第2話:プロローグⅡ――【一日目:跛行の出立】
本作はフィクションです。作中に登場する個人、団体、事件などはすべて架空のものであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。なお、物語の描写には、一部に生々しい身体の機能低下や精神的苦痛など、残酷な描写(R-15)が含まれます。
あらかじめご了承の上、お読みください。
シーン:デッド・ロード(死の轍)
場所:自宅の外 | フィリピン・カヴィテ州
時間:午前4時15分(GMT+8)
そもそも、この家はまともに立っていること自体が間違いなのだ。それが最初の真実だった。
なんの工夫もなく積み上げられた中空コンクリートブロック。日中の暴虐的な熱を容赦なく吸い込み、夜になってもそれを決して手放そうとしない、最悪の構造物。
すべての窓とドアに溶接された鉄格子の防犯用グリルは、セキュリティのためというよりも、この世界の悪意に対する「敗北の証明」としてそこに存在していた。
これが、俺たちに支払える限界の対価。これが、俺たちが生き延びるための箱。
この歪な構造物は、昨日の熱をまるで「握りしめた拳が内に秘める怒り」のように溜め込んでいた。下手くそに、しかし明確な殺意を持って、住人の肉体を痛めつけるために。
家の中では、静寂そのものが質量を持っていた。
それは、自分の心臓の鼓動を嫌というほど意識させるタイプの静けさだった。一拍ごとに家賃を支払い、一呼吸ごとに光熱費の請求書を突きつけられているかのような錯覚。
家そのものが呼吸を止め、中にいる生き物がようやく消え去るのを待っているようだった。そうすれば、カヴィテの無秩序なスプロール現象のなかに、ただの影の箱として崩壊し、戻ることができるからだ。
俺はドアの前に立ち尽くした。
言葉に上らない、脳内での持ち物インベントリのチェックが始まる。ノート PC、よし。スマホ、よし。充電器。折りたたみ傘。
そして、財布の中のくしゃくしゃになった紙幣。
朝の割り当てから残された、わずか五千ペソ。
持ち物のすべてが俺の肉体にのしかかる物理的な重量であり、その重量の一つ一つが、物理法則との、そして衰えゆく自身の身体との命がけの交渉だった。夜が訪れるまでに残されたタイムリミットとの、終わりのない引き換え。
内と外を隔てる境界線は、ドアフレームに引っかかった一本の埃の線に過ぎない。
俺はここを去る。世界はあの扉の向こうに広がっている。そこから生きて戻れるかどうかは、まだどこにも記述されていない。
その思考にドラマティカルな感傷はなかった。ただの冷徹な計算だ。
ゲートの向こうには、「デッド・ロード」が横たわっていた。
外の世界は、まだ「朝」と呼べる代物ではなかった。
それは完全な真空だった。夜明け前の数分間にだけ存在する、熱が古い打撲傷のようなインディゴブルーの色彩以外をすべて失う、あの忌々しい時間帯。
空気は湿ったコンクリートの味がした。そして、十二時間前には確かに生きていた「何か」の、死に絶えた呼吸の臭いが混ざり合っている。
鳥ではない。獣でもない。ただ、死者を迅速に埋葬することを忘れてしまった、この住宅街全体に漂う普遍的な「死の残香」だ。
俺は出発のためのルーティン、その儀式を執り行った。
ノート PC をバッグへ。スマホをポケットへ。
蛇のようにとぐろを巻いた充電器を押し込む。
後から襲いかかってくるであろう、狂ったような湿度のための傘。そして五千ペソ――その紙幣はあまりにも薄く、指先で触れているだけで、すでに使う前から目減りしていくかのような錯覚を覚えた。
バッグのジッパーを引き上げる音が、この静寂のなかでひどく卑猥に響いた。生地の隙間に挟まった、狂人の悲鳴のような鋭さで。
その馬小屋は、あらゆる妥協を拒絶する記念碑のように佇んでいた。
粗野で、剥き出しの(ブルータリズム)。
一度も塗装されず、一度も手入れを施されたことのない、荒々しいセメントの壁。
古傷が痛みを閉じ込めるように湿度を閉じ込める、頑強で容赦のない亜鉛の屋根。
合板とブリキで作られた、自らの「一時性」を最初から諦めている周囲の家々のなかで、このコンクリートの建造物だけが、自らの死を認めることを拒んでいた。
この吹き溜まりのような場所で、唯一、漂流することを拒絶している存在。
一歩足を踏み入れると、内部の暗闇は、あの家がこれまでに提供してくれたどんな温もりよりも温かかった。
最初に届いたのは、その臭いだ。乾燥した干し草に、もっと古い、何か「呼吸する生き物」の匂いが混ざり合ったもの。
クスリや冷徹な計算に頼ることなく、自らの体温を正しく維持する方法を知っている肉体――生き物がそこに休んでいることを示す、確かな熱量。
ブローネ。
その馬は、最初はただのシルエットだった。薄暗がりのなかに佇む、強固な筋肉の塊という概念そのもの。
この界隈のどの人間よりも圧倒的な威厳を持って、その空間を占有している輪郭。
彼女は自らの質量を、自らの重力を完全に理解している重みを持って立っていた。俺が近づいても、彼女は頭を動かそうとはしなかった。
その必要がないからだ。
彼女の呼吸は遅かった。
構造プレートが擦れ合うかのような(テクトニック)、重厚なリズム。
それは家よりも、道路よりも、もっと古い時代に属する周期だった。
俺の冷え切った朝の中心にそびえ立つ、熱の柱。目で見ずとも、自分のテリトリーに別の不完全な熱量が侵入してきたことを本能で察知している、巨大な温き肉体。
俺は彼女の飼い葉桶を確認するために、そっと手を伸ばした。
俺の両腕は、機械のような鈍さで動いた。肩からぶら下がった、冷却されつつある鉛の塊。
水を補充する行為は、ただの「意志の行使」だった。穀物を配置する動作は、機能不全を起こしつつある自身の両手との、必死の交渉。
一つ一つの動きが意図的で、臨床的だった。錆びつき始めたシステムにアプローチする、うだつの上がらない技術者のように。
そして、ここからが「登山」だ。
普通の人間にとって、馬に跨るという行為は本能的なものだろう。体重の移動、推進力、自身の肉体の幾何学的な構造を脳が理解している。
筋肉メモリーによって一瞬で解決される、単純な物理学の課題。
だが、俺にとってそれは、命令を聞くことを放棄した神経回路との、果てしない対話だった。
鞍のホーンを握り締めた俺の指先は、まるで錆びついた鉄のようにロックされて動かない。
右足が、どうしてもその高さを超えてくれない――俺のハードウェアに発生したセグメンテーションフォルト。脳と身体を繋ぐシグナルの完全な途絶。
地面と馬の背の間に宙吊りにされたまま、どちらの世界にも属せない俺を乗せて、世界がぐにゃりと30度傾いた。
だが、ブローネはパニックを起こさなかった。
彼女はわずかに体重を後ろに引き、身体を傾けることで、俺に足りないレバレッジ(テコの原理)を与えてくれたのだ。彼女の肉体が、崩壊しつつある俺の身体のための「緩やかなスロープ」へと変形していく。
馬という生き物が理解し得るあらゆる方法で、彼女は俺のハードウェアが限界を迎えていることを察していた。俺の内部にある生命維持装置が、目盛り単位で死に向かっているということを。
俺は肺が焼き切れるような、そして視界が狭窄していくような力を振り絞って、自身の身体を強引に引き上げた。一拍の鼓動ごとに、生き続けることは与えられたギフトなどではなく、数秒ごとに繰り返さなければならない「能動的な選択」なのだと狂った心臓が教えてくる。
上がった。俺たちは、進む。
デッド・ロードは、眠りについた民家の間を縫うように走る、アスファルトの細い静脈だった。
それは本来、存在することを意図されていない道路だった。主要道路を結ぶただの近道として、都市計画の誰かが「意思」よりも「利便性」を優先した結果、無理やり舗装されただけの場所。
両側には、俺たちの家を鏡で映したような立方体の住宅群が並んでいる。鉄格子、コンクリート、自分たちを拒絶していることが明らかな世界から、必死に身を鍵でロックして隠している人間たちの物理的な具現化。
しかし、ゲートを出た瞬間、空気の質が変わった。
朝の匂いではなかった。濡れた土の匂いでも、後からやってくる湿度の気配でもない。
それは鍛冶屋の炉の臭いだった――分厚く、メタリックで、鋭利な。鉄の臭いだ。
喉の奥が強制的に閉じ、意識的な思考よりも深いレベルで「何かが致命的に狂っている」という事実を察知して、胃袋が裏返るような、そんな悍ましい感覚。
ブローネの歩進のリズムの隙間で、俺の視界の端が「動き」を捉えた。
羽毛だ。
それらはまるで、ぶちまけられたインクのように、灰色の路面に撒き散らされていた。
黒い羽、茶色の羽、二度と空を飛ばないであろう翼の、白い裏側。かつて大気を切り裂いていたはずの形状が、いまは完全に静止し、偶発的な事故ではなく「明確な意図」を感じさせる悍ましいパターンで配置されている。
その中央には、近所の誰かが飼っていたであろう鶏の、無惨に食い荒らされた残骸が転がっていた。
その命は、かつて鮮烈な赤色をしていたはずだ。いまはただ、濡れている。
そして、また別の形状。さらに多くの、不自然な塊。散らばっているのではない――配置されているのだ。
何十羽もの鳥たちが、まるで飛行中に心臓を同時に止められ、物理法則に従ってそのまま地面に叩きつけられたかのように、等間隔で落ちている。
俺は目を背けたかった。
だが、俺の瞳はその命令に従わなかった。
それらはすでに「怠惰な(レイジー)」肉体の一部であり、俺の意識的な意図の遥か後ろをダラダラとついて回り、俺が見たくもないものを勝手に網膜に焼き付けていく。
喉の奥から、冷たい吐き気がせり上がってきた。あの薬の苦いアルカリ性の味に、脳の最も古い領域が記憶している「死の匂い」が混ざり合う。
ブローネの耳が、警戒のために後ろへピンと伏せられた。
彼女は速度を落とさなかった。ただ、別のルートを選択しただけだ。電柱が落とす不気味な影を避けるように、大きくカーブを描く「もう一つの」回り道を。
彼女の蹄の音には突如として焦燥感が宿り、アスファルトを叩くクリック音は、もはや穏やかなリズムを失っていた。
俺は見上げた。
電柱はまるで、古代のモノリス(巨石記念碑)のように、暗がりのなかにそびえ立っていた。人類の傲慢な文明が残した、忌まわしい遺物。
家々が求めもしない電気を運ぶための、コンクリートの柱と張り巡らされたワイヤー。
その頂点、夜明け前の陰鬱な薄闇のなかにシルエットとして浮かび上がる「それ」が、確かにそこにへばりついていた。
鳥ではなかった。
それは、ジタバタとした、完全に不自然な速度で動いていた――自身の神経回路との座標調整をまだ終えていない生き物だけが持つ、あの特異な痙攣。
何かに覆いかぶさり、貪り食っている。
その貪り食われている対象には、ついさっきまで、確かな心臓の鼓動があったはずだ。
「なっ――」
言葉が形を成す前に、喉の中で死に絶えた。音が、大気に乗ることを拒絶したのだ。
だが、なぜ俺はこの世界の狂気を恐れている? 俺の肉体そのものが、すでにシステムエラーの戦場だというのに。
俺は自身の「存在」そのものに苦しめられている男だ。
それ以外の何かを恐れるような、そんな贅沢なリソースは、俺のシステムには一バイトも残されていなかった。
俺たちは住宅街のグリッド(境界線)の端へと到達した。
ハイウェイの電柱が、景観を強制的に分断する権利を主張するように、傲慢なモニュメントとして目の前に立ちはだかる。
ブローネは、繰り返された反復学習の精度を持って、それらを正確に回避していった。
彼女の蹄は、舗装路に対して不規則なコードを叩きつけていた――それはリズムではなく、明確な警告。
彼女は、俺が見たこともないショートカット(近道)を選択していた。
背の高い雑草と、忘れ去られた空き地を突き抜けるルート。カヴィテの無秩序な開発の隙間に残された、自然がまだ人類の「意思」に屈服することを拒んでいる、空白の領域。
ここの世界は、まるで人間の意図が届かない時間軸で動いているかのように、ひどく古びて感じられた。
突如として、朝の質量が俺の後頭部へと叩きつけられた。
あの「微振動」が戻ってきたのだ。
今度は俺の神経の中ではない。空気そのものが震えている。俺の身体の外部のどこかから発生しているハミング。だが、その正確なソース(音源)を特定することはできなかった。
それは俺の目の奥を、耳の奥を、本来なら思考が存在すべきだったすべての空間を、暴力的なノイズで満たしていった。
俺は鞍の前輪を必死に掴んだ。
指の関節が、血の気を失って白くなる。サドルへのグリップだけが、崩壊しつつある俺の身体と、激しく回転を始めた世界をつなぎ止める、唯一のアンカー(錨)だった。
身体を直立に保つことができない。重力が、その契約条件を一方的に再交渉し始めている。
世界が30度傾き、45度傾き、俺が名前を知っているすべての角度の限界を超えて、無限へと滑り落ちていく。
「ブローネ……お前、自分がどこに向かっているか、分かっているのか……?」
俺の声は、もはや音としての体を成していなかった。答えることのない馬に対して投げかけられた、幽霊の取り留めのない質問。
俺は前方に、力なく崩れ落ちた。
俺の顔は、彼女のたてがみの中に深く埋もれた――湿っていて、ゴワゴワとしていて、圧倒的に温かい。彼女の蹄の響きが、俺の脳内を行進する巨大な軍隊の足音へと変わっていく。
馬の匂いは、俺が一度も訪れたことのない、太陽の光が降り注ぐ広大な平原の匂いへと変貌していった。意識と深い睡眠の、そのほんの僅かな隙間にだけ存在する、幻の領域。
俺は落ちなかった。
ただ、覚醒していることを、俺のシステムが停止しただけだった。
最後に残った感覚は、その獣の規則的な揺れだけだった――着実に、急ぐことなく、俺の壊れた肉体を運んでいく。星よりも遠くにあるように感じられる学校へ向かって。世界がすでに狂ってしまっている中で、何が可能であるかという、俺の貧弱な構造論理をすべて根底から書き換えてしまうであろう、あの最悪の一日へ向かって。
プロローグを最後までお読みいただき、ありがとうございます。
本作は私が英語で執筆したオリジナルの物語ですが、現在は日本語を勉強中(練習中)のため、AIの力を借りて英語から日本語へと翻訳・表現の最適化(間接利用)を行って制作しています。壊れかけた肉体と、世界のシステム。
作者コンピューターヒューマンゼロが描くこの物語を、楽しんでいただければ幸いです。もし気に入っていただけましたら、画面下部より【ブックマーク登録】や【☆評価】をいただけますと、今後の執筆の大きな励みになります。
次の更新でお会いしましょう。




