第1章:1.5 翠風平原:データの貪欲
草の葉の先端に引っかかっていた露は、本来なら朝日で輝くはずだったが、五人が平原の隆起した背骨のような岩地帯へと踏み込むにつれて、周囲の景色はどこか不気味な歪みを帯びはじめていた。
ここの草むらは、もうみずみずしい若緑ではなく、まるで電子放射線にでも焼かれたかのような暗い紫色に変色していた。
空気中に漂っていたほのかな草木の芳香は、すでに、金属のオーバーヒートとゴムが焼け焦げたような、粘りつく焦げ臭さに取って代わられていた。
一歩踏み出すたびに、足の裏に感じるのは柔らかい土ではなく、どこか吸着感のあるゼリー状の地面だった。
「リアの祝福は……」
「もう時間が残っていないわね」
伊凝雪は足を止め、インターフェースの端でグレーの微光を放ちながら明滅している淡緑色の葉のアイコンを冷静に見つめた。
彼女はすらりとした指を伸ばし、目の前を塞ぐ半ば枯れかけた発光植物をかき分けた。その声のトーンは相変わらず落ち着いていたが、ロングボウを握る指には先ほどよりも明らかに力が込められていた。
「おそらく、あと三十五分くらいよ」
「もしバフが切れるまでにこの窪地を突破できなければ、」
「スタミナの急激な消耗で、こんな地形じゃ一歩も進めなくなってしまうわ」
「みんな、急ぎましょう」
「陣形を崩さないで」
闕恒遠が先頭に立ち、手にした長剣を胸の前に構えた。
彼は神経リングから伝わってくる微弱な共振を感じ取っていた。周囲の環境に充満する不安定なデータが引き起こす、ノイズ干渉によるものだった。
彼は横に視線をやり、千慕羽が玥映嵐の重盾が作る影にぴったりと寄り添うように歩いているのを確認した。
「慕羽、さっきの戦闘……」
闕恒遠が小声で切り出すと、その声は静まり返った窪地の中でどこか空虚に響いた。
千慕羽が顔を上げた。その琥珀色のロングウェーブヘアはわずかに乱れている。
彼女は無理に口元を持ち上げ、仲間たちを安心させるような笑みを浮かべてみせたが、スタッフの結晶に触れる指先の動きはどこかこわばっていた。
「私、平気だよ、恒遠」
「ただ、このゲームの痛覚と感情の再現度が高すぎて、」
「さっきの一瞬、」
「本当に生きている生物を殺してしまったんだって本気で思い込んでしまって……」
「でも、もう気持ちは切り替えたから」
「もうみんなを危険な目に遭わせたりしないからね」
「そう思ってくれるなら安心だ」
悦清禾がふっと身を翻し、紫色の幽霊のように背の高い草むらの奥から闕恒遠の側へと戻ってきた。
彼女の表情はどこか奇妙で、前方の濃い霧に包まれた窪地を指差しながら、小声で言った。
「あそこの場所、なんか変なの」
「みんな、ちょっとこっちに来て見たほうがいいよ」
「私たち、さっきこのエリアに入ってから、妙に静かだと思わなかった?」
「昨日の平原の端であんなにどこにでもいた小さなスライムが、」
「ここでは一匹も見当たらないの……」
「さっきあいつを見るまではね」
五人は息を潜め、なだらかな斜面へとそっと這い上がり、下方に広がる窪地を見下ろした。
その窪んだ深紫色の草地の中心には、三メートルを超えるほどの巨大な灰褐色のゼリー体が陣取っていた。
それは「変異体:貪欲のスライム」だった。
悦清禾の言った通り、この窪地はすでに生物たちの禁足地と化していた。
何匹かの迷い込んだ普通の緑色のスライムたちが、まるで磁石に引き寄せられるかのように、恐怖に怯えながらその巨大怪物のほうへと滑るように移動している。
自分から進んでいるわけではなく、その巨大怪物の体内から放たれる強烈な引力に強制的に引っ張られているのだ。
「そういうことか……」
「あいつ、周囲のスライムをすべて養分として取り込んでるんだわ」
伊凝雪はこの悍ましい光景を冷静に見据え、その瞳にわずかな緊張の色を走らせた。
その躯体は規則正しい円形ではなく、呼吸に合わせて酷く不規則に波打っており、ゼリー質の表皮の下では無数の細やかな赤いデータ脈絡が血管のように狂ったように脈打っていた。
小さなスライムが呑み込まれるたびに、巨大怪物の躯体は眩い赤い火花を散らし、その体積を肉眼ではっきりとわかるほどに膨れ上がらせていく。
もっとも気味の悪いことに、この怪物の核にあるコアクリスタルは純粋なものではなく、無数の乱雑な二進数コードが絡みつき、それらのコードがデータストリームのように狂気に満ちた破壊の予感を放っていた。
「あいつ、自分の底層エラーを修復しようとしているのよ」
伊凝雪が低く呟いた。
「これは通常のゲームの進化じゃない、データ崩壊後の自己凝集だわ」
その時、巨大な貪欲のスライムがゆっくりと体を翻した。目こそないものの、核で脈打つ赤いデータストリームが、突然五人のほうへと向けられた。
「グオオ――!」
喉から発せられるものではなく、空気を震わせるような重く鈍い唸り声が辺りを席巻した。
スライムの躯体に無数の亀裂が激しく走り、その直後、強烈な腐蝕性を帯びた数発の褐色の粘液が砲弾のように激しく撃ち出された。
「散らばれ!映嵐、盾を!」
闕恒遠が叫び声を上げ、右側の草むらへと身を翻して飛び込んだ。
「【堅固なる守護】!」
玥映嵐が気合の入った美しい声を張り上げ、巨大な重盾を地面へと勢いよく叩きつけた。盾の表面から淡い黄金色の光幕が弾け飛ぶ。
褐色の粘液が光幕に激突し、歯が浮くような「ジジジ……」という不快な音を立てながら、草地を瞬く間に真っ黒な焦土へと変えていった。
「清禾、側面から撹乱しろ!」
「慕羽、氷系魔法でやつの下半身を封じて、」
「これ以上動かさせるな!」
「任せなさい!」
千慕羽にはもう一片の迷いもなかった。
彼女はスタッフを大きく振るい、狂おしく脈打つ赤いコアを真っ直ぐに見据えた。
「【極霜の槍】!」
三本の巨大な氷の錐が刺すような冷気を纏い、焦げ臭い空気を切り裂いて、貪欲のスライムと地面が接するゼリー質の部位へと正確に突き刺さった。
「バキッ」という重く鋭い音とともに、怪物の下部は一瞬にして分厚い氷の層で覆い尽くされた。
貪欲のスライムが怒りの振動を轟かせた。低温の干渉によって核の赤いデータストリームはさらに乱れ、やつはゼリー質の躯体を激しく振り乱して束縛から逃れようと暴れ回る。
「今だ!」
闕恒遠は好機を逃さず、手に握った初心者の剣に全神経の力を溜め込んだ。
彼は身を隠していた場所から一気に飛び出し、ぬかるんだゼリー質の地面を足場にして思い切り跳躍した。
目の前一メートル足らずのところに、あの赤いデータの核が見える。無数のコードがまるで命を持つかのように彼を威嚇していた。
「これで終わりだ!」
長剣が風を切る音を響かせながら、コアめがけて一直線に突き出された。
だが、剣先がコアに触れようとしたその瞬間、スライムの表皮の下から赤いデータの脈絡が突然「突き出し」、数十本の細長く鋭い赤いデータ触へと姿を変えた。
キィーン――!
澄んだ金属の衝突音が響き渡る。
闕恒遠は、その赤い虚像のハズの触手が実体を伴っており、何重にも折り重なって自分の長剣を絡め取っているのを見て愕然とした。冷たく、暴力的で、電子ノイズを含んだ衝撃が長剣を伝って彼の腕へと直接流れ込んでくる。
「恒遠、危ない!」
「やつのデータが現実世界に反撃してきているわ!」
伊凝雪が悲鳴を上げるように叫びながら、再び矢を番えた。
闕恒遠は歯をくいしばり、強烈な抵抗にさらされた腕の筋肉が激しく震えるのを耐え抜いた。
彼はすぐ目の前にある赤いコアを見つめた。その核の奥底では、悪意に満ちた一対の目が冷たく彼を見返しているかのようだった。これはただの戦闘ではない、まるで魂の領域における力比べのようだった。
「このフィードバックは……」
闕恒遠の視界は真っ赤な警告ウィンドウで塗りつぶされていく。
「重すぎる……」
闕恒遠の腕は激しく震え、一寸の筋肉に至るまで目に見えない重い鉛が流し込まれているかのようだった。
長剣と赤い触手が交錯する場所でまばゆい電火花が散り、「ジジジ」とコードが引き裂かれる音が鳴り響く。
「恒遠!手を離して!」
伊凝雪が鋭い声を張り上げ、手に持った羽矢を矢継ぎ早に放ち、剣身に巻きついた触手を断ち切ろうと試みた。
だが、矢が触手を貫く瞬間、金属を穿つような甲高い音が響くだけで、相手の締めつける速度をわずかに緩めるのがやっとだった。
「いや……離さない……」
闕恒遠は奥歯を噛み締め、額から流れ落ちた汗が目に染みて痛むのも構わず、瞬き一つすることすら恐れた。
彼には感じ取れた。この怪物が長剣を媒体にして、自分の神経経路へと逆侵食を仕掛けようとしているのを。
「【微光の護盾】!」
千慕羽は魔力枯渇によるめまいを必死に堪え、スタッフの先端に残された最後の魔力を灯した。
薄い白色の光幕が闕恒遠の腕を包み込み、あの凍てつくようなノイズ感をわずかに和らげた。
「清禾、今だわ!」
「やつの下部の凍っているところを攻撃して!」
闕恒遠は赤く染まった警告ウィンドウの中で、残された最後の理智を総動員して叫んだ。
「任せて!」
悦清禾が燕のように身を翻し、空中に美しい弧を描いた。
彼女の瞳は氷漬けになったスライムの下部をしっかりと捉えていた。データの破損により、そこにはコアよりもさらに脆い「コードの亀裂」が露わになっていた。
「砕け散れ!」
二本の短剣が交差し、その亀裂へと猛然と突き刺さる。
ドオッ――!
巨大な貪欲のスライムが絶望的な唸り声を轟かせ、闕恒遠に巻きついていた赤い触手が一瞬にして力を失った。
「消え失せろ!」
闕恒遠はこの千載一遇の好機を逃さず、全身の体重と残された全集中力を剣先へと叩き込み、長剣で狂い狂う赤いデータのコアを完全に貫き通した。
その瞬間、世界が静まり返った。
直後、コアを中心に巨大な青い衝撃波が周囲へと放射状に拡散していった。




