第6話:プロローグⅥ――【一日目:空虚な計算、あるいは戦略的撤退】
本作はフィクションです。作中に登場する個人、団体、事件などはすべて架空のものであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
なお、物語の描写には、一部に生々しい身体の機能低下や精神的苦痛など、残酷な描写(R-15)が含まれます。
あらかじめご了承の上、お読みください。
―― キャプストーン(卒業研究発表)の審査終了後 ――
場所:カヴィテ | バロック大学・メインロビー外
時間:午後1時34分(GMT+8)
大学のメインロビーの境界線を越えた瞬間、手の中にあるプラスチック製のトロフィーの軽さに、
二人は立ち尽くしていた。
安っぽい金色の塗料がすでにエッジから剥がれ落ち、
リンセルの指先を汚していく。
一歩外へ踏み出すと、日中の暴虐的な熱気が物理的な壁となって二人の肉体を叩きつけ、
砂利の敷き詰められた駐車場のまわりの淀んだ空気をドロドロに溶かしていった。
リンセルは手の中の『栄誉』に見向きもしなかった。
彼女はそれを、折りたたんだノート PC の充電器と一緒に、
トートバッグの奥へと容赦なく放り込んだ。
「……勝利するなんて、計算外だったわ」
リンセルが低く呟いた。その声は、
あの冷徹で実用主義的なレジスターへと沈み込んでいく。
「パネルの審査員どもが好んだのは、単なる『従順さ(コンプライアンス)』よ、
リンフィン。あいつらは、実際にこの規模を処理できる構造的ロジック(アーキテクチャ)よりも、ただ時間通りに到着しただけのシステムを選んだのさ」
隣では、クリーム色の大きなぬいぐるみキツネの頭部が、リンフィンの脇の下に抱えられていた。
彼女の本当の顔は、まだ着ぐるみの内部に閉じ込められたままであり、
湿った隙間風に晒されている。
汗が前髪の端を濡らし、見開かれた瞳は、
ハイウェイと空が交差する地平線の一点だけを、死んだように凝視していた。
「……完全に誤算だった。何かが致命的に狂っていたわ」
それは、中身のない空虚な計算。
「分かっていた。私は……」
リンフィンが呟く。
その声には、勝者としての誇りなど一バイトも含まれていなかった。
そこにあるのは、
システムに致命的な脆弱性を発見してしまったシステム監査人のような、
暗く重苦しい重量だけだ。
「私たちの『閉じた回路』
が勝ったのは、
単にそれが大学のカリキュラムという安全なパラメータの範囲内でしか機能していないからよ。
確かに軽くて安定している。けれど、
それはただの天井に過ぎないわ」
彼女は境界のフェンスの傍らで立ち止まった。指先が、
着ぐるみのフリース生地を狂ったように強く締め付け、
ぬいぐるみの皮膚に鋭い引っかき傷のパターンを刻みつけていく。
「エリフのハブは、単に評価を通過しただけじゃない」
リンセルが姉に向き直った。
「どうしてお前はそれほどまでにあの男に執着するの、リンフィン?
あいつのシステム構造はすでにリーク(漏出)を始めている。
外部セクターからやってきたあの審査員たちは、
決して大学の教員なんかじゃない――あれは、
企業のスカウト(スポッター)どもよ。
あいつらは私たちのクリーンなコードなんて見ちゃいない。
エリフのグループが、人間の『認知同期』の架け橋を完全に成功させた瞬間を、あいつらははっきりと目撃したんだ」
リンセルが足を止めた。その怠惰な姿勢がわずかに緊張を帯びて真っ直ぐになり、
彼女の視線が医務室棟の灰色のコンクリートブロックへと戻っていく。
「……おそらく、他の誰もその本質には気づいていないわ。
だけど、私にはもう完全に証明されてしまった」
リンセルは静かに、しかし冷酷なトーンで言った。
「あの RPG サーバーがパブリック公開のテストに向けて稼働したその瞬間……このキャンパスの外にあるドロドロとした『政治』が、一気にゲートを破って押し寄せてくるわよ」
リンフィンは、重いフォーム素材のマスクを強引に頭から被り直した。
非現実的で、子供騙しのキツネの顔がスナップを利かせて定着し、
彼女の表情を再び世界から完全に隔離する。
「本気でやるべきではなかったわ」
着ぐるみのメッシュ状の口元から、
機械的なエコーが響いた。
「後でモールに行くわよ」
リンセルが手の中で車のキーをジャラリと遊ばせながら言った。
「エリフが馬に餌をやったかどうか確認すべきだけど、
あいつはまだ自分の機材のパッキングで手一杯のはずよ」
リンフィンは車のフロントフードに寄りかかり、腕を組んだ。
「お前は本気で、あの男のために毎回そうやって待ち続けるつもり?」
「……毎回よ」
着ぐるみの奥から、リンフィンが視線を逸らしながら呟いた。
「ええ、そうよ」
リンセルが鋭いクリック音とともに車のロックを解除した。
彼女は誰もいない空っぽの駐車場をスキャンし、
後部座席をダブルチェックすると、運転席へと滑り込んだ。ウィンドウは降ろされたままだ。
リンフィンが手を伸ばし、
熱を帯びた車のルーフを4回、
正確にタップした――周囲のクリアを示す、二人の間の無音のサイン。
それから、静かに一歩後ろへと下がった。
「どのみち、トーナメントのイベントが始まるのは夕方遅くになってからよ」
リンフィンが思い出させるように言った。
ルシアがエンジンを始動させると、
機械が低く唸りを上げて覚醒した。
「私は物理チケットを確保するために先に出発するわ。それで、本当にお前のギアルームのために、一万ペソもの現金を確保したの?」
「私はあいつに『貸し』を作っているだけよ」
リンフィンはギアをリバース(後退)に入れながら静かに応じた。
「私はあいつのコードを信頼している。そこらの中身のない人間に、
そんな大金を簡単に渡したりはしないわ」
「勝手にしなさい。私はルシアたちを拾ってから戻るわ」
リンセルが冷淡に手を振って、別れを告げた。
車はスムーズに後退し、そのまま駐車場の外へと滑り去っていく。
リンフィンは、キャンパスのゲート近くで雑談している学生たちの背景に溶け込み、遠ざかっていくテールランプの紅い光をただ見つめていた。
着ぐるみの内部で、彼女は腕時計のグリッドを確認する。
計算上、エリフはすでに馬小屋の座標に到達しているはずだった。
彼女は踵を返し、指定された繋ぎ場へと向かって歩き始めた。
リンフィンがパドックに辿り着いたとき、そこにはすでに先客がいた。
その人影は、エリフの馬――ブローネに向かって、一掴みの干し草を差し出していた。
身長は1メートル65センチ(5フィート4インチ)ほど。
骨のように真っ直ぐな、長い黒髪が両肩の上に無造作に流れ落ちている。
その性別を識別することは、視覚的には不可能だった。
顔立ちは驚くほど鮮烈でありながら、同時に完全な『中性』を維持している。
肌はフィリピンの太陽に焼かれた健康的な褐色でありながら、
同時に周囲の注意を強制的に惹きつける、
不気味なほどに青白いオーラ(淡い光)を放っていた。
「君が彼のライバルだね」
静寂を破って、その人影が言った。
「彼がいつも口にしている、あの」
「ライバルかどうかは不確実よ」
リンフィンは、着ぐるみの内部から、穏やかでメロディックな声で答えた。
「私たちはただの、共通ノード(同級生)よ」
『それ』はゆっくりと身体を回転させ、リンフィンの視線を受け止めた。
その個体のオリーブ色の瞳にはいかなる感情も記述されておらず、
リンフィンの演算能力を完全に占有していった。
「ごめん、まだちゃんと自己紹介をしていなかったね。僕はエンリ。
同じクラスだろう、覚えているかい? 僕もエリフの開発グループのメンバーなんだ」
リンフィンが応答のコードを返す前に、
砂利を激しく踏み荒らす重い足音が響いた。
エリフが近づいてくる。
その両手はわずかに震えており、
背負ったバックパックの重いストラップを必死に調整していた。
彼の髪はひどく乱れており、
二人の姿を視界にロックした瞬間、
その顔に明確な動揺の変数が走った。
「すまない……デフェンス(審査会)に遅れた」
エリフは荒い息を吐き出し、
身体を支えるために木製のフェンスの柱に力なく寄りかかった。
「お前たちと一緒に、
プロジェクトのライブコンパイルをプレゼンするための審査員テーブルに辿り着けなかったんだ」
エンリは静かで、
安心させるような笑みを浮かべ、
自身のフルサイズへの直立とともに両手の埃を優しく払い落とした。
「いいよ、気にしてないさ」
エンリはエリフとリンフィンの間を見つめながら言った。
「君はプレゼンテーションの場にはいなかった。
けれど、
君が提供した基礎研究のおかげで、僕たちのグループはこのバッチの中で最高スコア(最高研究基盤賞)を獲得できたんだから」
「――それから、おめでとう、リンフィン。君と、リンセルにもね」
エンリはフェンスの上に置いてあった軽量のキャンバスバッグを持ち上げた。
「僕はもう行かなくちゃ。外で人が待っているんだ」
「ああ、そうか」
エリフは息を整えながら言った。
「二人は、学内のクリアランス(卒業要件の書類)を回収しに行くのか?」
「……ええ、そうよ」
エンリは短く、優雅に手を振ると、そのまま小道を歩き去っていった。
その存在感は、急速に伸びていく午後の影のなかに溶け込み、消失していく。
リンフィンはその不自然な退場を長い間見つめ続けた後、ようやく、その瞳をエリフの方へと戻した。




