第22話 ずぶ濡れの夜
薪がやられては商売にならない。下の方の無事なものを、店の者が集まって取り出しにかかった。だが作業するその上にも雨は無情に叩きつけている。
あ、と思いついてマルーシャはそちらに近づいた。
「オシュ アン ボルシス」
静かに手をのべ小声で唱える。
するとおまじないがフワリと薪小屋を包んだ。
「――!」
なんてことだ、きれいに成功している。
ダニールは一瞬迷った。人がおまじないに気づいてはまずいし解いてしまおうか。
だがすでに薪の表面はずぶ濡れなのだし、働く人々も同様。たぶんバレやしない。せっかくのマルーシャのおまじないをないがしろにしたくなかった。このままにしておくか。
そのマルーシャは、試してみた雨よけが成功し立ち尽くした。
できた。三種類めの、おまじない。
喜びに瞳を揺らすマルーシャの肩に、近づいたダニールが自分の上着を着せかけた。おまじないの前に濡れたぶんはどうしようもなくて、髪からもポタポタと水が垂れている。
「あ、ダニールさん……」
「早く、馬車に。宿はすぐそこです」
ダニールの眉間にしわが寄っていることに気づいてマルーシャはハッとなった。
「ごめんなさい、あなたまでびしょ濡れ」
「……僕はいいです」
ぶっきらぼうに言われ、とにかく馬車に戻る。
馬車を出してもダニールがこちらを見てくれなくてマルーシャは不安にかられた。勝手をしすぎただろうか。飛び出したことも、おまじないを一人でやってみたことも。
濡れたまま宿に入り、部屋を取った。
体を拭いて着替えなくてはならないが、目を伏せたままのダニールが一緒に女性用の部屋に入ってくる。
「え……あの」
「ここに立ってて下さい」
言われるまま立ちどまると、肩に羽織ったままだった上着をそっと脱がされた。マルーシャはわけがわからない。ラリサとミュシカがニコニコと見守っているので、妙なことはされないと思うけど。
「あの……ごめんなさい」
「何がです」
ダニールはスッと視線を外してしまった。濡れた上着を床に投げる。
マルーシャの心臓がズキンとした。こんなダニールは初めてだった。やはり怒っているのだろうか、仮面のような無表情だ。
ダニールの黒い髪はずぶ濡れだった。シャツも体に張りついている。マルーシャよりもよほど濡れてしまっているのは、自分にはおまじないをかけなかったからだ。
「乾かします」
「え」
ダニールは静かにマルーシャの正面に立った。マルーシャが戸惑うのにもおかまいなしで、おまじないを唱える。
「オシュ アン ボルシス テ ポヴェラス ベータ
リディグレーヴァ エ ヴィーテル」
心地よい風がゆるやかに二人を包んだ。
渦を巻く温風にあたると次第に服も髪も軽くなっていく。ダニールは目を薄く開き、探るような考えるような顔だ。
そしてマルーシャの髪が風に揺れはじめた頃、ダニールはフッと息を吐いた。おまじないが消える。
「――どうでしょうか」
「な、なんですかこれ」
「乾きましたか?」
こくこくうなずいたらホッとされ、かすかに微笑んでくれる。いつものダニールだった。パチパチとミュシカが手を叩く。
「やっぱりお父さま、すごーい!」
「ちょっと複雑なおまじないだから、ミュシカはまだやるんじゃないよ。あ、マルーシャさんも」
「無理です! こんなの覚えられない……最初だけは知っている言葉だったけど」
ダニールは床の上着を拾った。そっちはまだ濡れたままだ。
唖然としているマルーシャに目礼し、出ていってしまうダニール。見送ってマルーシャは大きくため息をついた。
「どうしようかと思った……ダニールさん怒ったかと」
荷物を整理していたラリサが振り向いて首をかしげる。
「なんでよ?」
「だって。口数が少ないし、私のこと見ないし」
「それ……マルーシャが濡れてたからじゃないの?」
サッとマルーシャは青ざめた。濡れたダニールの体に張りついていたシャツを思い出したのだ。
つまり、マルーシャも体の線が出るような状態だったということなのか。だから上着で隠されたのか。
「やだ……」
紳士的に目をそらされていただけなのだと気づいてマルーシャは死にそうな気持ちになった。
「お疲れ。おまえも乾いてんのか」
「二人まとめて乾かした。手間は同じだ」
男性用の部屋に引き上げたダニールを迎えたイグナートはニヤリと笑った。びしょ濡れのマルーシャから必死で目をそらしていたダニールの動揺には、もちろん気づいていたのだ。
「マルーシャちゃん、いい子だな」
「うん?」
「知らないパン屋のためにさあ……馬車から見ててどうしようかと思った。俺まで濡れる意味ないから行くのやめたけど」
「まあ、普通の判断だ」
ダニールは宿から貸してもらったタオルで上着の水をぬぐう。これは普通に吊るしておけばいいだろう。食堂で夕食を取るのなら、濡れた服とは別の物に着替えていないとおかしい。
「なんかさ、マルーシャちゃん小さくて可愛いと思わん? おまえの上着ブカブカだったな」
イグナートの言葉にダニールは眉をひそめた。
「……何を言い出す。ラリサに言うぞ」
「やめろって! おまえはどう思うよ」
「マルーシャさんは……すごい素質を持っているな」
「だあっ! 女の子として、て話だろ。おまえのこと受けとめてくれる子、なかなかいないよ?」
「……彼女は素晴らしい人だと思うよ、もちろん」
ダニールは硬質な声で言い切った。その硬さの意味をはかりかね、イグナートは友人を怪訝な顔で見つめていた。




