第4話:プロローグⅣ――【一日目:生存の境界線(ボーダーライン)】
本作はフィクションです。作中に登場する個人、団体、事件などはすべて架空のものであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
なお、物語の描写には、一部に生々しい身体の機能低下や精神的苦痛など、残酷な描写(R-15)が含まれます。
あらかじめご了承の上、お読みください。
―― エリフの視点 ――
世界は、壊れかけた心臓のために減速などしてくれない。
―― ドサリ。
重力が、その残酷な徴税権を行使した。
俺の両膝が、バロック大学の裏手、境界を示すフェンスの外側にある砂利へと崩れ落ちる。
鈍く、湿った音が地面に吸い込まれていく。
隣では、ブローネがゆっくりとした規則的な質量を持って動いていた。蹄がバラバラの小石を削り、彼女は自らの意思で、亜鉛の低い屋根が架かった水飲み場へと向かっていく。
彼女は決して振り返らない。
物理法則が許す限界の距離まで、その貨物(俺)を運び終えたからだ。
残された課題は、この衣服の内部に潜む『存在』の領域。
「見て」
「あれ、彼じゃない?」
「どうして、まだ……」
囁き。
それはカヴィテの急速に上昇していく湿度のなかに漂う、摩擦に満ちた薄いノイズだった。
正門の方から流れてくる、実体のない声。
その言葉には俺の皮膚を貫通するほどの重量はなかったが、呼吸と呼吸の間のわずかな空間を不快に埋め尽くしていく。
左の靴が、古い木製フェンスの最下部にあるワイヤーに絡まっていた。
ざらついたコードが、生地を噛み破って皮膚へと食い込んでいる。
引き抜こうとする。
命令が脳を出発し、脊髄を下り、そして腰のあたりで唐突に死に絶えた。
セグメンテーションフォルト。
神経が、骨との座標調整を完全に放棄している。
視線を落とす。
糊の効いたスラックスの生地に、暗く湿った染みが急速に拡大していた。
道中で触れたデッド・ロードの灰色のオイルと、
赤黒い真珠が混ざり合った、ギザギザの紅いライン。
背の高い雑草のなかで、鋭い枝が伸ばしてきた腕にも、
それと全く同じ錆びた色彩の傷跡が刻まれている。
「ただの……小さな出血だ……」
サイドゲートの警備員が、
その黒いホルスターに手をかけながら一歩前へと進み出た。
彼の見開かれた瞳は、俺の足首のまわりに広がる赤のプールに釘付けになっている。
彼は医療的な緊急事態を見ている。
今すぐ救急車に乗せるべき少年の姿を見ている。
だが、彼は気づいていない。その奥にある冷徹な『計算』には。
「リンセルとリンフィンに……あの報酬を渡すわけにはいかない。今日だけは、絶対に」
時計の針が午前8時を指した瞬間、
コンペティションの登録レジストリは完全にクローズされる。
彼女たちのロジック仕様書は、すでに学校のローカルネットワーク内にロックされていた。彼女たちは、
自分たちがその空間を完全に最適化したと思い込んでいる。
自分たちの設計には、
もはや対抗勢力など残されていないと。
一歩。
俺はワイヤーの隙間から、左の踵を強引に引きずり出した。
学生 ID の金属リングが、胸元でカチリと音を立てる――鋭く、冷たいリズム。
二歩。鉄のゲートが、俺の肩を通り過ぎて後方へと消えていく。
学生たちの群れは、クリーム色の制服と、せわしなく動く無数の足が作り出す巨大な境界線のようだった。
彼らにとって、これから始まるアプリ展示会は単なるアカデミックなマイルストーンに過ぎない。
名誉をかけたトーナメント。
だが、俺にとってそれは、生存のための境界線そのものだった。
息を吸う。
息を吐く。
俺は歩く。手のひらの皮膚はすでに灰色に変色し、指先は氷のように冷たく、鉛のように重い。
足が東棟のタイルを叩くが、その衝撃が脳に届くことはない。神経が、物理的な距離の報告を停止してしまっている。
そこには、いかなる『痛み』も記述されていなかった。
それなのに――どうしてこれほどまでに、痛むのだろうか。
――――
リノリウムの床を擦る、木製の椅子の脚の音。怒鳴り声。室内の空気が、一斉にパニックの色を帯びて歪んだ。
「警備員を呼べ! 頭には触るな!」
無数の手が俺の制服の生地を掴み、鉛のように重い両肩を引き上げた。
瞼の裏側に広がる世界は、重苦しい灰色のシミのままだった。
「エリフをトリアージ室へ運ぶんだ」ノイズを切り裂いて響いた教授の声は、ひどく平坦で、疲れ切っていた。「彼のプロジェクト評価は最後の枠へと移動させる。
彼はいつもこうだ。野心的な夢ばかりを見るが、その代償に健康を擦り減らしている」廊下へと遠ざかっていく足音。
俺の踵が、床板の上を引きずられていく。
誰も救急車を呼ばなかった。
この場所において、肉体の崩壊など単なる事務的な遅延に過ぎないのだ。学校の医務室は、イソプロピルアルコールの臭いと、淀んだ朝の熱気に満ちていた。
簡易ベッドの上で、その肉体は完全に静止している。それなのに、胸だけは動いていた。吸って。吐いて。
機械的で、計算され尽くしたケイデンス。意識を失ってなお、
その肺は『計算』を忘れることすら恐れていた。
気絶した人間のものとしては、あまりにも不自然なリズム。
二人の学生がドアの傍らに立ち、廊下の窓へと視線を固定させている。
「おい……さっきの彼女、見たか?」「誰のことだ?」
「リンフィンだよ。あいつを掴んだとき……あの着ぐるみ越しだっていうのに、握力が異常だった。外壁には安全ロープなんてなかったんだぞ。一歩間違えれば、下のコンクリートに叩きつけられて死んでたはずだ」「ああ。不気味だな」教室の内部には、冷徹な空気が居座り続けていた。リンセルはドアの方を見ようともしなかった。彼女の指先は自分の作業の上で静止したままだったが、その瞳は、エリフが机の上に残していった設計図に釘付けになっていた。
その隣では、リンフィンがオーバーサイズのクリーム色をしたキツネの着ぐるみに身を包んだまま座っていた。ぬいぐるみのフードから覗く彼女の無表情な顔は、
周囲の囁き声から完全に隔絶されている。
「どうして君たち二人は、そこまで彼と競い合おうとするんだ?」教壇の脇に立った教授が、その姉妹を見下ろした。「一年生の時からずっと、まともに立つこともできない少年と角を突き合わせているじゃないか」リンフィンは首を動かさなかった。
死んだようなその眼差しは、窓ガラスの向こうに広がる青い空へと固定されている。
「……彼は明確です」
彼女の声は、若さの欠片もない一本の平坦なラインだった。
「彼は私たちにとっての『関心』を保持している。
たとえその肉体が崩壊しつつあろうとも、彼は今何が起きているのかを視認する能力を持っているわ」彼女が立ち上がると、静まり返った室内に着ぐるみの重い生地が擦れ合う音が響いた。
「教授、あなたはこの大学が本当に素晴らしい場所だとでも思っているの? あの評価が彼にとって重要だと?」
室内が静寂に包まれた。
「いいえ」と、リンフィンは周囲の学生たちを見つめながら、完全に虚ろな瞳で呟いた。
「彼は学位なんて気にしていない。彼はただ、生存しなければならないのよ」
リンセルが自身のディスプレイを閉じた。
プラスチックの鋭い破裂音が、
壁に反射して響き渡る。
彼女は振り返ることもなく、
同級生たちに向けて冷淡に手を振って見せた。
「勝者だろうと、敗者だろうと。私は自分が手に入れたすべてを受け入れるわ」リンセルの声が、静かで冷徹なレジスターへと沈み込んでいく。
「私自身のタイマーが、ゼロになる前にね」
朝の熱気が、すでにガラス窓を透過して部屋へと染み込んできていた。
息が詰まるような、重苦しさ。
展示室の内部には、安物のインスタントコーヒーと、ヒートシンクのサーマルペースト、そしてオゾンの臭いが混ざり合って漂っている。
視界の周辺部では、学生たちがせわしなく動いていた。
メカニカルキーボードの、鋭いクリック音。
次々と起動していくモニターの光。締め切り(デッドライン)が牙を剥いて迫ってくる、あの生々しく、乱雑なノイズ。
「やれやれ、相変わらず大真面目だな、リンフィン」
キャットがデスクの端に寄りかかり、
手にした紙コップをわずかにカタカタと震わせた。
オーバーサイズのクリーム色をしたキツネのぬいぐるみコスチューム――その着ぐるみの内部で、
少女は視線を上げようともしなかった。
プラスチックの丸椅子の上で彼女が姿勢を変えるたび、
分厚いフォーム素材の巨大な頭部が、非現実的で微細なバウンドを伴って揺れる。
子供向けの柔らかいフリース生地の内部に、冷徹で屈強な精神が閉じ込められていた。
「私たちの実行(エグゼキュ―ション)のフレーバーは異なるかもしれないわ、キャット。けれど、その底流にあるロジックが求めている絶対的なパラメータは同じよ」
着ぐるみのメッシュ状の口元から、リンフィンの声がこぼれ落ちた。平坦。そして、機械的。彼女の瞳は、左側に置かれた端末の画面へと固定されたままだ。そこに映っているのは、エリフが昨日残していったコードの残骸。
そう。
私たちの『インタレスト(関心)』は、全く同じ座標に位置している。*だが、あの男――エリフは異常値よ。危険で、最適化されていない変数。彼は私にすら完全には計算しきれない、恐るべき構造的ロジック(アーキテクチャ)を構築する能力を持っている。
*彼女は着ぐるみの plush な肉球の手元を微調整しながら、冷徹に画面を見つめ直した。
「このコスチュームは、単なる展開戦略に過ぎないわ。
ターゲット層のマーケティングにおいて、最適な視認性を確保するためのね」
計算され尽くした回答。
彼女なりの、事実の記述。
「そう……なぜエリフとあなたのグループだけがここを専有しているのですか?」キャットは空の机を見回しながら尋ねた。
入り口に影が落ちた。白く、きりっとした服を着たヨハン教授が、蛍光灯の下で部屋に入ってきた。彼はエリフが座るはずだった空の机を見て、廊下のクリニックの方に目をやった。
「私が構造的な位置を指定しました。変数を分離するためです」
と彼は言った。
「二つのグループの間には奇妙な緊張感がある。同じ学科ではないはずなのに」
とキャットは観察した。
「共通のノードがあります」とリンフィンはマスクの中で答えた。
「オカルトクラブです。私たちは大学が終わるのを待っているだけです。これも私が退屈しないためです……ある資産が届くのを待っています」
「オカルトクラブ? エリフとあなたが? では、あなたのプロジェクトは……ファンタジーゲームですか?」
とキャットは尋ねた。
「不確実。おそらく。論理と超自然は同じ根本的な構造を共有しています」
鋭いあくびが臨床的な静寂を破った。
リンフィンの隣でリンセルが目覚め、眠そうに目をこすり、部屋の緊張感に関係なく伸びをした。
「エリフのグループは多すぎます」とリンセルは実用的な声で言った。
「3、4人は多すぎる。データが多すぎる。意見が多すぎる」
「私たちは2人で十分。クローズド・ループは軽くて多才です。にゃ」
彼女たちの隣のプラスチックの椅子は空のままだ。
エリフのチームは遅れている。
彼の病んだ体に引きずられているが、
彼の存在は部屋に呪いのように残っている。ヨハン教授はドアの方へ歩いた。
「他の部署を確認する。コンパイルされたビルドをテストできるようにしておきなさい、リンフィン」リンフィンが頷いた。キツネの頭が動いた。
教授は去り、彼の重い足音が廊下に響いた。
ドアの近くの1年生が時計を見た。
「最初の授業に行きます。ここにいるのですか、キャット先輩?」
「私はここにいる」
キャットは端末を見つめた。
「興味があるんだ」
ドアが閉まると、リンセルが眠そうに手を振った。
「好奇心旺盛。1年生に違いない」リンフィンはエリフのマシンを見つめ続けた。彼の画面のデータは、重いロジックハブの迷路で、恐ろしく密だった。
単一のデータベースが世界を飲み込もうとしている。
それは彼女の完璧なシステムとは逆のものだ。
展示会は始まっていないが、二つの構造はすでにつながっている。
「好奇心旺盛(Curiosity killed the cat)」とリンフィンは日本語で空の画面に向かってささやいた。
プロローグを最後までお読みいただき、ありがとうございます。
そして、第3話の作中に一部読みづらい、お見苦しい文章の乱れ(センテンスの不具合)がありましたことを深くお詫び申し上げます。
私は現在、日本語での表現方法や文章のクオリティをより高めるために日々猛勉強と練習を重ねております。お読みいただいた皆様にはご不便をおかけいたしました。
壊れかけた肉体と、世界のシステム。作者コンピューターヒューマンゼロが描くこの物語を、これからも楽しんでいただければ幸いです。
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次の更新でお会いしましょう。




