第2話:朝霧の中の第一発見者
箱根外輪山の夜明けは早い。午前五時を過ぎた頃、遮るもののない山頂付近から薄紫色の光が差し込み、旧遊歩道に立ち込める深い霧を白く染め上げていく。
「はぁ、やっぱり朝の空気は最高!」
二十二歳のハイカー、三浦結衣は、トレッキングポールの先で地面を突きながら軽快な足取りで坂を登っていた。週末を利用して箱根を訪れた彼女は、混雑を避けるために早朝から山に入っていた。まだ誰も歩いていない静かな山道を独り占めしている充実感が、彼女の足取りを軽くさせていた。
しかし、立ち入り禁止の看板を越え、旧遊歩道のカーブを曲がったところで、結衣はふと足を止めた。
「あれ……? 昨日の登山マップに、こんな岩あったっけ」
十メートルほど先の霧の向こうに、不自然な影がそびえ立っていた。それは軽自動車ほどもある巨岩で、遊歩道の真ん中を完全に塞ぐようにして居座っている。山の斜面を見上げると、生々しく削られた茶色い土の跡が見えた。どうやら昨夜のうちに、崖の上から落ちてきたらしい。
「うわ、危な……。夜中に歩いてたら直撃だったよね」
結衣はホッと胸をなでおろし、その岩を迂回して先へ進もうとした。何気なく、岩の根元に目を向けた、その時だった。
「……え?」
視界の端に、山の色とは明らかに違う「青色」が映った。
霧が一瞬、風に流されて薄くなる。結衣の目は、岩の真下に挟み込まれるようにして押し潰されている、人間の身体を捉えていた。
泥に汚れた登山靴。引きちぎられたバックパックのストラップ。そして、岩の隙間から不自然な角度で突き出ている、血の気の失せた人間の右腕。その手首には、高級な腕時計が鈍い光を放ったまま静止していた。
「いや……あ、ああ……っ!」
結衣の喉から、言葉にならない悲鳴が漏れた。ポールの先がカチカチと震え、地面を叩く。彼女は数歩後ずさり、そのまま尻餅をついた。心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、目の前の光景が現実のものであると理解した瞬間、猛烈な吐き気が込み上げる。
ポケットから震える手でスマートフォンを取り出し、画面をなぞる。
一一〇番。その三つの数字を押すだけでも、永遠のような時間がかかった。
「あ、あの! 人が、人が岩の下に……! 助けてください!」
朝の澄んだ空気に、彼女の引き裂かれたような悲鳴が響き渡った。
通報から一時間後。旧遊歩道は、黄色い規制線と警察官たちの足音で一気に騒がしくなっていた。
「……よし、山崎。鑑識の邪魔にならないようにな」
「分かってますって、警部! しかしこれ、完全に圧死ですね。気の毒に、運が悪かったとしか言いようがない」
現場に到着したばかりの刑事、山崎拓海は、まだ二十九歳らしい血気盛んな様子で、規制線の手前から遺体を覗き込んでいた。彼の視線の先では、鑑識課員たちが慎重に岩の周囲の写真を撮っている。
「山崎、決めつけるのはまだ早い」
後ろから鋭い声が響いた。三十九歳の警部補、増田元子だった。彼女はきっちりと結んだ髪を揺らしながら、泥にまみれた現場を冷徹な目で見つめている。
「増田警部補、でもこれ、どう見てもただの落石事故でしょう? 最近、火山ガスの影響でこのあたりの岩盤が緩んでるってニュースでもやってましたし」
「だからこそよ」
増田は手袋をはめた手で、巨岩の上部を指さした。
「見て。岩の剥離面の一部に、妙に細かいひび割れが集まっている場所がある。自然に崩落したにしては、特定の場所に不自然な負荷がかかったような痕跡に見えるわ」
「ははあ、さすが才女の増田くんだな。細かいところに目がいく」
二人の後ろから、のんびりとした声を出して現れたのは、二人の上司である米沢数馬警部だった。四十八歳になる彼は、少し押しの弱い、どこか頼りない印象を周囲に与えるが、現場の空気を和ませるベテランとしての勘を持っていた。
「米沢警部、被害者の身元が分かりました!」
別の捜査員が、遺体の衣服から回収した免許証を持って走ってきた。
「被害者は御堂凌真、四十歳。職業は地質災害調査官。横浜市在住です」
「地質災害調査官……? 山のプロじゃないか」
米沢は眉をひそめ、顎のあたりをさすった。
「そんな男が、なぜ夜中に立ち入り禁止の旧遊歩道にいたんだ? しかも、落石の危険性を誰よりも知っているはずの人間が、避けることもできずに直撃を食らうなんて、どうにも話が良すぎるな」
「やっぱり、事件の可能性があるってことですか?」
山崎が目を輝かせる。彼は突っ走るタイプゆえに、単純な事故よりも事件性を好む傾向があった。
「まだ分からん。だが、この被害者の立場を考えると、単なる自然災害として片付けるのは危険だ。人間関係、あるいは仕事上のトラブル。調べるべきことは山ほどあるぞ」
米沢はそう言うと、白い朝霧がゆっくりと晴れていく箱根の山頂を見上げた。その目は、この凄惨な現場の裏に、誰かの冷酷な意志が隠されていることを見抜きつつあった。




