第5話:プロローグⅤ――【一日目:シンギュラリティ・ハブ(特異点の中枢)】
本作はフィクションです。作中に登場する個人、団体、事件などはすべて架空のものであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
なお、物語の描写には、一部に生々しい身体の機能低下や精神的苦痛など、残酷な描写(R-15)が含まれます。
あらかじめご了承の上、お読みください。
――エリの視点(Eli Perspective)
消毒用アルコールの匂いが、あまりにも鋭く鼻腔を刺す。
その化学的な刺激は、俺の喉の奥を容赦なく掻きむしった。目は開いている。だが、意識のネットワークは未だ深い眠りの底に沈んだままだ。
リンフィン、そしてリンセル。エル・カイバンの姉妹。
あいつらは、大学の一年目の時点で既に俺をターゲットに定めていた。
俺自身すら知らない「俺の中の何か」を、彼女たちは正確に嗅ぎ取っていたのだ。頭が割れるように痛む。
しかし同時に、思考の深層で全く別の何かが急速に組み変わっていくのを感じる。
論理がこれほど圧倒的な速度で脳内に降ってくるなら、
これ以上あがく必要などどこにある?医務室の空気は冷たく、
張り詰めていた。肺がゆっくりと弛緩し、酸素を取り込む。
だが、あの抽象的な『何か』――あの異質な存在の残滓が、依然として俺の精神にこびりついて離れない。意識の指先でそれに触れようと試みる。
その瞬間、硬質なコンクリートの壁を殴りつけたような激しい衝撃が俺を襲った。
そこに、何かが隠されている。それが何なのか、俺は突き止めなければならない。
唐突に、高校の卒業式の記憶が脳裏にフラッシュバックした。
――回想――
「エリフ! なんで2年半もの猶予を選んだのよ?! あなたなら、そのままストレートで突き進むことだってできたはずでしょう!」
「……拒絶することはできないんだ。この『1年』は、俺にとってあまりにも重い。
仮に飛び級したとしても、
下にいる弟妹たちを養うための資金が今の俺にはない。
この2年半という空白こそが、完全に自立するための精神的、肉体的、
社会的、そして精神的な強度を俺に与えてくれる」
「ふーん? でも忘れないで。あなたはまだ、私に莫大な『借り』があるってことを。私は何も聞かずに、あなたに手を貸してあげた。私が許可するまで、余計な口は開かないことね」
「本気で言ってるのか? リンフィン」
「……ええ。私は待つわ。どうせ私の妹は学校になんて大して興味がないもの。私たちは、私たちのルールで動く」
彼女はアカシアの木に背を預けたまま、俺に視線すら向けなかった。
その制服には、一切の汚れも、皺一つすら存在しない。
彼女は俺の必死の抗いを、ただ修正されるのを待っているスプレッドシートの「記述エラー」と何ら変わりないものとして処理していた。
「ところで、エリ。すべてが終わったら――『私の言った通りに動いてもらうわよ。それで貸し借りなし』」
「……?」
――回想終了――
脳裏に蘇ったのは、単なる過去の記憶だけではなかった。奇妙で抽象的な概念の断片が、俺の意識の海に浮かんでいた。
それに触れた瞬間、死んでいたはずの肉体に再び完璧な駆動シグナルが走る。奇跡だった。
俺の理解を遥かに超えた現象。確かにそれを手の中に掴んだ感覚があった。
だが、次の瞬間、それは内部から激しく発火し、煙のように一瞬で霧散した。
俺の頭の中から、跡形もなく枯れ果てて消え去っていく。
容赦のない朝の光が視界に飛び込み、網膜を激しく腫れ上がらせた。
医務室の天井に敷き詰められた、シミだらけの吸音タイルが冷酷に焦点を結ぶ。
頭上の壁掛け扇風機が、リズムを崩した不快な低音でうなりを上げていた。直後、胸が狂おしいほどに締め付けられる。
まるで10トントラックが、俺の肋骨の上に直接タイヤを乗り上げて停車したかのような、
圧倒的な圧迫感。
簡易ベッドのすぐ脇、プラスチック製の丸椅子に、
クラスメイトであり共同プロジェクトの仲間でもあるヤンセンが座っていた。
彼は落ち着かない様子で、ノートPCの筐体を指先で神経質に叩いている。
「気がついたか。動くな――頼むからそのまま寝ていてくれ、エリ」
ヤンセンが硬い声で言った。
「大学の看護師が言ってたぞ。
お前の心拍数、過負荷テストで熱暴走を起こしかけてるCPUそっくりだったってな」
心拍数などどうでもいい。
彼のノートPCの画面を見つめる俺の口内は、乾いた砂のように干からびていた。
「……評価は? 俺が倒れた後、一体どうなった?」
ヤンセンは、重く、行き場のないため息を漏らした。
彼は自分の髪を乱暴にかきむしると、
開いていたノートPCの画面を半分ほど叩きつけるように閉じた。
「公式の最優秀賞は逃した。審査員団は『最優秀実装プロジェクト賞』を、そのままエル・カイバンの姉妹に与えたよ。理由は簡単だ。
タイマーが午前8時ちょうどを指した瞬間、ライブコンパイルのプレゼンを行うためのステージに、お前が立っていなかったからだ。
完全な『勤怠不良』扱いさ。
学科長はそれを『展開プロセスの未完了による乖離』なんて呼びやがった。
スケジュールを守れなかった言い訳にするための、官僚的な学術ゴミ理論だ」彼は言葉を切り、簡易ベッドの俺の顔へと身を乗り出してきた。
その視線が、医務室の曇りガラスのドアの向こうを不安げに泳ぐ。
「だがな……技術審査員たちはどうだったと思う? 実際の産業界から派遣されてきたパネルの連中は、お前の提出したドキュメントを読んだ後、リンフィンのプレゼンには目もくれなかった。完全に無視したんだ」ヤンセンはマシンの画面を再び開き、そのターミナルを俺の方へと方向転換させた。「連中、俺たちの設計を『シンギュラリティ・ハブ(特異点の中枢)』って呼んでた。
完全に理性を失って驚愕してたぞ、エリ。ただの学部生が、localized(局所的)なユーザーのバイオメトリクスを生体認証データとして、1バイトのデータリークすら発生させずに、仮想現実のパーティションへリアルタイムに同期させるマルチスレッドのデータベースを構築したんだ。
連中にはそのロジックが理解できなかったのさ」彼は俺を見つめた。その表情は、圧倒的な驚嘆と、生々しい恐怖が奇妙に混ざり合っていた。「俺たちは、人間の意識を『外部I/Oデバイス』として処理するシステムを作っちまったんだ。サーバーが1パケットもドロップすることなく、プレイヤーにゲームのRPGエンジンと、現実の部屋の物理データを、リアルタイムで同時に処理させるバックエンド。お前は文字通りそれを書き上げた。
連中は気休めとして俺たちに『最優秀研究基盤賞』を寄こした。だがな、企業のスカウトどもの様子がおかしかった。
あれは完全に、兵器について囁き合う目だったぞ、エリ。
審査員たちは気づいてる。
これは単なるファンタジーゲームの枠に収まる代物じゃない。
完全な、オープンアーキテクチャ(開放型基盤)だ」
プロローグを最後までお読みいただき、ありがとうございます。
あと5話以上のプロローグが控えています。
その後、いよいよ異世界への転移、そして隠された事件を追う探偵パートが幕を開けます。
次の更新でお会いしましょう。




