31話
「おはよ、黒瀬ちゃん」
眩しい。
瞼の裏に、白い光がじわりと滲み込んでくる。カーテンの隙間から差し込む朝日が、まるでわざとみたいに顔を照らして、眠りの残りかすを容赦なく剥がしていった。
身体がゆっくりと浮かび上がるように覚醒していく。
布団の中の空気はまだ温かいのに、光だけがやけに冷たく感じた。
「……まぶし」
「起きてよ、遅刻しちゃうよ」
顔を布団の中に潜り込ませると、生徒会長が無理やり布団をはぎ取ってきた。
嘘つき、私を裏切って、朝の味方をしやがった。
「ちっ」
「もう。ちゃんと寝れた?」
「……久しぶりに寝れましたよ」
あの後、私は生徒会長と一緒に寝た。生徒会長が側にいてくれたおかげなのか、あの悪夢にうなされることもなく、久ぶりの熟睡を味わうことが出来た。
こんなの、ここ数年間は無かったことであり、朝のこの時間に眠気が一切しないことが、心の底から信じられなかった。
「そう言えば、黒瀬ちゃんって夜はどうやって過ごしてたの?」
すると、生徒会長がそんな質問をしてきた。
確かに、毎晩あのような夢にうなされていたら、満足な睡眠がとれていないと思うだろう。実際に、私は悪夢のせいで常に睡眠不足なんだから、その推測は間違っていない。
「あー、夜はずっと勉強していましたね。そこにある参考書を使って」
「あ、やっぱり? でも凄いよね。高校三年生でする範囲の参考書とか無かった?」
この人……勝手に漁っていたのかよ。
とはいえ、参考書は見られたところで減るような物じゃないし、何より本棚にきれいに並べているんだから、漁らなくても見つけることが出来るだろう。
だから、それを咎める気にもならなかった。
「凄いも何も、毎晩勉強してたら出来るようになりますよ。夜は無駄に長いし、勉強以外にすることなんて無いんだから」
「あ、二、三時間とかじゃなくて、六時間や七時間も勉強しているのか……。でも、それって集中力が続くの?」
「他にすることなんて無いんでね」
勉強は好きじゃない。
でも、寝れない夜の時間を潰すには、これしかなかったんだ。ゲームなんてものに楽しさなんて感じなかったし、したところで時間を無駄にしているという虚しさを感じるだけだった。
それに対して、勉強はまだ時間を有意義に使えているという実感があり、他のことに比べていくらかマシだったんだ。
「夜って長いもんね……。あ、いつか勉強を教えてくれない?」
「……私は後輩ですよ」
「たぶん、黒瀬ちゃんの方が頭いいと思うから」
「はぁ、気が向いた時に教えますよ」
めんどくさい……が、生徒会長のおかげで満足な睡眠をとることが出来たんだ。そのくらいのことはするべきだろう。めんどくさいけど。
それに、高校三年生の演習でするような応用問題には、まだわからないところもあるが、生徒会長が習っている範囲なら問題なく教えることが出来るだろう。
生徒会長も頭が悪いってわけではなさそうだし、そのくらいは受け入れたっていい。
「ありがとね。あ、朝ご飯は用意しといたから食べて」
「……母親みたいなことをしないでください」
「母親みたいかな? まぁ、誰かの世話をすることって好きだから仕方がないよ。普段は、妹の世話をしているし」
「あっそ」
机の上には、生徒会長が作ったと思われるフレンチトーストが並べられていて、照明の光が表面の砂糖をきらりと照らしていた。
焼きたての甘い匂いが、部屋の空気にゆっくりと広がっていく。
「おいしい?」
「悪くはないです」
口に入れると、砂糖の甘さと卵の柔らかさが舌の上でふわりと広がった。
外側はほんのりカリッとしているのに、中は驚くほどしっとりしていて、噛むたびにじゅわっと温かさが滲み出してくる。
私は、コンビニのおにぎりで朝食を済ませることが多く、冷たい物ばかり口にしていた。
だから、生徒会長が作ったフレンチトーストの温かさが心に染みて、私の日常を静かに侵食していった。
「おかわりいる?」
「いりません」
「困ったなぁ、ちょっと作りすぎたんだよね」
「……なら、貰います」
生徒会長がにやにやと笑みを浮かべながらこっちを見ている。気持ち悪い。
ほんと、私の性格を理解しすぎじゃないかな。
「食品ロスの削減のためですからね。決して、おいしいからもっと食べたいってわけじゃありませんから」
「わかってるよ。最近はそう言うの大事だからね」
「ふん、わかってるならいいです」
そう言いながら、フォークはまた自然と皿へ伸びていた。
表面の砂糖が照明に反射してきらりと光り、さっきよりも甘い匂いが鼻をくすぐる。
(……ほんと、私のこと理解しすぎ)
生徒会長は、私が次の一口を運ぶのを確認してから、満足そうに息をついた。
「黒瀬ちゃん、朝からちゃんと食べてくれると安心するなぁ」
「別に、生徒会長のために食べてるわけじゃないですよ」
「うん。でも、食べてくれて嬉しい」
カーテンの隙間から太陽の光が差し込んで来る。
朝の光は相変わらず眩しくて、でも、胸の奥のどこかは、昨夜の続きみたいに静かに温かかった。
「……ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした。わたしはちょっとした用があるから早めに家から出るけど、ちゃんと学校に行くんだよ」
「だから、母みたいなことを言わないでください」
そういうの、今まで経験したことないんだから。
そんなことを思いながら、私は静かに生徒会長を目で追っていた。
どこか慌ただしく、でも常に私のことを気に掛けてくれている。もしかしたら、生徒会長のような人を、心のどこかで待ち望んでいたのかもしれない。
(いや、それは無いか)
だって、私は今まで一人で生きて来たんだ。これからもずっとそうに決まってる。
……そうでも思わないと、心が不安に押しつぶされそうになる。
「じゃ、行ってくるね」
「勝手にどうぞ」
生徒会長が玄関で靴を履きながら、ふとこちらを振り返った。
優しい笑みを向けられて、どんな顔をすればいいのかわからなくなってしまう。
「また放課後ね! あ、そうそう、茜ちゃんと仲直りするんだよ」
「えっ、どうしてそれを……」
「女の勘ー。じゃ、行ってきます」
「ま、まってくださいよ!」
あ、あの馬鹿生徒会長は、最後の最後に余計な一言を残して、まるで逃げるみたいに玄関の扉を開けた。
追いかけようとした時には、もう玄関は閉まっていて、声が届かないところに行ってしまっていた。
「……ばか」
もう、わけがわからない。
急に家に来て、隠していたことを全て暴いてくるし、勝手に私の心に指を入れて、勝手に安心して、勝手に笑って、最後に茜のことまで持ち出していく。
(……ほんと、何なんだよ)
玄関の前に立ち尽くしたまま、指先がかすかに震えていた。
怒っているのか、呆れているのか、それとも……
胸の奥がざわざわして、落ち着かない。
静かになった部屋に、さっきまでの温度だけが残っている。フレンチトーストの甘い匂いも、まだ薄く漂っていた。
「……ほんと、勝手にしろ」
そう呟いた声は、思ったより弱かった。自分でも驚くくらいに。
でも、身体は勝手に制服に着替え始めていて、学校に行く準備を整えていた。
(学校に行かなきゃ、また変なことをされそうだし……)
そう自分に言い聞かせて、本音から目を逸らして、私は鞄を手に取った。
「あ、ピアス」
靴を履こうとした時、ピアスをつけ忘れていたことを思い出して、アクセサリー入れがあるところまで戻った。
このピアスは、手元に唯一残った母の形見で、これを付けていると胸の奥のどこかが、ほんの少しだけ落ち着く。
なのに、それを付けることを、忘れてしまっていた。こんなこと、一度も無かったのに。
(はぁ、もういいや。考えるのをやめよう)
生徒会長のことを頭から振り払って、私は玄関の扉を開けた。
五月の風がひやりと頬を撫でて、さっきまで胸に残っていた温度を静かに散らしていく。ピアスが耳元で小さく揺れて、かすかな音だけが、まだ私の中に残っていた。




