29話
そこから数時間は、満足に寝れていたと思う。
ベッドは狭かったものの、柔らかく、黒瀬ちゃんがいるおかげで暖かい。それに加え、精神的な疲れもあったのか、わたしはすぐに眠ることが出来たのだ。
でも、それは長く続かなかった。
ふと、目が覚めた。
理由はわからない。わたしは、夜中に起きることなんてほとんどなく、一度寝たら地震があっても起きないって両親に言われたことさえある。
なのに、今日に限って、夜中に目が覚めたのだ。
(あ、れ……まだ夜?)
室内は暗闇に包まれていて、天井の輪郭すら曖昧だった。カーテンの隙間から漏れる街灯の光が、細い線になって床を照らしている。
頭はまだぼんやりとしていて、思考がはっきりとしない。
(みず、飲も……)
わたしは、一度水を飲んで頭をすっきりさせようと、そっと身体を起こした。
でも、その時――黒瀬ちゃんの手が、わたしの腕を掴んだ。
「いたっ」
しかも、その力は強く、思わず声が漏れた。
寝ているはずの手とは思えないほど、指先に力がこもっている。
(……え?)
振り返る。
黒瀬ちゃんは目を閉じたまま、呼吸だけが浅く速い。苦しそうというより、何かに怯えているような、そんな息。
掴まれた腕がじんと痛む。
でも、それ以上に胸の奥がざわついた。
(夢……? 悪夢、見てるの?)
「ぅう……ぁ……ぅあ…………」
「黒瀬ちゃん、大丈夫!?」
うなされている黒瀬ちゃんを見て、わたしは思わず身を乗り出した。
暗闇の中でもわかるほど、彼女の肩が細かく震えている。
掴まれた腕はまだ痛い。でも、それ以上に胸の奥がざわついた。
(こんな……苦しそうに)
黒瀬ちゃんの指先は、わたしの腕に食い込むように力を込めている。
離してほしいなんて思えなかった。
むしろ――離したら、彼女がどこかに落ちてしまいそうで。
「黒瀬ちゃん、起きて……っ!」
肩を揺らして起こそうとする。でも、彼女はまだ目を開かなくて、よりうなされていった。
呼吸がどんどん浅くなり、冷汗のようなものでパジャマが湿っている。握っている手にも汗がにじんできて、指先がわたしの腕に食い込む感触がさらに強くなった。
まるで、何かから必死に逃れようとしているみたいに。
「黒瀬ちゃん、お願い、起きて……!」
わたしはもう一度、肩を揺らした。
でも、黒瀬ちゃんは目を開けない。むしろ、うなされ方がひどくなっていく。
「ご……ごめん、なさい」
「え……」
黒瀬ちゃんの喉から絞り出されるように漏れた声は、震えていて、痛いほど弱かった。
これが寝言だってことはわかってる。けれど、ごめんなさいは、誰に向けたものなのか――考えたくないほど、切実だった。
「ごめん……ごめん、なさい……っ」
黒瀬ちゃんの目から涙が流れ、枕を濡らしていく。
わたしは、その夢から覚ましてあげようとして、何度も肩を揺らしているのに一向に起きてくれない。
(もしかして……)
黒瀬ちゃんは、授業中に寝たり、休み時間に寝ていたりしている。
もし、その理由が毎日、夜にうなされていて、碌な睡眠がとれていないからだとしたら……
胸の奥が、じわりと冷たくなる。
黒瀬ちゃんの呼吸はさらに浅くなり、喉がひくひくと震えていた。涙は止まらず、枕に小さな染みを広げていく。
「ごめんなさい……ごめんなさいっ……お父さん……」
その言葉が途切れた瞬間だった。
黒瀬ちゃんの身体がびくんと大きく震え、掴んでいたわたしの腕をさらに強く握りしめた。
「黒瀬ちゃん、起きて……っ!」
わたしは思わず、彼女の肩を抱き寄せるように揺らした。
次の瞬間――
「っ……は……っ!」
黒瀬ちゃんが、息を呑むように目を見開いた。
暗闇の中で、その瞳だけがはっきりと光を反射している。呼吸は荒く、胸が大きく上下していた。
「はっ……はぁ……っ……」
夢と現実の境目がまだ曖昧なのか、焦点が合っていない。
わたしの腕を掴んだまま、しばらく震えていた。
「黒瀬ちゃん……起きた……?」
声をかけると、黒瀬ちゃんの肩がびくりと揺れた。
ゆっくりと、わたしの方へ視線が向く。
涙の跡が頬に残っていた。
その表情は、いつもの不機嫌そうな顔とはまるで違っていて――弱くて、苦しくて、どこにも逃げ場がないみたいだった。
「……っ……は……」
声にならない息だけが漏れる。まだ夢の続きを引きずっているのがわかった。
わたしは、掴まれた腕をそっと握り返した。
「大丈夫……ここ、だよ」
その言葉に、黒瀬ちゃんの指先がかすかに震えた。
そして――掴んでいた手が、ゆっくりと、でも確かにわたしの腕にしがみつくように変わった。
「だから……いやだったのに……」
黒瀬ちゃんは、口では嫌がりながらも、わたしの手を離さなかった。
それほどまでに、あの悪夢は彼女にとって苦しい物で、何よりも隠したかったものなのだろう。
「黒瀬ちゃん……」
「わかってます……ちゃんと話しますよ。全部」
わたしがここに泊ることに、彼女があれほど嫌がった理由が納得できた。
この悪夢の存在は、弱さの象徴そのもので、優しさに付け込まれてしまう隙になってしまうのだろう。
他人に優しくされられることを嫌う黒瀬ちゃんにとって、この悪夢は――きっと、いちばん見られたくない弱さなんだ。
「水、取って来るね」
「……ありがとうございます」
水を取りに行くために、わたしはベッドから離れた。
黒瀬ちゃんが言いたくないのなら、無理に聞くつもりは無い。けれど、先ほどの黒瀬ちゃんの目には、冷めた諦めと救いを求めるような影が同時に浮かんでいた。
(……放っておけるわけ、ないよ)
わたしは立ち上がり、部屋のドアに手をかけた。
その瞬間――背中に、かすかな視線を感じた。
振り返ると、黒瀬ちゃんは布団の中で小さく丸まっていた。
涙の跡が頬に残ったまま、わたしを見ないようにしている。けれど、わたしが離れた途端、掴んでいた手の名残を探すように、指先が布団をぎゅっと握りしめた。
「すぐ戻るからね」
そう声をかけると、黒瀬ちゃんの肩がわずかに揺れた。
返事はない。
でも、その沈黙は拒絶ではなく、言葉にできない不安の形だった。
廊下に出ると、部屋の中の空気がまだ腕にまとわりついている気がした。
冷たい床の感触が、さっきまでの温度差を際立たせる。
(あんなに……震えるなんて)
キッチンでコップに水を注ぎながら、胸の奥がじんと痛む。
さっきの「お父さん」という声が、耳の奥に残って離れない。
(全部話すって……本当に、言うつもりなのかな)
黒瀬ちゃんの話しますと言う言葉は、覚悟というより、諦めに近かった。
でも、その奥には――ほんの少しだけ、誰かに触れてほしい気持ちが滲んでいたはずだ。
わたしは水の入ったコップを持ち、深呼吸をひとつして部屋に戻った。
ドアを開けると、黒瀬ちゃんは同じ姿勢のまま、わたしの方を見ないようにしていた。
けれど、布団の端を握る指先だけが、わずかに震えている。
「黒瀬ちゃん、水……持ってきたよ」




