28話
雪乃side
「何を、言っているんですか?」
黒瀬ちゃんは、眉間に皺を寄せながら、わたしを睨みつける。
その気持ちは理解出来る。嫌いな人が急に家に泊ると言い出して、快くそれを受け入れる人なんていないだろう。
でも、こうしてわたしが黒瀬ちゃんに頼んだのは、理由があるんだ。
(やっぱり、隠してるよね……)
わたしの質問に対して、黒瀬ちゃんはうまく誤魔化している。
もちろん、嘘を吐いているわけではない。けれど、一部だけを伝えることで、本当に隠したいものを上手く隠している。
ただ、それを暴いたところで、それが黒瀬ちゃんの救いとなる保証は無い。むしろ、隠しているということは、知られたくないということであり、それを無理やり暴いてしまったら、大きな傷になってしまうだろう。
なのに、それをわかっていてなお、わたしはこの選択をした。
(だって、このままだと、黒瀬ちゃんは一生苦しみ続ける)
さっきからずっと、黒瀬ちゃんは平気だと言いながら、心の傷を隠しきれていなかった。
目が痛々し気に揺れていて、笑っているはずなのに、どこか遠くを見ているようで、見ているだけで胸が締めつけられた。
必要以上に触れてしまうと、さらに傷つけてしまう。でも、いつかは触れないと、一生苦しみ続ける羽目になってしまう。
その表情を見た時、わたしはそう思ったんだ。
「泊まらせてって言ったの。あ、でも、下着は貸してほしいかな。もちろん、洗って帰すから」
「そんなことはどうでもいいんですよ! なんで、ここに泊るのかって聞いているんです!」
黒瀬ちゃんは、机に乗り出して、大声で追及してきた。
黒瀬ちゃんの腕が、机の上に置いてあったコップにぶつかって、カタンと小さな音を立てて揺れた。お茶が少しだけ縁からこぼれて、机の上に丸い染みを作る。
でも、わたしも、黒瀬ちゃんも、それには目を向けなかった。
「黒瀬ちゃんのことをもっと知りたいから」
「全部言ったはずですけど!」
「もちろん、話してくれたことには感謝しているよ。でも、まだ隠している事があるでしょ。わたしは、それを知りたいの」
黒瀬ちゃんの目が揺れる。逃げ道を探すように、弱く。
けれど、彼女はそれを、威勢の良さで誤魔化した。
「そうですよ、隠してますよ! でも、生徒会長には関係ないでしょ! だから、私のことなんて無視してください!」
「出来ないの。わたしは、手が届く範囲の人を助けたい。そのために生きてるんだから、黒瀬ちゃんのことを見捨てれないんだよ」
「そんなの、幻想ですよ! すべての人を救える人なんていないし、何より――――」
黒瀬ちゃんは口を開きかけて、そこで止まった。
視線が揺れて、息が浅くなる。指先が机の端をぎゅっと掴んで、震えが伝わってくる。
ほんの数秒なのに、永遠みたいに長い沈黙が落ちた。
黒瀬ちゃんは小さく息を吸った。覚悟を決める前の、最後の呼吸だった。
「そんなことを言う人は……自分を救う対象に入れてないんですよ」
その言葉は、黒瀬ちゃんが言ったとは信じ切れないほど、弱々しく、最後の方なんて聞き取ることすら出来なかった。
わたしは思わず息を呑んだ。
黒瀬ちゃんは、言ってしまった自分の言葉に自分で驚いたみたいに、目を大きく見開いて、それからゆっくりと伏せた。肩が小さく震えていて、机の端を掴む指先から力が抜けていくのが分かった。
その姿は、強がりも反抗も全部剥がれ落ちて、ただの傷ついた子に戻ってしまったみたいだった。
「……黒瀬ちゃん」
呼びかけると、黒瀬ちゃんはびくっと肩を揺らした。
でも顔は上げない。上げられないんだと思った。
何を言うべきかは、理屈よりも本能で理解していた。
幼少期に事故から助けられ、助けた人が目の前で死んでしまったわたしには、黒瀬ちゃんの気持ちが痛いほどわかってしまったからだ。
「わたしはいなくならないよ。だから、優しさを受け入れて」
黒瀬ちゃんの身体から、力が抜けていく。
コップからこぼれたお茶の横に、小さな水滴がぽたぽたと落ちていた。
「……後悔しても、知りませんから」
黒瀬ちゃんは、わたしを見なかった。でも、それだけでよかった。
拒絶の言葉じゃない。追い払う強さもない。ただ、もう抵抗する気力が残っていないだけかもしれないけれど、それでも受け入れたという事実は確かにそこにあった。
「じゃ、もうそろそろ寝よっか」
あの後、わたしはお母さんに連絡を入れて、黒瀬ちゃんの家に泊る許可を貰った。
ただ、黒瀬ちゃんは諦めただけであり、わたしに対して滅多に話しかけることはなく、無言の時間が積み重なっていた。
黒瀬ちゃんはタオルを畳むふりをしながら、何度も同じ場所を触っていた。落ち着かないというより、手を動かしていないと心が揺れそうで怖い、そんな仕草だった。
わたしは邪魔をしないように、でも離れすぎないように、少し距離を置いて座った。
「下着……」
「え?」
「サイズ、大丈夫ですか……?」
すると、珍しく黒瀬ちゃんが話しかけてくれた。
黒瀬ちゃんが話しかけてくれたのは、わたしがキッチンを借りて夕食を作った時と、風呂の順番を決めた時だけ。だから、驚いてしまったのは許してほしい。
「ちょっと胸がきついけど、それ以外は大丈夫だよ。胸の方も、気になる程度だし」
「ちっ」
舌打ちが返って来たけれど、本当に嫌がっている気配は無い。
むしろ、わたしの胸の話題に触れたことで、黒瀬ちゃんの中の何かが静かに爆発したらしく、タオルを握る手にだけ妙な力が入っていた。
「それで、わたしは床で寝るから、気にしないでね」
わたしは黒瀬ちゃんの家に押し掛けた身だ。ベッドを使うつもりなんて、最初からなかった。
それに加え、黒瀬ちゃんは日頃から寝不足だと思わせる発言を何度もしている。だから、睡眠を妨げることは、絶対にしたくなかった。わたしが床で寝ると言ったのは、そのためでもあった。
「……は?」
黒瀬ちゃんの手が止まった。
タオルを半分畳んだまま、固まっている。
「床で寝るって……なんでですか」
「だって、黒瀬ちゃんのベッドだし。わたしが使うのは悪いよ」
「そんなこと気にする必要ないんで、ベッドで寝てください。もちろん、私は床で寝るのが嫌なので、一緒に使うことになりますけど」
黒瀬ちゃんは即答した。
わたしのことを嫌っているはずなのに、わたしと一緒の布団で寝ようとしている。そのことに驚愕して、、思わず黒瀬ちゃんの顔を見つめてしまった。
「えっ……い、一緒に……?」
「なんですか、文句あるんですか」
「い、嫌そんなわけじゃないんだけど、てっきりわたしのことを嫌ってるんじゃないかなって」
問いかけると、黒瀬ちゃんはタオルの方に視線を向けた。
けれど、それは照れているわけではない。表情に笑みは無く、むしろ何かを押し殺すように、口元がきゅっと固く結ばれていた。タオルの端を指先でつまんだまま、黒瀬ちゃんはほんの少しだけ肩をすくめた。
「……嫌ってますよ。今も」
淡々とした声だった。
怒りも、苛立ちも、照れも混ざっていない。ただ事実だけを述べるような、乾いた響き。
「ただ、寝れる時は寝るべきなんですよ。どうせ、後悔するんでしょうし」
それは、どういう意味なんだろうか。
黒瀬ちゃんが言おうとしていることを、私はまだ察することが出来ていない。
寝ると言う言葉と、後悔と言う言葉が頭の中で結びつかず、わたしは思わず黒瀬ちゃんの横顔を見つめてしまった。
でも、彼女は何も答えない。
わたしに何か気遣った結果だとはわかるけど、何でそんなことをしたのか予想することすら出来ない。
「何してるんですか? さっさと寝ますよ」
「う、うん」
黒瀬ちゃんに促されて、わたしは一緒に布団の中に入った。
高校生二人で寝るには、ベットが狭く落ちそうになってしまう。だから、わたしたちは背中がぶつかるほど身体を近くに寄せて、布団の中に横になった。
狭いベッドの上で、少しでも動けば相手に触れてしまう距離だ。黒瀬ちゃんはわたしに背を向けたまま、布団の端をぎゅっと握っている。眠る気配はないのに、こちらを向く気配もなかった。
部屋の明かりを落とすと、静けさが一気に濃くなる。
暗闇の中で、黒瀬ちゃんの呼吸だけがかすかに聞こえた。規則正しいようで、どこか落ち着かない呼吸。
わたしは目を閉じたまま、背中越しに伝わる体温を感じていた。
触れてはいないのに、触れているような近さだった。
「おやすみ、黒瀬ちゃん」
返事は無かった。
触れることが出来るほど近くにいるのに、決して交わることの無い距離。
それが、わたしたちの関係だった。




