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  作者: 鈴生
7/8

ルーヴシエンヌの雪

 俺にとって、物語は自分の構成する世界であって、自分の存在意義を自分で見出すための空間だった。他のものでは代替できない、唯一無二の存在だ。俺の傍らに立ち、俺を支えてくれるものだ。そう信じて疑っていなかった。

 物語にとっての俺が、何にも変えられないものだとは限らないことを知ったのは、自分で筆を取るようになってからだった。俺は物語を愛したが、物語は俺を同じ熱量では愛してくれなかった。俺がどれだけ思いの丈を物語にぶつけても、物語はそれに応えてくれなかった。

 それでも最初は諦めきれなかった。いつか物語が応えてくれる日が来る。そう信じたかった。だから何作も小説を書いた。俺に書けるのは短編ばかりだったから、短編集を数冊出版した。それでも、物語は俺の元から離れて行くばかりだった。俺の作品は大して売れなかった。

 最後の一冊は、初めての長編小説だった。タイトルはフランス語で『恋人たち』だ。無駄に洒落た名前を付けてから、中身を必死に考えた。これまでに恋愛の経験をしてきたことがないわけではない。でも、どの経験も決してドラマチックなものではなくて、平凡なそこら中に転がっているような恋愛だった。だから、物語そのものを擬人化して、俺なりの愛を伝えた。これが、最後の告白だと自分でも思いながらの執筆だった。作品は、やはりあまり売れなかった。それまでの短編に比べたら幾分かマシなくらいだった。

 物語は、とうとう俺に振り向くことはなかった。


 売れない作家なんて、小説以外で生計を立てるしかない。それなのに、今まで物語のことばかり考えてきた俺は、きちんとした職になんて就けやしなかった。そこそこ時給のいいバイトを探しては、自分の経験のためだ、物語にまた愛情をぶつけるためだ、と言い訳をしながら職を転々とした。おかげで俺の生き方はいつも綱渡りだった。

 最後の作品を書いた後も、何度か執筆に挑戦しようとしたことはある。書きたいことはたくさんあった。書きたい場面もイメージできていた。それなのに、なぜか手は動かなかった。物語は、きっと応えてはくれない。誰も、俺の作品を見てはくれない。そう思いたくはないのに、家の本棚に置かれたこれまでの出版物を見てはその現実を思い出す。それぞれ初版の一冊は一通り揃えてあるのだ。それは自分を奮い立たせるためのものだったはずなのに、今となっては足枷にしかならなくなっていた。


 ある日のバイト終わりに、ふと思い立った。もう、全部やめてしまおう。俺は物語に愛されることはない。これ以上執着するだけ時間の無駄だ。それなら、家にある本も売ってしまおう。どれもこれも過去の栄光だ。持っていても仕方がない。

 家に着いてから、たった数冊しかない自分の出版物を本棚から引き抜いて、家から一番近い古本屋に持っていった。手放せれば何でも良かった。愛想のいい女性店主は、状態が非常に綺麗だからすぐに売れるよと言ってくれた。数冊の本は、幾ばくかの金になって俺の元に戻って来た。

 家の本棚には、見慣れない空間ができた。今まで数冊入っていたのを全部引き抜いたのだ。こうなるのも当然だろう。なにか新しい本、いや、思い切って画集などを買ってもいいかもしれない。物語からは手を引こう。そうするのが俺にとって一番だ。物語に執着する人間に求められる対症療法は一つだけだ。距離を置くことだ。

 俺は今まで買ったこともないような西洋画家の画集をその隙間に詰めることにした。見ても損ではない。自分の役に立つかは別ではあるが。でも言語化するのに適している作品だと見ていて感じていた。バイトが終わって、暇なときには画集を開く。印象派だ。輪郭がはっきりしていないところが、俺の作品の書き方に似ているのかもしれないと思った。


 そんな生活をしている間にも、俺は自分の作品が古本屋でどのくらい売れたのかを知りたかった。数日開けて店を訪ねると、自分が売った本がシリーズ状態で置かれていた。売れていない。そんな日がずっと続いた。

 転機はすぐに訪れた。二回目の偵察で、あの『恋人たち』が売れていた。ちょうど一緒にいた小太りの眼鏡の男性が買ったのかと思って、その手元を見たら、全く別の作品を抱えていた。コイツじゃないのか。じゃあ誰が。考えてもきりがない。それでも、誰が買って行ったかは知りたかったと思った。


 小太りで眼鏡を掛けている男性は、妙に俺の目を引いた。何が理由なのかはわからない。初めて会う人間なのに、なぜか視線が吸い寄せられてしまう。こんなことをしては不審者だと思われる。目的だった自分の作品の売れ行きを確認して、俺は店を後にした。


 他に残っていたのは、過去に書いた短編集が二冊だけだった。今時普通の本屋では見つからないような作品だ。そんな俺の作品をわざわざ買って行ったということは、相当なファンだろうか。あるいはコレクターなのかもしれない。

 俺が作家だった頃には、そんな奴、現れもしなかったのに。


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