30話
澪side
「ありがとうございます」
私は、生徒会長から水を受け取って、喉へ一気に流し込んだ。
冷たさだけが喉の奥に残り、思考が明細になっていく。さっきまで胸の奥で渦巻いていたざわつきが、少しずつ薄れていくのがわかった。
コップを下ろすと、手がわずかに震えていた。
気づかれたくなくて、指先に力を込める。
「……落ち着いた?」
生徒会長が隣に座って、優しそうに背中を撫でてくれる。
冷汗のせいで冷えてしまった身体に、生徒会長の手の温かさがじんわりと染み込んでいく。
(……やめてほしいのに)
そう思ったはずなのに、肩の力が勝手に抜けていく。
呼吸がゆっくりと深くなり、震えが少しだけ収まった。
「……ありがとうございます。ただ、着替えたいので、シャツを取ってきてくれませんか?」
「おっけー。あ、タオルもいる?」
「あ、いります」
生徒会長から新しいシャツとタオルを受け取って、全身から出ている冷汗を拭いていった。
肌が空気に触れ、冷たい。さっきまで背中にあった温かさが、余計に際立つ。
「わたしが拭こうか?」
「変態。拭くことくらい自分で出来ます」
「変態って……別に、そういう目で見てないんだけどね」
うるさい。私以外が私の身体に触れるな。
そうして、私は一人で冷汗を拭いた後、新しいシャツに着替えて、大きく深呼吸した。
もう、隠すことは出来ない。ここから、どれだけ嘘を吐いたとしても、悪夢にうなされていることはバレてしまっているし、きっと寝言で触れられたくないことを言ってしまっている。
「言いたくなかったら、言わなくていいんだよ」
なら、この家に泊らないでほしかったよ。エロ生徒会長。
「そんなこと言ったって、どうせ後回しにするだけで、いつか聞いてくるんでしょ」
「うっ」
「なら、今のうちに言ったほうがマシですよ。嫌ですけど」
生徒会長は、反論もせず、ただ少しだけ目を伏せた。
この底なしの善人は、きっと私に寄り添ってくれる。たった一か月くらいの関係だけど、そう断言できるほど、彼女から数えきれない優しさを貰って来た。
それらは決して、望んでいるものでは無かったし、どちらかと言うと受け取りたくない物であったが――それでも、今だけは、その優しさがありがたかった。
「じゃあ、夢のこと、教えてくれる?」
「……はい」
カチ、カチ、カチ、カチ……静かな家の中で、時計の針の音だけが規則的に響いていた。
その音が、やけに大きく聞こえる。言葉を探す私の沈黙を、全部拾ってしまうみたいに。
「……夢のこと、ですけど」
声に出した瞬間、胸の奥がひどく重くなった。
でも、もう止まれない。
「小さい頃……車に引かれそうになっていた子を、助けようとしたんです」
生徒会長の表情がわずかに動いた。
けれど、何も言わない。ただ、続きを待っている。
「同い年くらいの女の子でした。道路に飛び出して、車に轢かれそうになっていたんです」
あの光景が、瞼の裏に浮かぶ。
夏の夕方の光。アスファルトの匂い。小さな背中。
「けれど、その時の私は幼かったから、どうすることも出来なくて、逆に私も一緒に轢かれそうなって……」
言葉にすると、胸の奥がじわりと痛む。
一生後悔している私の罪。善意が、最悪の結果を招くこともあると知った日。
「……その時、母が来たんです」
生徒会長の呼吸が、ほんのわずかに止まった気がした。
でも、何も言わない。ただ、私の声だけを聞いている。
「私と、その子を……突き飛ばして……代わりに、母が轢かれました」
部屋の空気が、静かに沈んだ。
カチ、カチ、カチ……時計の音だけが、淡々と時を刻む。
「それで……父に言われたんです」
脳裏に浮かぶのは、あの時のこと。
病院で動かなくなった母を見て、泣きながら父親に縋りついた幼い自分。
泣きじゃくる声が、今でも耳の奥に残っている。
父の服を掴んで、必死に揺さぶった。何が起きたのか理解できなくて、ただ助けを求めるように。
でも――
「……父は、私の手を振り払って言いました」
その瞬間の感触が、今でも指先に残っている。
乱暴でも、怒鳴り声でもなかった。ただ、壊れたみたいに震えていた。
「お前がいらないことをしたから……お母さんは死んだんだぞ。この人殺しって」
言葉にした途端、胸の奥が焼けるように痛んだ。何年経っても、この一言だけは消えない。
どうせ、父はまだわたしを恨んでいるんだろう。満足に生活が出来るほどの金だけを渡すだけで、関わろうとしてこないのだから。
もちろん、私だって、父のことは嫌っている。もし、父親としてやり直してきたならば、こっちから拒否するだろう。
でも、父親に恨まれているという事実が、私の胸を締め付けるんだ。
「そんな、ことが……」
生徒会長は、私と父の間で起きた事を聞いて、言葉を失っていた。
おそらく、生徒会長は両親に愛されながら生きて来たのだろう。だから、父親に恨まれるということが想像できず、何も言うことが出来ない。
(それが普通なんだよね……)
クラスメイト達の両親を見て、羨ましいなと思ったことは何度もある。
でも、それを失った原因は、あの時の私の行動だ。自分を大事にしなかったせいで、お母さんは死んだ。たぶん、お母さんも自分を大事にしなかったんだろう。
善意なんて、結局そんなものだ。
自分の利益を気にしなければ、大事な物を奪い去られてしまう。だから、善意という物は、等価交換でするべきものなのだ。
「夢については、その時のことを思い出すだけです。……ま、私がひねくれた理由は、また別のことですけど」
「えっ?」
生徒会長が顔を上げた。
どうせ、生徒会長はこの幼い時の経験のせいで、私はひねくれたのだと思ったのだろう。
でも、違うんだよ。だって、昔の私は、生徒会長と同類だったんだから。
「昔の私は、罪悪感のせいで、善行ばかり行っていたんです。困っている人がいたら、絶対に助けていましたし、ボランティアのような物にも参加して……けれど、一度も報われなかった」
困っているおばさんを助けたり、ゴミ拾いのようなボランティアに自分から参加したり、今思えば……自分の時間を全て善行に捧げていたと思う。
でも……
「父は、一度も私を見なかった。しかも、父子家庭のせいで、学校ではいじめられて、先生も見て見ぬふりで、ずっと耐えるしかなかったんです」
あの時の私は、茜と似たような物だった。
いじめている人たちにさえ、傷つけようだなんて思えなくて、仕返しとかをしようとしなかった。そのせいで、いじめが終わることは無かったし、面倒事を避けるために、誰も助けてくれなかった。
「中学の時に一度、担任の先生が助けようとしてくれたこともあったんです。あの時の私は、悪い噂を流されて、学校で浮いていたというのに……。けれど、最終的に、あの人は噂の方を信じました」
あの時のことは今でも鮮明に思い出せる。
私にとって、最初で最後の味方だった人。その人が、私の敵になった瞬間。
「いじめっ子たちは、学校の窓ガラスを割って、その音を聞いて駆け付けた私を隠れて写真を撮り、あたかも私が犯人のように見せた写真を学校中にばらまいて、それにあの人は騙されたんです」
言葉にすると、胸の奥がじわりと痛む。あの時の空気が、皮膚の裏側に張り付いて離れない。
割れたガラスの破片が光っていた。私を見た瞬間の、担任の目。寄り添おうとはしていたけど、私のことを信じていなかった。
「ははっ、馬鹿らしいでしょ。どれだけ良いことをしていても、私は報われなくて、期待を裏切られ続けて来た。なら、こっちだってそうしてもいいはずでしょう? 校則を破って、他人に嫌われる言動をする。いじめやすい良い子って評価を裏切ってあげたんです」
こんなの、ただの八つ当たりだ。
私を裏切り続けたのは、生徒会長達ではない。でも、どうせ裏切られるんだから、先に裏切ったっていいはずだ。
「ほら、私はさいてーな人でしょう? 怒りを向ける先は、私を裏切り続けた人であるはずなのに、何の関係のない人たちにまで怒りをぶつけている。だから、私に優しく接しないでください」
どうせ、生徒会長も裏切るんでしょう?
最後まで言わなかった。
けれど、生徒会長は、目を伏せて――ほんの一瞬だけ、痛そうに眉を寄せた。
「そっか、黒瀬ちゃんは悪い子なんだね」
「そうですよ。どうしようもないほど、悪い子なんです」
すると、生徒会長が私の手を優しく握ってきた。
冷たくなった身体に、生徒会長の手の温かさが染み込んできて、思わず息が詰まった。
(……触らないでよ)
そう思ったはずなのに、振り払う力が入らなかった。
生徒会長の手は、強くも弱くもなく、ただ離れないよと伝えるように包み込んでくる。
その温度が、胸の奥のどこかをじわりと溶かしていく。
「じゃあ、悪い子同士、仲良くしようよ」
「……は?」
意味がわからなかった。
怒られると思っていたし、距離を置かれると思っていた。なのに、生徒会長は、まるで当たり前のことを言うみたいに微笑んでいた。
「私は勝手に罪悪感を抱いて、それを解消するために、相手の気持ちを考えずにお節介を焼くんだよ。立派な悪い子でしょ」
「その程度で……」
「ううん。悪い子に上下なんて無いでしょ。ほら、一緒にいよう?」
馬鹿みたい。生徒会長のような立派で優しい人は、私の側なんかじゃなくて、他の生徒会のみんなのような温かくて優しい場所にいるはずなのに、私と同じところまで堕ちてきて……
でも、今まで感じたことが無いほど、胸の奥が温かくて、自分が何を思っているのか、自分でもわからない。
「じゃ、私から離れないでくださいよ」
「うん」
「裏切らないでくださいよ」
「うん」
(何を言ってるんだろ、私)
もう他人に期待しないって決めたはずなのに、その言葉は、まるで勝手に口から滑り落ちたみたいだった。
生徒会長は、私の手を包んだまま、ほんの少しだけ指を絡めてきた。逃げ道を塞ぐような強さじゃない。一緒にいることだけが伝わってくる。
離れたいのに、離れたくない。痛いのに、温かい。拒絶したいのに、拒絶しきれない。逃げたいのに、逃げる足が動かない。
矛盾した心が、螺旋のように絡まっていく。
「離れないよ。裏切らないよ。……黒瀬ちゃんが、どんなに悪い子でも」
(……やめてよ)
そんなふうに言われたら……もう、期待してしまうじゃんか。
喉の奥がきゅっと締まって、声が出なかった。代わりに、握られた手がほんの少しだけ震えた。
「私はずっと、黒瀬ちゃんの味方だから」
まだ、心の底から信用したわけではない。でも、私は生徒会長の手を振り払わなかった。
ずっと、雪乃先輩の手を握っていた。




