第1話:プロローグ【Day 1:エリフ・アハトラチ】
本作はフィクションです。作中に登場する個人、団体、事件などはすべて架空のものであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
なお、物語の描写には、一部に生々しい身体の機能低下や精神的苦痛など、残酷な描写(R-15)が含まれます。
あらかじめご了承の上、お読みください。
瞼が、己を支えるための論理を失ってしまったかのようだ。
――いや、もう目を開けていられない。
この現実という歪なシステムに、自分の命を引き延ばそうとした瞬間から、すべてが底へと沈み始めていた。
部屋は狭い箱そのものだ。冷却ファンの低いノイズと、停滞した空気の臭いによって、常に一定の圧力がかかっている。
コードを打つ。執筆する。配信をする。ゲームをする。
そして、生き延びる。
時計の針は午前4時を指している。
【GMT+8】。
デベロッパーであるということは、磨耗の戦い、すなわち時間と、己の骨の髄に刻まれた限界との、緩やかな戦争に他ならない。
指先はもう、自分の意志の管理下にない。ただの劣化した関節が、使い古されたキーボードのプラスチックを虚しくクリックしているだけだ。
今は、呼吸すらマニュアルで制御しなければならない。
もし、このリズム――吸って、吐いて、吸って、吐いて――を意識することを止めてしまえば、肺機能そのものが、この身体の崩壊に付き合って休止を選択してしまうかもしれない。
液晶の光を見つめ、それから時計を睨み、あと一時間の睡眠を得るために、どれだけの『自分』を切り売りすればいいのかを計算する。
安物のノート PC が、一台。スマホが、一台。
それが、俺の視界の直径、俺の世界のすべてだ。
「くそっ……」
不意に、重い音が響いた。
――床に、何かが激突する。
手元から滑り落ちた、オレンジ色のプラスチックボトル。
俺の、命の供給ライン。
まだ、それを補給していない。俺は緩慢で不正確な動作のまま、左手でそのボトルを拾い上げる。まるで、寿命を迎えつつあるバッテリーで稼働するマシンのように。
水なしで、その錠剤を乾いた喉に流し込んだ。
苦い。喉の粘膜をコーティングしていく、臨床的で、アルカリ性の焦燥感。
焦点の合わない瞳、そして俺の神経回路は、脳からの信号に距離を置き始めている。触れることのできない暗黒の領域へと、静かに退却していく。
「どうして、こんな不具合まみれになった……?」
これ以上の『微振動』を抑え込むため、さらに数錠をまとめて呑み下す。
ゆっくりと、薬剤の化学論理が、俺の神経の機能停止を上書きしていく。
筋肉の統制は戻ったが、重みは消えない。この鉛のような倦怠感は……今や、この身体の恒久的な常駐プログラムとなりつつあった。
薄暗い廊下を歩く。
家の中は狭く、空虚な空間だ。だがその壁のすぐ外側には、フィリピンの朝が持つ、広大で湿った熱気が重くのしかかっている。
俺はこれからも、弱り続けていくのだろうか。
この仕事が、この趣味が、本来の俺という存在を、少しずつ消去しているのではないか。
そのとき、調理の匂いが鼻腔を突いた。
台所で、人影が動いている。
シドゥリだ。彼女はすでに、家庭的な日常というモーションの真っただ中にいた。
舌の上で溶けかかっている錠剤の苦み――世界に対する臨床的な防壁――が、彼女がフライパンでひっくり返している魚の、温かく油じみた匂いと激しく衝突する。
「おぉ〜、もう起きてるの? どうしたの、おはよう……それとも、こんにちは、って言った方がいいのかな?」
彼女の声は風変わりで、俺の内部の崩壊によって生じた静寂を、鮮やかに切り裂く。
クスリと笑う彼女の動きに合わせて、緩んだエプロンの紐が揺れた。炊飯器から立ち上る湯気が小さな部屋を満たしていく。それは、実家を連想させる、温かく白い霧だった。
「……おはよう」
俺の声は掠れ、呼吸は浅い。ただの『大丈夫』を装った偽物のマスクだ。
俺は彼女を見つめる――糊のきいた制服のスカート、Tシャツ、そして自分の心臓の鼓動など一瞬も意識することなく、流動的に動くその五体を。
「お弁当はもう詰めといたよ」
彼女は、濁りのない澄んだ瞳でこちらを見た。
「研究は終わったの? それにしても、こんな朝早くから学校に行くなんて、一体何のイベント?」
「少し、新しいバイトを探さなきゃいけないんだ」
俺は答える。
「金が必要なんだ。それに、お前だっていつもこの時間に出かけるだろ」
「えっ、私たち、家を出る時間同じなの!?」
午前4時だというのに、彼女のテンションはあまりにも高すぎる。
「静かに」
俺は彼女を制した。隣の部屋では、まだ二人の幼い弟妹が眠っている。
この静まり返った家の中で、彼らの力みのない、規則的な呼吸音だけが、本当に平和な世界の証明だった。俺とは違う。彼らは、次の呼吸を繋ぎ止めるために戦う必要などない。
台所に満ちる湿った朝の空気は、フライドフィッシュの匂いで濃密さを増していく。
薬のメタリックな残渣が、まだ舌の上で溶け続けている。
シドゥリを見る。彼女の動きはどこまでも滑らかで軽い。俺の影が、まるで床板に張り付いた鉛のようにへばりついているのとは、あまりにも対照的だった。
「新学期はまだ終わっちゃいない」
俺の声は、砂利の上を無理やり引きずられたような音を立てていた。
「俺だって、お前と同じ4回生だぞ」
俺は財布に手を伸ばし、不器用な動作で革の感触を探る。それは緩慢で、自覚的な、あまりにも痛々しい抵抗だ。
脳からの命令が運動神経に届かない。俺自身のハードウェアに発生した、致命的な『セグメンテーションフォルト――構造的エラー』。それを隠すように、俺は背を向けた。
中にある紙幣は、新札だが心許ない。一万ペソ。
その紙を見て、俺は立ち尽くす。脳裏に浮かぶのは、冷酷で譲らないプログラミングの数式。
五千ペソは、俺の肺に呼吸の論理を維持させるための錠剤代。残りは、通学の運賃、諸経費、そして隣の部屋で眠る二つの小さな心臓を維持するためのコスト。
俺の『重症筋無力症(Myasthenia Gravis)』は、一度もノックを止めない、取り立て屋そのものだ。
カウンターの上に、五千ペソを滑らせる。
怠惰に動く俺の手は、彼女が昨晩の残りを保存容器に詰め、家庭的な湯気を立ち上らせている冷蔵庫の脇に、その紙幣を置き去りにした。
「俺たちの親は、どうして遺産の一つも残さずに消えちまったんだろうな」
ひび割れたリノリウムの床を見つめながら、俺は呟く。
「残してくれたよ」
この時間だというのに、シドゥリの声は相変わらず明るい。
「昔、お父さんたちには、ある『友人』がいたって聞いたの。詳しくは知らないけどね」
彼女はタオルを掴むと、バスルームへと向かった。そのシルエットは、俺が嫉妬せざるを得ないほどの無駄のない軽やかさで、ドアの向こうへと消えていく。
「とにかく、作業頑張ってね!」
突如として響き渡るシャワーの水音に紛れて、彼女の声が届く。
俺は自分の入るべき別のバスルームへ向かって、ゆっくりと足を動かした。その視線は、この家の、見慣れた壁にじっと注がれている。
遺産。
普通の人間は、それを黄金や土地と呼ぶのだろう。
だが、俺にとってのそれは――骨の髄にのしかかる重みであり、神経回路を蝕む、あの『微振動』に他ならない。
どれほどの親が、子供の本当の愛し方を学べるのだろうか。
あるいは、彼らはただ、自分たちの幽霊と、欠陥だらけの壊れたシステムを次の世代に受け渡しているだけなのだろうか。
俺は窓辺に立ち、ガラスの向こうを覗き込んだ。
外の世界は、夜明け前のインディゴブルーの憂鬱に包まれている。
分厚い雲がうねり、風に煽られた木々が、灰色の空に向かって狂ったように黒い手を振っている。
――もっと早く行くべきだ。
引きちぎられて飛んでいく葉を見つめながら、俺は計算する。
もし、この先にある大渋滞に先手を打てなければ、この街の湿度が、俺に残されたなけなしの生命力をすべて収穫し尽くしてしまうだろう。
背負うべきものが、多すぎる。
仕事、学位、家族、精度、そして――秒単位で自らを消去し続けている、この壊れた肉体。
先のことを考えてはいけない。
ただ、次の最適化だけを意識しろ。
次の、呼吸。
次の、錠剤。
プロローグを最後までお読みいただき、ありがとうございます。
壊れかけた肉体と、世界のシステム。作者コンピューターヒューマンゼロが描くこの物語を、楽しんでいただければ幸いです。
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次の更新でお会いしましょう。




