ぼく
恩田さんという人によって、ぼくは障碍者向け団体に保護された。あの日以来、母さんにも父さんにも、弟や妹たちにも会えていない。今の状況を伝えようと思ったこともあったが、恩田さん夫妻の家で過ごすうちに、その思いも消えて行った。今では、可愛かった弟と妹たちをたまに思い出すだけだ。彼らが幸せに暮らしていればいい。そのくらいにしか思わなかった。
今務めている会社から徒歩10分のところに、独身寮がある。その途中にある古本屋に寄るのがぼくの日課だった。覗いてみて、ときどき目に付いた作品を買って行く。奮発したいときには、ハードカバーの本を買ったり、全集を買ったこともある。おかげで出費は散々なことになっているが、暮らしに困るほどではない。店長とはもう顔見知りだ。全集を買ったときはわざわざ徒歩数分の独身寮まで原付で運んでくれた。そんなことがあってから、必ず一言二言喋るのが日常になっていた。
ぼくがその日に店に向かうと、ちょうど出てきたのは今日アルバイトで来てくれた子だった。名前は確か、大野さんと言っただろうか。声を掛けようかとも思ったが、怖がらせてしまうかもしれないと思って止めた。彼女の後ろ姿を見送りつつ、店内に足を踏み込む。いつものどこか埃っぽいような、本屋らしい香りが鼻を擽る。胸いっぱいに吸い込んで、ここの空気を堪能する。
本の整理に勤しんでいた店主さんがやってきて、なぜか飴をくれた。買ったけれど余ってしまったから、とのことだった。人から何かもらえることは嬉しい。やったあ、と声を上げて喜んでしまってから、大袈裟ではなかったかと反省する。恐る恐る店主さんの顔を見ると、優しげな表情が浮かんでいた。ああ、怒られてはいないみたいだ。
いただいた飴をリュックにしまって、今日は何か買おうかと思っていると、珍しく新しいお客さんがやって来た。背が高くてひょろりとした男性だ。きょろきょろと周りを見渡しながら、何かお目当ての作品を探しているらしい。そんな彼の姿を見て、なぜかぼくは猫のような印象を受けた。理由はわからない。彼の見た目には、どこにもあの自由気ままにのらりくらりと生きているさまを想起させるようなものはないのに。
彼の横を通りながら、ぼくも本棚を眺める。なんだか面白そうなタイトルの本があった。ぱらぱらと頁を捲ると、短編集らしいことがわかった。表紙の絵は煌びやかなのにどこかもの悲しい。今日はこれにしよう。
家に着いて一通りのことを終わらせて、早速買ってきた本を開く。前の持ち主はこの本を大切に扱っていたのだろう。汚れや傷みはほとんど見られなかった。文字が見えにくいので顔を近づけると、頁の隙間から少しだけ花の香りのような香水の匂いがした。眼鏡を押し上げて、頁を覗き込む。
本の中には、春先の暖かな日差しと、柔らかな緑が生い茂る草原で、頭上には抜ける様な青空が広がっていた。時折ぼくの鋼鉄の肌を擽るように、軽やかに舞う蝶がやってきてはぼくに愛を囁く。ぼくはそれに対して、短く言葉を返すことしかできなかった。なぜなら、ぼくはその蝶を閉じ込めてしまう鉄の檻だから。
蝶はずっとぼくに愛を囁いた。ぼくに閉じ込めて欲しいとまで希った。それでもぼくはそれを突っぱねた。ぼくの作り物の金属の身体は、過酷な大自然の中でゆっくりと朽ちていた。時間が経てば経つほどにぼくの意識は遠のいていって、それでもなお蝶はぼくに何かを話しかけていた。もう蝶の言葉なんて聞き取れなかったけれど、ぼくには叶えられないことを願われているのはなんとなくわかった。
蝶が離れていってしまったその夜は大嵐で、ぼくはそこでやっと自由を得ることができた。もうぼくの身体は限界だった。錆びついて壊れてしまった檻のぼくは、どこに行くことも叶わずにその場で朽ちることを選んだ。
ふ、と意識が浮上する。煌めく蝶の鱗粉が、瞼の裏できらきらと輝き続けているようだった。深呼吸をして、瞬きを繰り返す。深く息を吐き出せば、先ほどの暖かいのにどこか寂しい世界の、独特な空気が解けるようだった。
ぼくは、他者からの愛に応えられない。
ぼくは、応えないことを選んだ。
自分でした決定のはずなのに、それによってなんとなく、自分の無力感を突きつけられた気がした。
あくまでも本の中のぼくが下した決定だったけれど、その重苦しいほどの責任と、応えられないことへの罪悪感が、いつまでも心の底に澱のように溜まっていた。
あまり何度も読みたくなるような作品ではない。でも、頭の隅っこでずっと存在感を主張し続ける様な、研磨もされていない宝石のような作品だった。
他の短編には目を通すことなく、本棚の一番端にしまい込む。恐らく他の短編もこんな風にもの悲しい作品なのだろう。今は読むのに適した時機ではない。この作品は、もっと感傷に浸りたいときに読むべきだ。
心の奥底に、埋められないような喪失感を抱えたまま、ぼくはベッドに潜り込んだ。あの作品の武骨だけれど繊細な檻の心情ばかりを考えていたら、いつの間にか眠りについていた。




