13話
別に、場所がわかっていたというわけではない。
彼女と私が関わったのは、あの日だけ。お互いが理解し合える関係を作っているわけでもないし、秘密の暗号があるわけでもない。
けれど、自然と足が動いていた。
良くも悪くも、彼女は私と似ている。だからこそ、どこにいるのか、ある程度察することが出来たのだ。
――まぁ、それは、昔の私なんだけどね。
「そんなところにいると、汚れちゃうよ」
校舎裏のベンチの上……ではなく、腰くらいの高さがある低木の影に、茜はいた。
ここは良い場所だ。人目につかないし、なにより誰も探しに来ない。
低木の影にしゃがみ込んだ茜ちゃんは、制服の袖をぎゅっと握りしめていた。風が吹くたび、枝が揺れて、光が細かく途切れる。
声をかけた瞬間、茜ちゃんの肩がびくりと跳ねた。
「く、黒瀬さん……?」
「そうだよ。ちゃんと名前を憶えているなんて、茜ちゃんは凄いね」
そう言うと、茜は少しだけ目を逸らした。
その動きは、照れているわけでも、嬉しいわけでもない。ただ、視線の置き場を探しているうちに、たまたま地面の方へ落ちてしまったような、そんな感じだった。
低木の影が揺れて、茜の表情を細かく隠したり、浮かび上がらせたりする。
それでも、握りしめた袖の皺が、指の形のまま深く残っていた。
「横に座っていい」
「……よ、汚れますよ」
「別にいいよ。これぐらいがちょうどいいし」
私は、茜の横に座り、同じ景色を見た。
茜は、わたしの方をちらりと見たあと、すぐに視線を戻した。何かを言いたそうで、でも言葉にならないまま、握った袖の皺だけがゆっくり深くなっていく。
誰もいない校舎裏、風の音と、低木が擦れる小さな音だけが続き、葉の隙間からこぼれた太陽の光が、私たちの制服に眩しい斑点を作り出す。
「茜ちゃんは、この景色が好き?」
「……黒瀬さんは、どうなんですか?」
「嫌いだよ、退屈でつまらないから。私はもっと、人間の悪性が出てる景色の方が好きだね。でも、茜ちゃんはこういう景色の方が好きなんじゃない。誰もいなくて、自分の存在が肯定されているような気になるだろうから」
「……はい」
どこかの誰かさんと話した時と同じ場所で、同じような話をする。
茜は、私の言葉を否定しなかった。
ただ、膝の上で握った袖を、そっと緩めた。その指先が、光の斑点の中でかすかに震えている。
「いじめはどう?」
まるで、昨日の晩御飯を尋ねるかのように、軽く言った。
茜の指先が、ぴたりと止まった。握っていた袖が、ほんのわずかに皺を深くする。
「……され、てます」
たどたどしく、茜の口から落ちた言葉は、風に紛れそうなほど小さかった。
でも、しっかりと私の耳に届く。
「クラスでは、まだ隠れていますけど……靴箱や机の中にゴミを入れられたり……わたしの物が、盗まれたり、してます」
「そっか、次は写真とかを取られるのかな。この学校は、スマホの持ち込みを許可されているし」
「……っ」
茜の肩が、わずかに震えた。
息を吸う音が、ほんの一瞬だけ乱れる。
「それ、は……」
「そうすると思うよ。写真って永遠に残るから、いじめている側から見れば、より楽しめるものだからね」
例えば、冤罪を生むのにも使えるし、裸の写真でも撮って脅してもいいから、写真がいじめに使われることは非常に多い。
それに、いじめている様子を写真や動画で保存するのは、心の底から悦に浸れるほど、楽しい行為だからね。
「それで、茜ちゃんはどうしたいの? ――あのアンケート、しっかり見たからね」
茜は、息を呑んだ。
膝の上で握っていた袖が、また深く皺を刻む。
「あれ、は……」
声が震えて、言葉の形にならない。
喉の奥でつかえたまま、落ちてこない。
低木の影が揺れ、光の斑点が茜の頬を細かく照らしたり、隠したりした。
その光の揺れに合わせて、茜のまつげがかすかに震える。
「怒ってもいいですかって書いてあったよね」
わたしは、茜の方を見ないまま言った。
ただ、同じ景色を見たまま、淡々と。
「あれは……その……」
「怒っていいですかじゃなくて、代わりに怒ってほしい、じゃないかな? 茜ちゃんが、言いたいのは」
「……っ」
茜の喉が、小さく鳴った。
目は大きく見開かれ、呼吸が大きくなる。冷汗のような物が首筋に垂れてきている。
「ち、が……」
「茜ちゃんは酷い子だね。だって、茜ちゃんが怒らないのは、仕返しが怖いからでしょ」
「――」
もう、声すら出てこない。
茜の隠したい醜い本心を暴くたびに、彼女は喉の奥で何かが詰まったように、呼吸だけが荒くなる。
「怒ってもいいですかと言えば、一緒に怒ってもらえるって思ったの? 確かに、それはいい方法だ。一緒に怒ると見せかけて、自分だけ手を引けば、相手の標的は私だけになる。うん、本当にいい方法だね」
「そ、そんなつもりじゃ――」
「なら、無意識のうちにってこと? それは凄い! 茜ちゃんには、悪人の素質があるよ!」
茜の喉が、ひきつるように震えた。声にならない息だけが漏れ、胸のあたりが小刻みに上下する。
もしかしたら、今ので茜のことを追いこんでいるのかもしれない。でも、良いでしょ。楽しいし、埋め合わせをするつもりだし。
「ねぇ、茜ちゃん」
私は、ようやく茜の方へ視線を向けた。
その瞬間、茜の肩がびくりと跳ねた。
「そんなに震えるくらいなら、最初から怒ればよかったのに」
「……っ……や、だ……」
茜は首を横に振ろうとしたが、その動きは弱々しくて、途中で止まってしまった。
握りしめた袖が、指の形のまま深く歪んでいく。
「怒れないのは、優しいからじゃないよ。ただ、怖いだけ。自分が傷つくのも、誰かに嫌われるのも、全部」
「ちが……います……」
(そんなに震えているんだから、説得力なんてどこにもないのに)
そんなことを思いながら、私は茜の正面に回って、その両手を持ち、恋人のように指を絡める。
「……っ……や……」
茜の指先が、触れた瞬間にびくりと跳ねた。
逃げようとしたのかもしれない。でも、力は弱くて、すぐに指が沈黙した。
「私は君を助けないよ、メリット無いし。でもね、他人任せじゃなくて、君自身がいじめに抗おうとするのなら、私は君のことを手伝ってあげる? どうする? これが最後だよ?」
まぁ、正直なところ。ここで茜が頷かなくても、私はいじめを止めるために動くつもりだ。
それは、生徒会の一員としての責務であり、会議の途中で抜け出すことを許してくれた生徒会長に顔向けできなくなるからでもある。
でもね、それって面白くないじゃないか。他人任せで、自分は守られるだけ……そんな結末、好みじゃない。
だからこそ、私はこうして茜を追い込み、好みの結末へと誘導する。私はとっても悪い子なんだから、これは仕方がないことなんだ。悪いのは、茜をいじめている人たちが一番目、私に助けを求めた茜が二番目って感じかな。
「生徒会の仕事があるから、あまり待てないよ。10……9……8……5……4……」
「待って!」
私の性格は悪いんだから、待たないし、数字も順番に並べたりしない。
「3……2……1……」
「わかりました、わかりましたから! 手伝ってください!」
茜が私のことを、媚びるように見上げてくる。涙の膜が張った目が、光の斑点を受けて揺れた。
その視線は、助けを求めているようでいて、どこかで許しを乞うようでもあった。
「……そう」
私は、茜の手を離さなかった。
むしろ、逃げられないように指先を絡めたまま、ほんの少しだけ力を込める。
「やっと、言えたね」
茜の肩が、かすかに震えた。呼吸が浅く、速く、喉の奥でひゅっと詰まる。
「じゃあ、どうする? 同じことをやり返す? もういじめることが出来なくなるまで追い込む? 出来れば、犯罪に巻き込まないでほしいのだけど……まぁ、犯罪をすることになっても、別にいいから」
「ど、どうして……」
「ん?」
方針を教えてもらおうとしただけなのに、茜は怯えているように私を見上げる。
その目は揺れていて、焦点が合っていない。私のどこに、怯えているのだろうか。
「どうして……そんなことしたら……嫌われたり……恨まれたり……するかもしれないのに……どうして……怖くないんですか……」
「あー、それね。簡単なことだよ」
恨まれるのが怖い、か。そんな感情、久しく忘れていた。
だって――
「私は実の父親に恨まれてるからね、一人二人増えたところで、別に変らないんだよ」




