「夏は秋に移ろう(創作短編)」
「そういえば、実はボク、明日死ぬんだよね。」
白露先生は振り向いて、笑顔で仰った。葉月の節、今で言うと九月の頭のことだった。
僕、こと晴宮立夏は突然の告白に目を白黒させた。
「あー、肉体がってことじゃなくてさ。精神が死ぬの。だから君と一緒に老いることはできる。」
何を言っているのかさっぱりわからない。先生?僕にもわかるように説明してください。
「すなわち、明日を境に記憶が更新されなくなるんだ。だからボクという自我はここで『死ぬ』。白露流を頼んだよ。」
先生?何を言ってるんですか。明日からも一緒に老いて一緒に暮らせるのに死ぬって何言ってるのかわかんないですよ。
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先生が『壊れて』から一日目。
「ごちそうさまでした。」
先生の朝食はいつも決まって沢庵と茶漬けだけ。起きる時間はまるで生きた時計のように五時ぴったりだ。
先生の一日は簡単だ。九時になったらお茶を点てて、十二時に昼食。十五時になったら生け花を教える。
そうしたらお仕事はおしまい。二十二時まで遊んで、本を書いて、寝る。
「お昼は何がいいんだい?立夏クン。」
僕は先生の言った昨日の言葉が気になって、ずっと黙りこくっていた。
「ナポリタンとは、これまたハイカラだねぇ。ボクと初めて食べた料理がそんなに気に入ったかい?」
だんだん話がかみ合わなくなってくる。
ナポリタンの話は確か一昨日したはずだ。
「先生、今日は蕎麦が食べたいです。」
「わかった、あそこの洋食屋にしようか。思い出の洋食屋に。」
おかしい。蕎麦を食べに洋食屋に行く人間がどこにいるというのだろう。
「先生!しっかりしてください!ナポリタンが食べたいならナポリタンを食べたいと言えばいいじゃあありませんか!」
柄にもなく大声を出してしまう僕。
「ナポリタンとは、これまたハイカラだねぇ。ボクと初めて食べた料理がそんなに気に入ったかい?」
もういい。僕をからかって遊んでるんだ。
僕は先生を置いて帰ることにした。
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先生が『壊れて』から五日目。
だんだん規則が分かってきた。
一、先生は過去のいずれかの日を「無作為に再生」している。
三日目にはおぎゃあおぎゃあと泣き喚いて仕事にならなかった。白露流生け花教室もその日は臨時休業だ。
二、先生は「再生された日に発した台詞」しか話すことができない。
一日目のナポリタンの話はその典型例だ。壊れたラジカセのように、発した台詞しか話すことができないようだ。
三、先生は「同じ過去」を繰り返さない。
これは白露先生が夜な夜な作っていた本が示していた。
「この本を読んでいるということはこの私に『症状』が現れているということだろう。」と、達筆な誰かの前書きによって始まっていた、白露先生が物心ついたときからの日記、いや、誰かの手によって物心つく前からの日記が毎日刻まれている本だった。
ふと、気づくと一昨日をはじめところどころの頁が破れている。剥がれ落ちていると言ったほうがいいか。
即ち、「同じ日」はもう繰り返さない、ということなのだろう。
もし頁がなくなってしまったら?白露先生はどうなってしまうんだ?
そんな事も考えられないくらいは今日も外れの日だった。
白露先生はただでさえ身体が弱い。
昨日ホッピーなんて飲んで、どんちゃん騒ぎをしたんだから安静にしておくべきなのに、というか「本当の翌日」には安静にしていたはずなのに、よりにもよってその次の日に「わんこそば食べ放題の日」が来てしまった。
当然身体は持つはずもなく、パタリと倒れて気絶するも口だけはズルズルと蕎麦をすする形をしていた。少し面白かったので後で絵に残しておいたが。
そうだ、毎日絵を描いて、一枚ずつ飾っておこう。そうやって思い出を仕舞っていこう。
これまでの分も一日を象徴する一枚を描いて記録しておこう。日記から剥がれ落ちる白露先生が、二度といなくならないように。
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先生が『壊れて』から百二十日目。
いつしかお茶も生け花も、白露先生よりも上手くなっていた。
なんで分かるかって?横に比較対象がいるんだから当然だ。まあ今日横にいるのは3年ほど前の白露先生なのだが。
3年前の白露先生が誰もいない部屋で、壁に向かって生け花を教える仕草をしている隣で僕は今の生徒に白露流のお茶や生け花を教えている。
いつか。きっと。日記がすべて剥がれ落ちたその日には。何かが変わると信じて待ち続ける。白露先生の背中を見ながら僕はそう誓ったのだった。
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先生が『壊れて』から三千八百七十二日目。
僕はもう耐えられなくなっていた。
あの白露先生が壊れたラジカセのようになってからもう十年以上だ。
白露流生け花教室は今日も大繁盛。もっと広い部屋を借り、今では数十人の弟子を抱え、小規模ではあるがついでで僕の絵画教室まで開くようになった。
白露先生はもう誰もいない狭い部屋で「いつかの昨日」を繰り返している。
僕は、見捨てた。
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先生が『壊れて』何日経ったのだろう。もう数えるのもやめてしまった。
先生から貰ったものは沢山ある。
白露流の看板、五時ぴったりの起床、沢庵と茶漬けだけの朝食、生け花、お茶、掃除の段取り、日記を書く習慣、たくさんの弟子にも恵まれる人望、これは貰ったものなのか分からないが絵画まで。今では個展も開ける位になりました。
そして、白露先生の日記。
これだけは置いていくことができずに持ってきてしまった。
もう頁も数枚しかない。
そして、白露先生は残り頁の数だけ「いつかの昨日」を相変わらず繰り返している。
それを想像するとなんだか虚しくなって、見捨てた自分が恥ずかしくなって…。
久しぶりに、白露先生の様子を見に行くことにした。
「どうしたの、こんなになっちゃって。立夏クン。」
あぁ、これは…。僕が子供の頃喧嘩してぼろぼろになった日だ。
「大丈夫だよ、ボクがいるからさ。全員にやり返してあげるよ。ほら、ボクに任せなさーい!」
そんなヒョロヒョロの腕で何を強がって。でもそんな姿が昔は頼もしく見えたっけな。
「帰ってきてくださいよ。」
気がつくと柄にもなく大きな声を上げて泣き叫んでいた。
「白露先生、好きです。最後までずっと言えませんでした。その表情も、頼もしい所も、頼りない所も、頭が切れる所も、偶に抜けている所も。」
白露先生の着物は僕の涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「ずっと…好きでした。」
もう伝わらない想い、二度と伝わることのない想いを。後悔を抱きながら、僕は縋り付いた。
「立夏クン、大丈夫だよ。お風呂沸いたよ、葛湯でも飲んで落ち着きなさい。」
分かっている。もう僕の愛した白露先生はここにはいない。僕は葛湯と一緒に、現実を飲み込んだ。
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先生が『壊れて』…何日経ったのかはわからない。
…とにかく、最後の頁になってしまった。
先生は壁に向かってぶつくさ喋っている。
「立夏クンへ。これが最後のボクになることは分かってた。なんでかは分からないけどね。」
静かに、そっと聞き耳を立てることにした。
「一つ。白露流は頼んだよ、ということ。君ならきっと受け継ぐことができるさ。」
無事に継げましたよ。安心して。
「二つ。ボクが居ないからって自堕落な生活を送らないこと。キミ、ボクがいないときサボってることお見通しだからね。」
今はそんなことないですよ。大丈夫。
「三つ。これは白露流の呪いだ。絶対に挫けないで、ボクの顔に免じて、続けてほしい。弟子に日記を受け継いで、この呪いを背負って、この素晴らしい白露流を廃らせないでほしい。次はキミだ。」
まさか。
まさかまさかまさか。
僕の日記をめくってみる。
「この本を読んでいるということはこの私に『症状』が現れているということだろう。」と言う文字と出生時からの記録が白露先生の筆致で刻まれている。
なんで。
なんで「まだ出会ってもないはずの赤子の出生時の日記」を書けるんだ?
もしかして。
全部…。
次に剥がれ落ちるのってまさか。
「お!立夏クン!」
「そういえば、実はボク、明日死ぬんだよね。」
白露先生は振り向いて、笑顔で仰った。
ーENDー




