24話
「あぁくそ、気持ち悪い!」
あの後、私は授業に一度も出なかった。
休み時間に自分の鞄だけを回収して、生徒会が始まる時間まで、ずっと校舎裏で時間を潰していた。
ベンチに座っても、立っても、歩いても、胸の奥のざわつきはまったく消えなかった。
(なんで……あんな顔、見せるの)
茜の涙が、頭の中で何度も揺れる。振り払おうとしても、指先にこびりついたみたいに離れない。
風が吹くたびに、校舎裏の木々がざわざわと揺れた。その音が、胸のざわつきと重なって、さらに気分を悪くする。
「……はぁ」
ため息をついても、何も軽くならなかった。
むしろ、吐き出した空気の分だけ、胸の奥の熱が濃くなる。
時間だけが、やけにゆっくりと進んでいく。
生徒会の開始時刻まで、まだまだある。
(……ほんと、最悪)
空を見上げても、青空が腹立たしいほど澄んでいた。
――――――――――――――――――――――
雪乃side
「雪乃、これに関してはどうしようもできないって」
放課後の生徒会室で、絵理ちゃんがわたしにそんなことを言ってきた。
「これに関してってどういうこと?」
「ふざけないで。黒瀬に関することに決まってるでしょ」
「……わかってるよ」
そうだ。今日の朝から急に、黒瀬ちゃんに関する悪い噂が学校中に広がった。
誰が言い出したのかもわからない、根拠のない話ばかり。でも、そういう噂ほど、どうしてか人は嬉しそうに話す。
わたしは机の上のペンを指で転がしながら、深く息を吐いた。
「桃井ちゃんや大江ちゃんは、あの噂について何か知ってる?」
わたしは、黒瀬ちゃんと同じ一年生の二人に尋ねた。
すると、一年生の二人は顔を見合わせ、同時に小さく首を振った。
「わたしたちも……朝、聞いてびっくりしただけで」
「誰が言い出したのかも全然。気づいたら、もう広まってました」
「そっか、ありがとね」
いい情報は手に入れることが出来なかったけど、噂とは所詮そういうモノだ。出所がわかることなんて滅多にないし、わかったとしてもどうすることも出来ないことが多々ある。
今できることは、この噂の拡大を止めることと、黒瀬ちゃんに寄り添うことだけ。
けれど、肝心の黒瀬ちゃんがまだ生徒会に来ていなくて、何もすることが出来ないし、何よりどんな状態なのかもわからない。
出来れば昼休みに校舎裏に行きたかったんだけど、先生からの頼まれごとをしていたせいで、そうすることが出来なかった。先生を恨んで言うわけではないけれど、本当に運が悪い。
「雪乃、今からでも黒瀬をやめさせるべきだよ」
すると、絵理ちゃんがそんなこと言ってきた。
「やめさせるって、なんで……」
「噂のこともあるけれど、それだけじゃない。校則違反に遅刻の常習犯。庇う理由が見当たらない」
絵理ちゃんは淡々とした声で言った。責めるというより、事実を並べているだけのような口調。
けれど、その正しさが、胸の奥に小さな棘みたいに刺さる。
わたしはペンを転がす手を止めた。
「……庇ってるわけじゃないよ」
「じゃあ何? 雪乃がそこまで黒瀬にこだわる理由、私にはわからない」
絵理は腕を組み、わたしの顔をじっと見つめる。その視線は鋭いけれど、心配の色も混じっていた。
わたしは少しだけ目を伏せる。
「黒瀬ちゃんは……放っておいたら、誰も助けないから」
「助けなくていいじゃん。本人が望んでないんだから」
「望んでなくても、必要なときはあるよ」
黒瀬ちゃんを見ていると、心が痛くなってくる。あの子はきっと、数えきれないほど傷ついてきた。
なのに、それを表に出さず、癒そうともしない。むしろ、その傷をさらに悪化させようとしていて、見ている方が苦しくなってしまうほどだ。
だからこそ、放置することは出来なかった。もしわたしが、あの子とのことを見なかったら、もう二度と彼女が癒されることは無いのかもしれない。
もちろん、わたしなら黒瀬ちゃんを救えると思いあがる気はないけれど、それでも――あの子がひとりで沈んでいくのを、ただ見ているなんて出来なかった。
「それに、遅刻はしているけど、仕事はちゃんとこなしているんだよ」
「それが何? いくら仕事を完璧にこなしていたとしても、遅刻しているんだから信用できないよ。社会でもそうでしょ」
「それは、そうだけど……」
客観的に見れば絵理ちゃんが正しい。というか、黒瀬ちゃんは基本的に正しくない行動ばかりしているから、それをフォローするには無理がある。
でも、わたしは、どうしても首を縦に振れなかった。そうしてしまったら、今までのわたしに嘘を吐いてしまうような気がしたから・
その時、生徒会室の扉が静かに開いた。
「あ、おはようございまーす」
黒瀬ちゃんがもう午後の四時を過ぎているというのに、黒瀬ちゃんが軽い雰囲気で入ってきた。
制服は少し乱れていて、髪も風に吹かれたまま。表情はいつも通り無愛想で、遅刻したことを気にしている様子はまったくない。
絵理ちゃんが呆れたように眉を上げる。
「……黒瀬、今何時だと思ってるの?」
「あー、ニ十分くらい遅れてました? でも、いつも通りでしょ」
黒瀬ちゃんは当然のように言い、鞄を机の上に置いた。その様子は普段とまるで変わらず、噂のことを少しも気にしていないようだった。
それなら、わたしも安心できる。
――そう思ったのに。
「じゃあ、黒瀬。あの噂について説明して」
絵理ちゃんがそんなことを言ってきた。
「絵理ちゃん!」
「雪乃は黙ってて。もし、あの噂が本当なら、今すぐに生徒会をやめてもらうから。前もって言っとくけど、黒瀬のことを私は全く信用していない。分かるでしょ、それくらい」
「こわいなー。ま、当然だとは思うよ」
黒瀬ちゃんは、肩をすくめて笑った。
その笑いは軽いのに、どこか乾いていた。
「でも、茂木先輩も酷くないですか? たかが噂の一つでここまで問い詰めてくるなんて」
「私は黒瀬のことを信用できないからね。これは当然のこと」
「はいはい、信用信用……どれだけ信用って言葉が好きなんだか」
黒瀬ちゃんは、生徒会室の中にある回転するタイプの椅子に座り、体重を背もたれに預けた。頭の後ろで手を組み、つま先で床を軽く押して、椅子をゆっくりと回す。
その動きはいつも通りの無気力さに見えるのに、どこか落ち着きがなかった。
「あの噂はあれですよ、中学の時に流された噂そのもの。どうせ同じ中学だった奴が流しているんだと思いますよ」
「つまり、黒瀬はあれをデマだと言いたいわけ」
「ま、そういう事になりますね。ただ、もしやっていたとしても、今の私と同じことを言うと思いますけど」
黒瀬ちゃんは相変わらず軽い調子でそんなことを言ってきた。
そのせいで、絵理ちゃんは……いや、桃井ちゃんや大江ちゃん、それに美紀ちゃんまでもが黒瀬ちゃんに白い目を向けた。
ちょっとでも真剣に言っていれば……いや、それでも、きっと同じだった。
黒瀬ちゃんとしっかり関わっていればいいところも見えてくるが、はたから見るだけだと、口と性格が悪く、生意気な新一年生にしか見えないのだから。
「え、なに? 照れるんですけど」
「ふざけないで。自分でも分かってるでしょ」
絵理ちゃんの声が、いつもより低かった。
その一言で、生徒会室の空気がぴんと張りつめる。
「はいはい、わかりましたよ。信用できないのなら仕方がないしね。ま、伝えることは伝えたんで、私はここで帰ります。後は、先輩たちで話し合って、処分を決めてくださいよ」
背もたれから体を起こし、鞄の持ち手を掴む。
立ち上がる気配だけが、生徒会室の空気をざわつかせた。
「待って!」
わたしは、無意識のうちに口を開いていた。
「なんですか、せいとかいちょー。言うべきことは言ったつもりなんですけど」
「わたしは、黒瀬ちゃんのことを信用してるから、もう少し残ってくれない?」
「信用? よくそんなことが出来ますね。私のどこに信用できる要素があるんですか?」
黒瀬ちゃんは、顔をしかめながらこちらを振り返った。
その表情はいつもの無愛想なのに、どこか“痛みを押し殺している”ように見えた。
鞄の持ち手を握る指先に、わずかに力が入る。
その小さな変化だけで、胸がざわつく。
「遅刻ばっかりで、口も悪くて、噂まで流されて。そんな私を信用? ……冗談でしょ」
「でも、黒瀬ちゃんは良い子だから」
それは、わたしの本心だった。
口は悪いし、褒められないことをしてばかりだけど、茜ちゃんをいじめから救ったり、誰も見ていないところでちゃんと仕事をこなしたり――。
わたしには、黒瀬ちゃんの良さが見えていた。
けれど。
「は?」
それは、言葉では言い表せないものだった。
声は低く、乾いていて、全身に力が入る。
表情こそ変わっていなかったが、その目は大きく見開かれて、瞳孔がわずかに揺れていた。
「黒瀬ちゃん……?」
「……んて、……そんな、わけで……」
黒瀬ちゃんは目を伏せ、喉の奥で押しつぶしたような声を漏らした。言葉にならない音が混じり、息が震えている。
なにが黒瀬ちゃんをこうしたのかわからない。
でも、わたしの発言が引き金になったことだけは、痛いほど理解できた。
「ごめん、わたしの――」
「……帰ります。さよなら」
その言葉は、かすれているのに、どこか決定的だった。
黒瀬ちゃんは鞄を掴むと、肩にかける動作さえ乱れていた。足元がわずかにふらつき、机の角に手をついて体勢を立て直す。
誰も声をかけられない。
誰も動けない。
黒瀬ちゃんは顔を伏せたまま、逃げるように生徒会室のドアへ向かった。
ドアは乱暴に開けられ、黒瀬ちゃんは、生徒会室から出て行った。閉まるドアの音が、やけに重く響いた。
閉まったドアの余韻だけが、生徒会室に残った。
誰も動かず、誰も口を開かない。わたしは伸ばしかけた手を、ただ宙に置き去りにしたまま立ち尽くしていた。




