第42話 脱出、そして奪還へ
ファロン侯爵の長女アレーシャが恋をし、嫁いだのはクリフト・アヴェリンという名の時計職人だった。
二十年前、ファロニアでからくり時計の展覧会があった。そこを訪れた若くひょうきんな男クリフトは職人としてはとてもひたむきだったとか。
しかしその男はアレーシャと心を通わせ、あげく姉は故郷を出奔した。その時まだ六歳だったリージヤは、誇り高くしっかり者の姉が隠し持っていた情熱に驚いたものだ。
――マルーシャを見て、そんなことを思い出した。しかし自分との血のつながりには言及せずにリージヤは冷ややかをよそおう。
「この方の寝室はあるのかしら。こんな夜更けに騒がしい」
「おや、姫はご機嫌斜めですかな。私はこんなに楽しいのは久しぶりなのですが」
メレルスの笑みは愚劣な喜びに満ちている。顔をしかめるリージヤに満足そうにして、メレルスは隣の部屋の扉を開けた。
「こちらを使えるようにしておきましたので、どうぞ。今夜は遅いですからな、明日にでもゆっくりお話しになればよい」
隣室をマルーシャに指し示し、メレルスは悠々と去っていった。
おまじないを使おうなどと思わないことだ、とマルーシャは言い渡されている。自分の術に自信があるのだろう、監禁が破られるとは欠片も心配していないようだった。
メレルスが去るのを待って、ルスランはちょいちょい、とマルーシャを自分たちの部屋に招いた。マルーシャにだって話したいことが山ほどある。うなずいてついていくと、扉を閉めるなりリージヤに抱きしめられた。
「――初めまして、姪っ子さん」
震える声で、嬉しそうに言われた。母のことを覚えていてくれたのかとマルーシャも笑顔になる。でもルスランにはわからなかったようだ。
「どういうことだい? 姪っ子?」
「アレーシャお姉さまの娘なのよ」
「――ああ、ベルドニッツで人として暮らしているっていう! どうりで君と似ているけど――どうしてこんなことに? 兄さんの妻だなんて」
妻。ジートキフ夫人を名乗った嘘を思い出し、マルーシャは少し顔を赤くした。でも手短に説明する。
春告げの姫を探してダニールがベルドニッツに訪ねてきたこと。ミュシカも一緒なこと。ファロニアに向かう途中でメレルスの情報をつかみ、全員で救出に来たこと。ミュシカが「お父さま、お母さま」と呼ぶおかげで夫婦と娘だと思われがちなこと。
「それはたいへんな迷惑をお掛けして……あの子は宿に?」
「はい」
あまりの成りゆきに頭痛を起こしたような顔のルスランだったが、マルーシャは少し急ぐ。確認しなくてはならないことがあるのだ。ダニールたちはたぶん、もう追ってきてくれているはずだから。
「館でおまじないは通じないとメレルスが言っていました。本当ですか」
「ええ。歩いていい場所が決まっていて、その範囲では壁にも扉にもおまじないを弾くおまじないみたいなものが掛けられてるの」
それは――マルーシャは目をまるくした。おまじないは人の作った物には掛けられないのではなかったか。
「僕らは無理に破ろうとしなかった。むしろ腕力で壊すのなら、できるかもしれないんだが」
「はあ」
おまじない対、物理。どうなるのかマルーシャは見たことがない。
「でもそれは閉じ込めておくためですから、壁や扉にだけですね?」
「そうだね。どうして?」
「いえ。空間内すべてでおまじないが効かないんだと困るんですけど、それならなんとか」
その時、玄関付近でドーンッと大きな音が響き、マルーシャは口をつぐんだ。
「な、なに?」
身構えるルスランにリージヤがすがりつく。またガンッと館が揺れた。
「たぶん、ダニールさんたちです」
マルーシャは胸のペンダントをそっと握った。来てくれた。こんなにすぐに。
――それにしても、やることが派手だ。焦っているのか、あるいは雑にならざるを得ない事情が発生したか。
「メレルスのおまじない、破ってみます」
「破るって……あ、僕らも行くよ!」
玄関に戻らなくては。でも近づいて平気なものか、やや自信がない。下手すると玄関が崩れそうな揺れ方じゃないか? 建物を壊しかねないなど、生真面目なダニールにしては強引すぎるやり方だ。どうしたんだろう。
廊下を行くと、玄関に続く扉が閉めきられていた。
「ここだ」
「おまじない……ああ。ある、かも」
マルーシャは扉の木製の部分に染み込んだ力を感じ取った。なるほど、木材はギリギリ自然の物だと。そのおまじないをやんわりとつかまえる。
「カテナ ヨルダテーバ」
言い聞かせるようにすると、スウとそれは消えた。
「うわ……!」
「嘘でしょ」
驚く二人に、マルーシャは小さく笑った。
ダニールに教えられたおまじない、その応用。文言を組み替えれば、いろいろ使える。
「いきます」
一度深呼吸した。
バン、と扉を開けると、玄関ホールにいたメレルスと家令のヨアニムが振り向く。
そして同時に、バキバキィッと乱暴に過ぎる音が反対側から響いた。
玄関の扉が砕ける。その向こうに――腕を突き出したダニールが、険しい目をして立っていた。
「マルーシャさん!」
こちらを見つけて叫ぶ。見たことがないくらい怒っているようだ。マルーシャはちょっと後悔した。簡単にさらわれたのは間違いだったかもしれない。
だがこうなったら突き進むしかなかった。ダニールもズンズンと入ってくる。
マルーシャは信頼する教師ダニールを真っ直ぐに見つめ、うなずいた。
「ザイン、クムディ メ サイルース!」
かわいらしい声が玄関ホールに響いた。




