25話
澪side
(なにあれ、意味がわかんない)
今日は最悪な日だ。茜だけじゃなくて、生徒会長までもがゴミみたいなことを言ってくる。
馬鹿じゃないの。私のどこが良い子なんだ。私は悪い子で、皆に嫌われていて、いない方がいいと評価されるべき人間なのに。
(みんな見る目が腐ってる。どうしてあんなことを言えるの?)
歩きながら、指先がじんじんしていた。鞄の持ち手を握る手に力が入りすぎて、爪が皮膚に食い込み、血が出てしまっていた。
けれど、私は力を緩めなかった。
(良い子? ふざけないでよ。そんなわけないでしょ)
胸の奥がざわざわして、呼吸が浅くなる。怒鳴りたいわけじゃないのに、喉の奥が熱い。
いつの間にか学校から出ており、靴底がアスファルトを踏む音だけが耳に残っていた。
でも、もう引き返すことは出来ない。
今の状態で、あの生徒会長とは会いたくないし、会ってしまったら自分でも何をしてしまうのかわからない。
(家に帰ろう。で、生徒会もやめちゃえばいい)
生徒会長は本当に腐ってる。だから、もう関わりたくない。
嫌がらせをしようとしていた私が悪かったことはわかってるけど、あんなことをされてしまうくらいなら、生徒会をやめた方がマシだ。
それに、他の生徒もそっちの方を望んでいるんだから、そうしたほうが良いだろう。
それなら誰も損しないし、私も、生徒会も、他の生徒までもが得をする。WinWinってやつだ。そうしてしまえばいい。
(くそ、なんか落ち着かない)
なのに、胸の奥がずっとざわついている。息を吸っても、肺の奥まで空気が入ってこない。
嫌なことから逃げるだけでしょ。たったそれだけのことで、なんで心がざわつくんだよ。私らしくない。
「これも、あの生徒会長のせいだ」
声に出した瞬間、胸の奥がさらにざわついた。
歩く速度が上がる。帰り道の景色なんて、目に入ってこない。
信号が赤か青かもよく見ていなかった。
ただ、足が勝手に前へ進む。
(帰る。もう帰る。何も考えたくない)
住宅街に入ると、夕方の空気が少し冷たかった。その冷たさが頬に触れるたび、胸の奥がきゅっと縮む。
家の前に着いたとき、ようやく足が止まった。鍵を取り出す手が震えて、うまく差し込めない。
(……最悪)
ようやく鍵が回り、ドアが開く。靴を脱ぐ音がやけに大きく響いた。
鞄を床に落とす。
そのまま、玄関にしゃがみ込んだ。
息がうまく吸えない。
胸の奥がずっとざわざわして、落ち着く気配がなかった。
(なんで……あんなこと言うの)
その一言だけが、頭の中で何度も何度も反響していた。
――――――――――――――――――――――――――――
雪乃side
「黒瀬ちゃん、帰って来ないね」
「ほっといたらいいんじゃない? 雪乃が気にする必要はないでしょ」
わたしの呟きに、美紀ちゃんがそう返してくる。
確かに、そうなのかもしれない。黒瀬ちゃんは生徒会から一方的に去ったけれど、永遠の別れというわけでもなく、明日になったらまた会えるはずだ。
けれど、胸の奥がざわついて落ち着かない。
「なんで、帰っちゃったんだろう……」
きっと、それはわたしのせいなんだ。何が悪かったのかわからないけど、わたしは黒瀬ちゃんの地雷を踏んでしまった。
そのせいで、彼女は傷ついてここから逃げてしまったんだ。
胸の奥がきゅっと縮む。
資料を持つ手が止まり、ページをめくる気にもなれない。
「……わたし、なにか変なこと言ったかな」
誰に向けたわけでもない、小さな声だった。
美紀ちゃんは聞こえていないふりをしている。桃井ちゃんも大江ちゃんも、視線を合わせようとしない。
生徒会室の空気が、さっきより重く感じた。
(あの顔……すごく、苦しそうだった)
思い出すだけで、胸の奥がざわつく。あのまま帰してよかったのか、何度考えても答えは出ない。
時計の秒針だけが、淡々と音を刻んでいく。
その時だった。
「雪乃、帰っていいよ」
絵理ちゃんがそんなことを言ってきた。
「え?」
「帰っていいよって言っただけ。雪乃の仕事は、私がしておくから」
絵理ちゃんが、手元の資料を軽く叩きながら言った。その口調は、絵理ちゃんにしては優しく、少しだけ違和感を覚えてしまう。
もちろん、絵理ちゃんは優しさを持ち合わせている人なんだけど、自他ともに厳しい人であるから、こんなことをしてくれるのは珍しい。
「絵理、どうしたのー? 変な物でも食べた?」
「美紀、うるさい。なんでもいいでしょ」
「またまたー。絵理が優しさを見せるなんて、一か月に一度あるかどうか……って、痛いから叩かないで」
美紀ちゃんもわたしと同じ感想を抱いたようであり、絵理ちゃんをいじっていた。
そのせいで、絵理ちゃんは顔を少しだけ赤くして、美紀ちゃんを叩いていた。とはいえ、あまり暴力に慣れていないのか、擬音で表すとぺちって音がしそうな、力の抜けた叩き方だった。
美紀ちゃんも、痛いとは思っておらず、叩くのを止めるために言っているのだろう。
でも、今はそれどころじゃない。何でそう言ってきたのか聞かないと。
「絵理ちゃん、いいの?」
「……いいよ。ああなったのは、私のせいでもあるんだし」
絵理ちゃんは資料を揃えながら、小さく息を吐いた。
その横顔はいつも通り冷静なのに、どこか申し訳なさそうにも見える。
「そっか。なら、後はわたしに任せて」
そう言うと、絵理ちゃんはほんの一瞬だけ目を伏せた。
その仕草は、わたしの言葉を肯定してくれているようで、胸の奥が少しだけ軽くなる。
「……行ってきなよ。雪乃がここにいても、集中できないでしょ」
そっけない言い方なのに、その言葉に込められた、背中を押す力だけは強かった。
わたしは立ち上がった。椅子が小さく軋む音が、生徒会室に響く。
(黒瀬ちゃん……)
胸の奥のざわつきが、ようやく動く理由に変わっていく。わたしは鞄を手に取り、生徒会室のドアへ向かう。
「ごめんね。あとは任せるよ。桃井ちゃんも大江ちゃんも、迷惑かけてごめんね」
そう言うと、二人は同時に顔を上げた。
桃井ちゃんは一瞬だけ驚いたように目を丸くし、大江ちゃんは小さく首を振った。
「……大丈夫ですよ、生徒会長。気にしないでください」
「うん。任せて。雪乃先輩は行ってあげてください」
二人とも、余計なことは言わなかった。その静かな言葉が、かえって胸に沁みる。
(本当に、周りに恵まれているな)
わたしの周りは良い人ばっかりだ。みんな、他人のことを思っていて、わたしなんかを優しく助けてくれる。だから、わたしも周りのために何かをするべきだ。
一人はみんなのために みんなは一人のために。その思いを胸に、わたしは黒瀬ちゃんの家に向かって駆け出した。
たとえ何もできなくても、傷つけてしまうとしても、立ち止まることだけはしたくなかった。
(待っててね、黒瀬ちゃん)
校舎を出た瞬間、夕方の風が頬をかすめた。胸のざわつきは消えないまま、足だけが前へ進んでいく。
家々の影が伸びていく道を、わたしはただ走った。黒瀬ちゃんの家に向かって。




