第3話:乃木探偵事務所の朝
箱根の山々を包む霧がすっかり晴れ、爽やかな朝の光が差し込む小田原の一角。古い雑居ビルの二階にある「乃木探偵事務所」の室内には、優雅なクラシック音楽が流れていた。
「ふっ……完璧なドリップだ。やはり朝の一杯は、豆の呼吸を感じながら淹れねばね」
仕立ての良いスーツに身を包んだ乃木礼司は、髪を大げさに掻き揚げながら、お気に入りのマグカップにコーヒーを注いでいた。二十八歳。自称・天才名探偵。整った顔立ちでポーズを決める彼の姿は、一見すると実力派のそれに見える。
「お兄ちゃん、また格好つけてないで早くそれ飲んで。はい、これ今月の請求書と経理のデータ」
事務机から現実を突きつける声を放ったのは、礼司の妹であり事務所の事務員を務める乃木小百合だった。二十二歳の彼女は、兄のキザな態度を完全にスルーしながら、電卓を叩いて大きなため息をつく。
「ちょっと、今月の家賃、また滞納しそうなんだけど? 先月受けた迷子猫の捜索、結局見つからなくて報酬半分になったの忘れた?」
「お、小百合くん、言葉が鋭いな……。探偵の本質は金銭にあらず、人助けにあるのだよ」
「家賃払えなきゃ、その高尚な人助けも路上ですることになるよ」
礼司がコーヒーを吹きかけそうになりながらうろたえる。そんな兄妹の騒がしいやり取りを余所に、部屋の隅の長椅子で退屈そうに寝そべっている女性がいた。
流石田美衣。二十九歳。
この事務所の「助手」という肩書だが、実態は礼司を遥かに凌駕する超名探偵である。彼女は大きなあくびをしながら、手元にある超難関の推理パズル専門誌のページをめくっていた。
「所長ー、また小百合ちゃんに怒られてる。情けないなぁ。だいたい、所長のその無駄に高いスーツ代を引けば、家賃くらい一発で払えるんじゃないですか?」
「美衣ちゃんまで! これは探偵としての『戦闘服』、いわば信頼の証なんだよ! 君だって、ヨレヨレのシャツを着た探偵に事件を依頼したくないだろう?」
「私は中身が詰まってれば、パジャマの探偵でも信頼しますけどね」
美衣はけだるげに笑いながら、パズル誌を放り出した。彼女にとって、この事務所での日常はひどく退屈だった。頭脳が常に刺激を求めて空回りしている。もっと、こう、脳の髄まで痺れるような美しい謎は転がっていないものか――そう思った、その時だった。
トントン、と遠慮がちな、しかし確実な足音が階段から響き、事務所のドアが開いた。
「いやぁ、朝早くからお邪魔するよ、乃木くん」
入ってきたのは、少しよれたトレンチコートを着た米沢数馬警部だった。四十八歳のベテランらしい落ち着きと、どこか親しみやすい笑顔を浮かべている。
「おお、米沢警部! これはこれは。私のような名探偵の元を訪れるということは、また警察の手に負えない難事件ですか?」
礼司は待ってましたとばかりに胸を張り、米沢を応接スペースへ迎え入れた。小百合が手際よくお茶を出す。
「まあ、そういうわけじゃないんだがね。ちょっと、昨日の朝に箱根の外輪山で起きた『事故』について、意見を聞きたくてね。被害者が有名な地質災害調査官なんだが、どうも現場の状況に妙な違和感があってさ」
米沢はそう言いながら、手元の資料が入った茶封筒をテーブルに置いた。礼司はふむ、と深刻そうな顔をして顎に手を当てる。
「なるほど、山の事故ですか。自然の猛威の前に、人間は無力……。しかし、そこに『人の意志』が介在していると?」
「そう、増田警部補もそう睨んでいてね。これがその現場の写真と、被害者のデータだ」
米沢が封筒から書類を取り出そうとした瞬間、それまで長椅子で退屈そうにしていた美衣の目が、一瞬で鋭く光った。彼女は猫のようなしなやかな動きでテーブルに近づき、米沢の手元を覗き込む。
米沢が書類を広げるより早く、美衣の視線は露出した「現場の遠景写真」と「気象データ」の数値を捉えていた。
(……昨夜の箱根。局所的な濃霧、かつ火山ガスの微量噴出。そして、不自然な角度で崩落した巨岩。事故にしては、条件が揃いすぎている)
美衣の脳細胞が、一気に高速回転を始める。退屈だった世界が、鮮やかな色を帯びていくのを感じていた。
「おいおい、美衣ちゃん、そんなに前のめりにならなくても。まずは僕がこの資料を精査してから……」
礼司が慌てて美衣を下がらせようとする。美衣はすぐにいつもの「ぼんやりとした助手」の仮面を被り、へらりと笑った。
「すいませーん、つい珍しい写真が見えたので。所長、この事件、すっごく面白そうですよ。ほら、所長の高名な右脳が、ピキーンって閃いてるんじゃないですか?」
「む? う、うむ、そうだとも! 私の右脳はすでに、この事件の裏にある『闇』を捉えているよ、米沢警部!」
調子に乗った礼司は、中身もまだ見ていない資料を前に、堂々と宣言した。米沢は「さすが乃木くんだ、頼りにしてるよ」と嬉しそうに微笑んでいる。
その背後で、美衣は静かに思考を深めていた。
(ただの落石事故をわざわざ探偵のところに持ってくる警察も警察だけど……。この不自然さ、確実に誰かが『山』を利用して人を殺している。面白いわ。私たちが表に出て、その化けの皮を剥がしてあげましょう)
こうして、乃木探偵事務所は箱根外輪山で起きた、不可解な事件の渦中へと足を踏み入れることになった。




