第28話 これはいったい恋なのか
ふらりと酒場に入ったイグナートは、大きな相席卓の一角に腰かけた。
たまには一人でこうするのも悪くない。こんな町にたいした情報もないだろうが、個人的な気分転換でもあるのだった。知らない店の素朴な煮込みとパン、そして葡萄酒。それだけでもなんとなく心が浮き立つ。
「お、旅行者かい」
さっそく近くの男たちが声をかけてきた。せまい町ならなおさら、旅人からの話に飢えているものだ。
「ああ。護衛をやってるんだが、たまには主人と離れて飲みに行かせろと交渉してね。宿を出てきたのさ」
上司への愚痴を言いニヤと笑ってみせると、それだけで肩を叩きあう仲になる。みんな雇い主や親方や取引先に何かしら抱えているのだから。イグナートは幾人かと杯をカチンと合わせた。
「どっから来たんだ」
「クローシュ公国だ。家族旅行で、のんびり田園風景を楽しみたいと奥方さまが」
「ここらは風光明媚とかじゃねえ。ただの田舎だぞ」
「いやあ、奥方さまは町育ちなもんで、野原を見るだけで目を輝かせてるよ」
これは「奥方さま」をマルーシャに比定すれば本当のこと。野原ではしゃぐマルーシャの姿を思い出しながら話したまでだ。嘘と真実をおりまぜると会話がそれらしくなる。
だが乱暴にパンをちぎり煮込みに突っ込む食べ方は粗野をよそおった。やろうと思えば貴族の晩餐にも出られる作法は身につけているが、郷に入りては郷に従え。
「あ、このパンさあ、ここいらじゃ高くなってるか? 国境に近づくにつれてなんだか値が上がった気がするんだが。クローシュ公国だけかなあ」
「なんだ向こうでも高いのか」
もぐもぐしながら訊いてみたら、あっさり肯定された。男たちが迷惑げに顔をしかめる。
「小麦が品薄なんだよ。なんか妙な買い付けをするやつがいるらしくてな。つられてあちこちで買い占めが起こってるってよ」
「チーズもだぜ。まだ熟成できてないやつまで予約されてた」
「なんだそりゃ」
イグナートは怪訝な顔をしてみせた。
来春は家畜の乳の出が悪くなる予定、ということなのか。どれだけの飢饉を引き起こす気だ。
「パンとチーズを食べつくす大食らいがいるってか。どこのどいつだ」
おどけて訊いたが、ここにいる連中も大元の商人が誰なのかまではわからないらしい。幾人かの名前が槍玉にあがるのを覚えておいた。
「その流れに商人みんなが乗っかりやがったんだ。俺たちにはいい迷惑さ」
そして話はさまざまな愚痴に流れていった。イグナートは低く笑って相槌を打ちながら葡萄酒をチビチビと飲んだ。
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「……とまあ、そんなだ。今度は名前の出た商会のことを調べるよ。次のヴェデレは大きな街だし、中一日くれ」
翌朝コルニクを発った馬車の馭者台でコソコソ報告しながらイグナートは提案した。本来ならさっさとファロニアに向かうべきなのだろうが、せっかくつかみかけた手がかりだ。早急にルスラン夫婦の居所を調べたい。
「二泊するのか……この件はマルーシャさんには関係ない。回り道は申し訳ないよ」
「だあっ! 関係ないとか言ったら彼女泣くよ? 〈お母さま〉なんだからさ」
ミュシカの幸せにかかわることなのだから、きっと素通りする方が怒ると思う。それにこの時、馬車の中では女性陣もヴェデレでの予定について協議中だった。
「マルーシャの服を、もう少しそろえなきゃならないのよね」
「どうして? ベルドニッツで買い物はしたじゃない」
「ワンピースぐらいしか買わなかったでしょ。侯爵閣下に会うんだから、きちんとしたのがあと二着ぐらいほしいわ。着たきりでいるつもり?」
「う。そっか……」
まだ見ぬお祖父さん。堅苦しい人ではないと父は言っていたが最低限の礼節は守りたい。
「だから一日、ヴェデレで時間をもらいましょ。必要なことだもの」
「それでね、お父さまとお母さまのなかよしだいさくせんもするの!」
「ミュシカ、そこは小さな声でね」
昨夜の女子会の成果を嬉々としてしゃべるミュシカ。マルーシャはいたたまれずにうつむく。
そりゃダニールは素敵な人だと思う。なんだかときめいてしまうような気がする。でもそれが恋だとは確信できないのがニブチンのマルーシャなのだった。だって自分に恋なんて似合わないと思っているから。
仲良し大作戦とはつまり、ダニールにおまじないを教えてもらうだけだ。二人が距離を縮めるには、それぐらいしか口実がないとも言う。
宿の部屋で二人きりにしてあげるから、と言われたがそんな状況になっても何もアピールできない自信がマルーシャにはあった。
「……マルーシャからアプローチは難しいと思うけどねえ」
「ラリサぁ……」
「でもダニールはマルーシャのこと認めてるし、特別な人だと考えてるわ。尊敬する方向性なのが意味わかんないんだけど」
「それって、特別の意味がぜんぜん違わない?」
ダニールが抱く感情がどうにも理解できない。マルーシャの気持ちも、いわゆる恋なのかわからない。なのでいくら二人で時間を過ごそうとも、恋人になんかなる気がしない。
「ずっと教師と生徒な気がする……」
「それ、わたしとお父さまとおんなじ!」
ミュシカが嬉しそうにした。
幼女にとっては大好きなマルーシャとダニールと自分が同じなのは、ただ喜ばしいだけだ。
恋愛などまだまだ実感のない五歳のミュシカなのだが、それとあまり変わらないレベルの自分にマルーシャはため息をついた。




