾をぎゅっとつまんでいる。
今どんな気持ちで横に座っているのか、想像に難くない。
「……」
どうするべきなのか。
その答えはわかっているはずなのに、どうすればいいのかわからない。
謝るということは、難しいことだ。もちろん、形だけの謝罪ならいくらでも出来るし、今までも冤罪だったにも関わらず、謝罪したことが何度もあった。
でも、茜相手には、心からの謝罪をしなければならない。非はすべて私にあるんだから。
風が吹いて、茜の髪がまた揺れた。その影が、私の膝の上に落ちる。
茜は、ぎゅっと裾をつまんだまま、こちらを見ようとしない。でも、逃げる気配もない。
(……言わなきゃ、だよね)
喉の奥がひりつく。言葉が重くて、舌が動かない。
私はゆっくりと息を吸って、茜の方へ身体を向けた。
「……茜」
その名前を呼んだだけで、茜の肩が小さく震えた。
「ごめん。昨日、最低なことをした。茜は、私の噂を払拭しようとしてくれたのに、強く……当たってしまって」
こんな謝罪に価値なんて無いってことはわかってる。
でも、私は言葉にして茜に伝えた。
常識だから、とか。生徒会長に言われたから、とか。そんな言い訳で、私のことを騙してしまえたら、もっとマシな謝罪になっただろう。
けれど、何故か私は、茜の前だけでは、嘘をつけなかった。
「……ほんとに、ごめん」
言葉にした瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
茜は驚いたように目を見開いて、それからゆっくりと伏せた。
裾をつまむ指先が、かすかに震えている。でも、逃げる気配はなかった。
風が吹いて、二人の間をすり抜けていく。その静けさの中で、茜が小さく息を吸った。
「なんで、あんなことをしたの……?」
茜が目を伏せながら口を開いた。声は震えて、少しだけ涙目になっている。
その姿を見ただけで、心の何処かが少し痛んだ。
「……優しくされるのが、嫌だったから。身勝手だと思うけど、私は優しくされたくないんだ。理由は言わないんだけど」
罵りたいのなら、罵ってくれても構わない。
恩をあだで返し、身勝手で救いようがない。それが私なんだから。
いくら生徒会長が立派な人物だとしても、染みついた本質は一晩で変わったりはしない。
けれど――
「やっぱり、そうなんだ」
茜は私を否定しなかった。
むしろ、私の目を見つめて寄り添ってくる。
「あの時……黒瀬さんはとても傷ついた顔をしてた。傷ついたし、悲しかったけれど……その顔が頭から離れなくて、何でだろうってずっと考えてた」
私の身体には触れない、生徒会長とは違う寄り添い方。
今の茜は、今まで見たどの茜よりも、強かった。
「確かに黒瀬さんは、酷い人だよ。性格は悪いし、約束は破るし、嫌なことばっかりしてくる」
「うっ」
「でも、わたしのことを考えてくれてた。だって、あの時わたしを拒絶したのは、わたしのためでもあったんでしょ」
そんなことない!
そう、声を荒げようとした。けれど、口から出たのは言葉にならない声だけで、茜の言葉を否定することが出来なかった。
「自分の側にいると、またわたしがいじめられるかもしれない。……そう思って、強い言葉で拒絶した」
「そんなに立派な人間じゃないよ。……私は」
「もちろん、それは知ってるよ。だって黒瀬さんは……良い人って言えるほどの優しい人じゃないから」
人によっては、罵倒のように聞こえてしまう言葉。
でも、私にとっては、どんな言葉よりも――胸の奥に静かに落ちていく。
「でも……黒瀬さんは、わたしの友達だから。わたしは――自分の意志で黒瀬さんの側にいるって決めたんだよ」
ともだち……?
知らない言葉が、頭の中で反響していく。
意味はわかるのに、実感が追いつかない。なのに、胸の奥が、じわりと熱くなった。
「ははっ、馬鹿なんじゃないの。私が友達なんて……ほんと、見る目が無い」
「……だって、どんなに酷くて捻くれてても、わたしのことを助けてくれたのは、事実だから」
ばっかみたい。そんな理由で、私のことを友達だと思うなんて。
茜のことを馬鹿にするような言葉が、頭の中で無数に思い浮かぶ。それを言ってしまえば、もう茜はこんなバカげたことを言わなくなるだろう。
けれど、私の口から出たのは、そのどれとも違う言葉だった。
「……なら、澪って呼んで。父親と同じ苗字なの、嫌ってるから。あと敬語も」
「澪、澪、みお……。うん、わかった」
茜は小さく繰り返しながら、ゆっくりと私の名前を口にした。
その声は震えていなくて、むしろ確かめるように、丁寧だった。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
自分で言ったことなのに、名前を呼ばれるだけで胸がざわついて、居心地が悪くなる。
なのに、私はそれを受け入れていた。
「はぁ、ほんと意味が分からない。生徒会長といい、茜といい。こんなこと、今まで無かったのに」
「友達、友達かぁ」
「何、にやにやしてんの。気持ち悪い」
茜は笑っていた。
声を出してじゃなく、口元だけがふわっと緩んで、抑えきれないみたいに。
「だって、澪と友達になりたいなってずっと思ってたから。なのに、いつも演技しているような感じだったし」
「珍しく饒舌だね。ちょっと前まで、少し怯えてるとこあったのに」
「……本心を見せてくれなくて、いつ縁を切られるのかって不安に思ってたから」
「あっそ」
それ以上、何も言えなかった。
茜はまだ少し照れたように笑っていて、私はその横顔から目をそらした。
風が吹いて、二人の間を静かに通り抜けていく。
気まずいはずなのに、不思議と嫌じゃなかった。
「……まあ、勝手にすれば」
そう言った私の声は、思っていたよりずっと柔らかかった。




