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第1話:密やかなる殺意の亀裂


夜の箱根外輪山は、昼間の観光地としての華やかさを完全に剥ぎ取られ、ただ黒々とした巨大な影としてそこに横たわっていた。標高を上げるごとに空気は冷たさを増し、立ち入り禁止区域に指定されている旧遊歩道には、湿った夜霧がじわじわと這い上がってきている。

カサリ、と登山靴が乾いた土を踏む音が静寂を破った。

「本当に、この場所で間違いないんだろうな」

懐中電灯の強い光で足元を照らしながら、御堂凌真は不機嫌そうに呟いた。地質災害調査官として数々の険しい山を歩いてきた彼にとって、夜間の山道自体は珍しいものではない。しかし、呼び出された理由と場所が、彼の神経をひどく逆撫でしていた。

「ええ。わざわざこんな時間にお呼び立てして申し訳ありません、御堂さん」

霧の向こうから、鈴を転がすような、だが酷く冷徹な響きを持った声が返ってきた。

懐中電灯の光の輪の中に浮かび上がったのは、火山観測員の制服に身を包んだ月島ミナトの姿だった。彼女は細い身体に不釣り合いなほど大きなバックパックを背負い、岩壁に背を預けて立っている。その表情は、闇の中でも分かるほどに静かで、張り詰めていた。

御堂は鼻で笑い、懐中電灯をミナトの顔に向けた。

「月島くん。君が『火山活動の重大な異常データを見つけた』なんて大層なメールを送ってくるから来てやったんだ。もしこれが、君のくだらない研究費の増額要求のための狂言なら、私は明日、君を観測所から追い出す手続きをとるがね」

御堂の言葉には、あからさまな侮蔑が混ざっていた。彼は地質災害調査官という自らの肩書を笠に着て、ミナトたち現場の観測員が泥泥になって集めたデータを効率よく吸い上げ、自分の実績として論文にまとめてきた男だった。今回の呼び出しも、ミナトが何か新しい「手柄」を見つけ、それを自分に買い取らせようとしているのだろうと高を括っていた。

ミナトは眩しそうに目を細めたが、動じる風もなく淡々と言った。

「狂言なものですか。あなたが私のパソコンから盗み出した、大涌谷周辺の岩盤歪みに関する未発表データ……あれには致命的なバグがあったんです。修正前のデータで予測を立てれば、実際の避難計画に数百メートルのズレが生じる。調査官であるあなたなら、その意味が分かりますよね」

「……何だと?」

御堂の顔から余裕が消えた。彼は確かに、黒瀬という同僚を抱き込んでミナトの最新の研究成果を盗み出していた。それがすでにバレていること、そしてそのデータに欠陥があるという指摘は、彼のプライドとキャリアを根底から揺るがすものだった。

「なぜ君がそれを……まさか、あのデータを私に渡す前に細工したのか?」

「細工なんてしていません。あなたが勝手に盗んで、勝手に過信しただけです」

ミナトは静かにバックパックを下ろし、足元の暗闇に視線を落とした。彼女の心臓は激しく高鳴っていたが、それは恐怖からではない。これから行う「完璧な処刑」への高揚感だった。

(この男は山を、私の研究を、ただの金儲けと出世の道具にしか思っていない。私のすべてを奪おうとした男に、この山を踏み荒らす資格は無い――)

ミナトの脳裏に、これまでの屈辱の日々が蘇る。彼女が寝る間も惜しんで観測し、山と対話して得た結晶のようなデータを、この男は土足で踏みにじったのだ。

「月島くん、話は分かり合えるはずだ。データの修正版があるなら、それを私に寄越しなさい。君の立場だって、私がいくらでも保証してやる」

御堂は焦りを隠せない様子で一歩踏み出した。その足元は、ミナトが昼間のうちに確認しておいた「完璧な誘導ポイント」だった。

「いいえ、もう結構です」

ミナトは冷たく言い放ち、ポケットの中で小型の無線スイッチを握りしめた。

彼女がこの日のために夜な夜な資材置き場から部品を盗み出し、組み立てた「落石誘発装置」。それは、岩盤の元々あった微細な亀裂(節理)に特注の油圧ジャッキを挟み込み、遠隔で一気に圧力をかけることで、人工的な崩落を引き起こす最低限かつ最凶の仕掛けだった。

「おい、何を……」

御堂が不審に思った瞬間、ミナトの親指がスイッチを深く押し込んだ。

――カツン。

闇の奥で、金属が硬い岩を叩くような、不気味な小音が響いた。

「え?」

御堂が声を上げた瞬間、彼の頭上、数十メートルに位置する巨岩のバランスが完全に崩れた。自然の摂理に従うかのように、だが確実に御堂の直上を狙って、数トンもの質量が音を立てて滑り落ちる。

「な、なんだ、これは――!」

御堂は慌てて後ろへ飛び退こうとした。しかし、折悪しく周囲に立ち込め始めた火山ガスの霧が、懐中電灯の光を乱反射させ、彼の視界と距離感を激しく狂わせた。すぐ目の前に迫っている岩の影が、霧のせいでまだ遠くにあるように錯覚してしまったのだ。

「なぜ君がここに……まさか、あのデータを……あ、あああああ!」

逃げ場を失った御堂の絶叫は、轟音にかき消された。

ドゴォン! と、山全体を震わせるような衝撃音が旧遊歩道に響き渡る。凄まじい土煙と、火花を散らす岩石の擦れる匂いが霧の中に充満した。

やがて、静寂が戻る。

懐中電灯の光は地面に転がり、その先には、巨大な岩塊が不自然な角度で居座っていた。その下から覗く、動かなくなった人間の手。

ミナトはゆっくりと息を吐き出し、口元に静かな、しかし歪んだ笑みを浮かべた。

「さようなら、御堂さん。山を舐めた報いです」

彼女は手際よく動いた。岩壁の隙間に仕掛けられていた、ひしゃげた油圧ジャッキと頑丈なワイヤーを手袋をはめた手で取り外す。火山の酸性ガスによる腐食と、今回の崩落の衝撃で、装置の痕跡はほとんど普通の壊れた資材にしか見えなくなっていた。それらをすべてバックパックに詰め込むと、彼女は一度も後ろを振り返ることなく、闇に紛れてその場を立ち去った。

後に残されたのは、ただの「痛ましい落石事故」の現場だけだった。



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