十話
「く、黒瀬さん……」
「ん? あ、そうだったね。じゃ、ついて来て」
昼休みになると、茜が私の席にまでやって来て、相変わらず授業中に寝ていた私を起こしてくれた。
肩をそっと揺らす指先が、必要以上に慎重で、触れた瞬間に引っ込めたくなるほど弱々しい。
私は伸びをしながら立ち上がり、コンビニで買っておいたを片手に持ち、教室の外へと歩いてくる。
茜は半歩後ろをついてくる。逃げ道を探しながらも、逃げるという選択肢を最初から持っていないみたいに。
「茜ちゃんは、弁当?」
「は、はい」
「そっか、それなら校舎裏でいい?」
「……はぃ」
返事は小さかったが、拒否の気配はなかった。茜は弁当箱を胸の前で抱えるように持ち、私の後ろをついてくる。
廊下を歩くと、すれ違う生徒たちがちらりとこちらを見る。視線のほとんどは私に向けられていて、茜はその陰に隠れるように歩いていた。
校舎から出て、外気が肌に触れた。
昼の光は強いのに、校舎裏へ続く通路は建物の影になっていて、ひんやりとしている。
「へぇ、ここって人が少ないんだね。茜ちゃんは知ってた?」
「い、いえ……」
「そっか。なら、また一つ賢くなったね」
校舎裏のベンチに腰を下ろす。
茜は私から少し距離を空けて座り、弁当箱を膝の上に置いたまま固まっていた。蓋に触れる指先が、何度も位置を変えては止まる。
「食べていいよ」
そう言うと、茜は小さく頷き、ようやく蓋を開けた。箸を持つ手が震えていて、最初の一口までに時間がかかる。
(そんなに怯えなくていいのにね)
私も、コンビニ弁当の蓋を開け、米を口の中に放り込んだ。
すっかり慣れた冷たい米粒の感触が、口の中でぼそりとほどける。おいしくはない。でも、食事なんてエネルギーさえ取ることが出来ればいいんだから、気にすることでもない。
「よく噛みなよ。癌の予防にもなるんだから」
「は、はい」
横目で茜の方を見ていると、緊張しているのか、口に運んだ卵焼きをほとんど噛まずに飲み込んでいた。
そのせいかわからないけど、茜のことを見ていると、小動物を観察しているような気分になり、いじわるしたくなってしまう。でも、我慢。食べ終わるまで待たないと。
そうして、自分の弁当を食べ終えて、ゆっくりと片づけているうちに、茜もようやく最後の一口を飲み込んだ。
喉がひくりと動き、細い首筋が小さく震える。
「……た、食べ終わりました」
茜は箸を揃えて弁当箱の上に置き、膝の上でぎゅっと両手を重ねた。
視線は落ちたまま、呼吸だけが浅く速い。
「そっか。じゃあ──」
私は体を茜の方へ向け、軽く笑った。
「ちょっと話そっか」
茜の肩がびくりと跳ねる。
その反応を見て、私は茜の方に身体を近づける。
「茜ちゃんさ、中学の時にいじめられたりした?」
「……っ!?」
茜は、私の言葉を聞いて、目に涙を浮かべていた。瞬きをこらえるようにまぶたが震え、視線が揺れて、膝の上の弁当箱に落ちそうで落ちない。
私の言葉で傷ついたのか、それとも嫌な思い出でも思い出したのか、他人の心なんて読めないんだから、私にはわからない。
「な、なんで……」
「わかりやすいよ、本当に。私はいじめる方に興味が無いからしないけど、茜ちゃんをいじめたい気持ちは理解できるから」
これは本当のことだ。茜は、一目でわかるほど弱く、矮小な生き物だ。
どれだけいじっても、どれだけ酷いことをしても、碌な反撃を受けることは無いし、優越感を満たすことが出来る。
言い方は悪くなってしまうけど、模範的ないじめられっ子とでも言えてしまうくらいには。
「今はどう? もし、いじめられていなかったとしても、そのうちいじめられそうと思ってたりする?」
「それ、は……」
茜は私の言葉を聞いて目を逸らした。
弁当箱の角をつまむ指先が、ぎゅっと丸まる。否定したいのか、言葉が出ないのか、そのどちらにも見えた。
「そのうちいじめられそうって、自分で思ってるんでしょ?」
茜は唇を噛み、視線を落としたまま固まった。喉がひくりと動き、息を吸う音がかすかに漏れる。
答えないという選択肢を選んだつもりなのかもしれない。
でも、沈黙は返事よりも雄弁だ。
「……違う、とは言えないんだね」
「そ、そんなわけじゃ……」
「わかるよ。だって、私もいじめられていたことが、数えきれないほどあるんだからね」
「ぇ……」
茜が、消えそうなほど小さい声で呟く。
私の言葉を聞いて、茜は一瞬だけ顔を上げかけた。けれど途中で止まり、視線が宙で揺れて、また膝の上へ落ちる。
どうやら、私の言葉を信じ切ることが出来ないらしい。ま、当然かな。今朝に嘘を吐いたのは私なんだから。
「本当のことなんだけど、まぁ信じることが出来ないなら、それでいいよ。理解なんて、求めてないし。けどね――」
私は、茜の背中に手を回し、優そっと触れるだけの力で、茜の身体を自分の方へ引き寄せる。
茜は驚いたように肩を震わせたが、逃げようとはしなかった。ただ、固まったまま、呼吸だけが浅く速くなる。
「大丈夫。怖がらなくていいよ」
耳元でそう言うと、茜の指先の強張りがほんの少しだけ緩んだ。
「辛かったよね、怖いよね。誰も助けてくれなくて、世界に敵しかいないって思っちゃう。そんないじめを、また受けるかもしれないって思うと、息をすることすら苦痛に感じちゃうよね。私は、それを理解できるよ」
茜の肩が、私の腕の中で小さく上下した。
泣いているのか、こらえているのかは分からない。ただ、抱いている腕に伝わる震えが、弱くなっていく。
「どうして……」
「私も経験したからって言ったでしょ。茜ちゃんは私で、私は茜ちゃん。だから、安心して身を任せて」
そう言いながら、私は茜の背中をゆっくりと撫でた。力は入れない。ただ、逃げ道を塞がない程度の距離で包み込む。
茜の呼吸が、私の胸元に触れるたびに浅く揺れる。その揺れが、さっきよりも少しだけ規則的になっている。
茜の弱さに触れている、という実感があった。
震え、呼吸、指先の動き──どれも、私の腕の中でしか見せていないものだ。
私はその反応を逃さず、声を落とした。
「だから、本当のことを言ってくれない? 今どんなことを思っているのか、正直に教えてよ」
抱きしめている腕の中で、茜の呼吸がひとつ乱れる。胸元に触れる温度が、かすかに熱くなる。
言葉を探しているのか、飲み込んでいるのか。どちらにせよ、茜の喉がひくりと動いた。
「わ、たし……」
かすれた声が、私の胸元に吸い込まれるように落ちた。
茜は顔を上げられないまま、服をつまむ指先に力を込める。その小さな力が、必死さを物語っていた。
「……こわい、です」
ようやく絞り出した言葉は、震えていて、途切れそうで、それでも確かに本音だった。
「そっか」
短く返しただけなのに、茜の身体がわずかに沈んだ。抱きしめている腕の中で、力がほんの少し抜けたのが分かる。
私は背中を撫でる手を止めず、声の温度だけを落とした。
「なら、怒っていいんだよ」
「え……」
腕の中で、茜が小さく身じろぎした。
怒りという言葉に反応したのか、それともその言葉の意味が分からなかったのか。どちらにせよ、胸元に触れる呼吸が一瞬止まり、次の瞬間、怯えたように浅く揺れた。
「いじめてくるんでしょ。なら、やり返してもいいでしょ。まだいじめられてないとしても、どうせいじめられるんだ。先にやったほうが良い。大丈夫、安心して。生存において善悪は存在しないんだ。だから、何をやっても許される」
「え……でも……」
茜の声は、怯えと戸惑いが混ざっていた。怒りを向けることすら、許されないと思っている子の声だった。
私は背中を撫でる手を止めず、静かに言葉を重ねた。
「私は、それでいじめられなくなったよ。……まぁ、私の場合は、ソレが目的では無かったんだけどね」
「で、でも、それは悪いことじゃ……」
「なんで? 黙って耐えてたら、向こうはやっていい相手だと思うだけだよ。嫌だったって返すことは、悪いことじゃない」
茜の肩がびくりと震える。怯えと、信じたい気持ちが混ざった反応。
けれど、彼女は私の身体を押した。
「ごめん、なさい。わたしには……出来ません」
茜は、私の腕の中から離れ、どこかへと逃げ出そうとする。
私は追いかけなかった。 ただ、離れていく茜の肩の揺れを、静かに目で追った。
「……そっか」
責めるでもなく、引き止めるでもなく。
ただ、一言だけを落とす。
「私は、茜ちゃんの味方だから、いつでも頼ってね」
茜は振り返らない。そのまま真っすぐ歩き、校舎の影へと消えていった。
(でも、これでいい)
まだ始めたばかりだ。拒絶されても無理はない。
でも、クラスメイト達の様子を見れば、いじめが始まるのは時間の問題。そうなれば、きっと私を頼って来る。
だから、いずれ茜を悪意で穢すことが出来るはずだ。
ただ、それは――誰にも邪魔されなかった場合の話だ。
「おはよう……いや、こんにちはかな? 黒瀬ちゃん、授業まで時間があるから、ちょっと話そうよ」
茜が逃げた場所から、生徒会長がやって来て、私の隣に座った。




