第29話 マルーシャが知ったこと
この地方最大の街、ヴェデレ。
コルニクからはそれなりに距離があるので到着したのは夕刻だった。今日は移動だけに時間を取られたので買い物などは明日にする。
部屋にいったん落ち着いたマルーシャを遠慮がちに訪ねてきたのはダニールだった。食事までの間におまじないの講義をしてほしいと伝えておいたのだ。
「お願いしちゃってすみません。お祖父さんに会う前に、少しでもできるようになっておきたくて」
マルーシャが照れくさそうに申し出ると、ラリサはサッとミュシカの手を引いた。
「じゃあ私たちはイグナートのところに行ってましょ。集中して勉強しないとね」
「え、おいラリサ」
ダニールの困惑にも、ミュシカは大人しくバイバイする。だってこれは仲良し大作戦なのだから。
二人きりで残され、マルーシャは申し訳なさを押し隠して気合を入れた。恋愛はともかく、おまじないを習いたいのは本当なのだ。気にせず教えてもらおう。
「……ミュシカのご両親のこと、進展してるんですよね。なら私もちゃんと戦えるようになった方がいいと思います。私だってミュシカを守りたいから。お母さまなんですし」
「そういうことでしたか」
宿で勉強をと言った意味を取りつくろったらダニールが深々とうなずいてしまった。マルーシャの胸がチクンと痛む。なんだかだましているみたいな気がした。
でも、ミュシカが危険にさらされた時に使えそうなおまじないを教えてほしい。その気持ちは本当だ。
「この国に誘拐犯がいるかもしれないなら、いつ何があってもいいように頑張ります」
「疲れていませんか」
旅慣れないマルーシャをダニールは気づかった。いちど熱を出したことで、ダニールの中でマルーシャはいたわるべき人になっている。中身を「たくましい」と評してはいるが体は繊細な女性だと思っているのだった。
「もちろん根は詰めません。今日はひとつだけ。たとえば前に言ってた、おまじないを解くおまじないとかどうですか?」
「どうして、それを?」
「誘拐事件の時って、ダニールさんの〈シェイディ コン ブラーデレ〉が解かれたんですよね。おまじないの上手い犯人ってことなら、逆にこっちから邪魔されたらプライドが傷つくんじゃないかと思って!」
にっこりするマルーシャの笑顔は輝いている。真っ直ぐなまなざしにダニールはぽかんとし――そしてうっかり吹き出した。なんて強い人なんだろう。
いきなりの笑顔にドキドキしたが、マルーシャは好戦的すぎたかと後悔した。
「……駄目ですか」
「いいえ。とてもいい考え方だと思います。あなたもミュシカを守ってくれるのならありがたい」
「じゃあ」
「ショズデーレ、カテナ ヨルダテーバ」
唐突につぶやかれたおまじないにマルーシャは目を見開いた。
「ショ、デー?」
「ショズデーレ」
ダニールは一言ずつ意味も教える。文言は短いが、それは簡単なおまじないではなかった。
なぜなら〈言葉〉という曖昧な対象を明確に把握し働きかけなければならないからだ。鋭い感覚と柔らかい心が必要なのだった。
「ショズデーレ、カテナ ヨルダテーバ」
マルーシャは小さくつぶやく。そこに行き場はないが揺らぎが起こるのを感じ、ダニールは震えた。なんという才能だろう。
マルーシャ自身も体に何かが流れ、あふれかけたのがわかった。周りに影響していないか不安になり、すがりつく視線をダニールに向けてしまう。ダニールはすっかり学者の顔になりうなずいた。
「大丈夫――お互い抑え気味でやってみましょう」
「やってみる? お互い?」
「僕のおまじないを打ち消して下さい」
言うとダニールは部屋の隅にマルーシャを手招いた。やや暗いその一角で向き合って立ち、ダニールは手のひらを上に向ける。
「僕の言葉をとらえて。起こる現象じゃなく、言葉を、です」
マルーシャは不思議な指示にまばたきしたが、ダニールの口もとを見つめた。
言葉なんて口から出てすぐ消えていくのに、「とらえる」なんてできるのだろうか。でもうながされるままに身がまえた。
ダニールが右の手のひらを自分の前に出し、おまじないを唱える。
「シュヴェルテ ジェリクルミナス」
するとダニールの手の上に、ポウと光が浮かんだ。
マルーシャは息をのんで灯りを見てしまう。ダニールが苦笑して、光は消えた。
「言葉をとらえて下さいと」
「あ――だってびっくりして。今のおまじないも初めてなんですもん。とても綺麗だったし、すごく便利!」
「ああ、これはわりと使いやすいおまじないで――じゃなくて、この灯りがともらないようにしてほしいんです」
「う。はい、頑張ります」
つい主婦根性を発揮しかけたマルーシャは唇を引き結んだ。それを微笑んでながめたダニールが、また小さく唱える。
「シュヴェルテ ジェリクルミナス」
「――ショズデーレ、カテナ ヨルダテーバ」
ダニールの声に耳を澄ましたマルーシャは、そこに生まれたおまじないをつかまえたような気がした。聞こえる音そのものではなく、揺らぎ。これまでも感じていたそれをつかむのだ。
するとポワ、とともりかけた灯りが薄れ、消える。
手のひらの上の暗がりを凝視して、二人は無言で立ち尽くした。
「――ダニールさん?」
これでよかったのかしら。おそるおそる声をかける。
すると微動だにしなかったダニールは、肩をふるふるしたかと思うと叫んだ。
「マルーシャさん――!」
「は、はい」
「成功です! いやすごいな、嘘みたいだ!」
丁寧語も忘れて興奮するダニールを見上げたら、間近に喜びに満ちた黒い瞳があった。その輝きに吸いこまれるようにマルーシャはダニールに見惚れる。
マルーシャの心臓が、トン、と打ちはじめた。
速まるわけでもないが、トン、トン、と大きく。それでマルーシャは得心する。
これが、「好き」という気持ちなんだ――――。




