キャピュシーヌ大通り
今日のバイト先の近くには、古本屋があった。今日は楽しくもない仕事をして頑張ったのだから、本の一冊くらいご褒美に買ったっていいだろう。
やや暗い照明が点けられた店内に、昭和レトロなガラスの引き戸を引いて足を踏み入れる。本棚は見上げるほどの高さで、その最上段にまで隙間なく本が入っていた。上の方にあるのは全集だ。そんなもの買って帰れない。下の方にはよく出回っているような文庫本や雑誌などが積まれていた。私にはこっちの方がいい。嵩張らないし、一冊も高くないし。どれにしようかと悩みつつ、たまにはジャケ買いでもしようかと思った。普段とは違う作品に出会えるのは楽しみなことでもある。たまに好みとは正反対の本を買ってしまって後悔することもあるけれど、それもまあ醍醐味だ。
それぞれの本の表紙を眺めていると、目を引く藍色の絵が書かれた本があった。タイトルは外国語で読めない。洋書なのだろうか。手に取って開いてみると、意外なことに中身は日本語だった。作家名は羅野 夜。見たこともない作家だ。最初の数ページを捲ろうとして、今日はジャケ買いをしようとしていたことを思い出した。いけない、いけない。本を持ってレジに向かうと、商品整理に追われていた年配の女性が奥からやって来た。そのまま会計を済ませて店を出る。外は陽が落ちて少し肌寒くなっていた。日中は暖かかったというのに、これならもう一枚何か羽織れるものを持ってくるべきだったかもしれない。
駅に向かう短い距離で、今日買った本の内容を想像する。あとでタイトルは調べてみるべきだろう。何か内容に関するヒントが隠されているかもしれない。色々思いを巡らせていると、リュックから軽快な通知音がした。そういえば会社を出るときにマナーモードを解除してから、一度も確認していない。駅で確認しよう。そう思って歩く速度を早める。その最中にも通知音は鳴り続けていた。
息を上げたまま改札を駆け抜けてホームに辿り着き、運よく空いていたベンチに腰かけてスマホを開く。学校の友人からの連絡だった。アプリを開いて確認すると、既読がついたのを見たのか即座に友人から追加の連絡が飛んでくる。
『侑花今日サボったのやばいって』
しまった。学校にバレたのか。うちの高校はアルバイト禁止だ。
『バレた?』
『なわけ、担任にはうちらが体調不良って言っといたから』
ほっと一息つく。
『まじ助かる』
『でも明日数学テストだって』
ぴしり、と音が立ちそうなくらい身体が固まった。
『マ?』
『マ』
深々と溜め息を吐く。今日は読書どころではない。徹夜で勉強だ。
『範囲えぐいまじで、教科書の88から110の演習全部出すって言ってた』
『デカほんとあり得ない』
『それな』
デカというのは数学の担当教員だ。本名がケイジなので、もじって刑事と読んでいるのだ。眼光が鋭く、寝ている生徒には容赦なく叱る。学校中でなかなか恐れられている先生だ。
『今日通話しながら勉強しよ』
『まじ?やった』
友人から送られてきた誘いに私は乗った。もともとそのつもりだったのだ。通話相手がいた方が教科書の復習も捗るだろう。
それにしても、折角新しい本を買ったのに、これでは当分読めそうにない。私は新しく本を一冊買ったら、勢いに任せて一気に読むのが好きなのだ。明日のテストが終わったら、明後日には古文の小テストが待っている。そしてそうこうしているうちに、中間試験がある。うかうかしてはいられない。そうだ、帰る間に本のタイトルを調べてしまおう。
スマホのカメラを起動して、表紙を撮影する。見たこともない文字だったので、綴りが分からなかったのだ。手元で操作している間にも、通知がいくつも飛んできた。それらを見ないふりをして、翻訳アプリに表示された文字を読む。『恋人たち』という意味らしい。どうやらフランス語のようだ。どうしてそんなタイトルにしたのだろう。
少し思案に耽ってからやっと通知をタップする。もう少しだけあの本について想像を巡らせたかったけれど、友人とのやり取りの方が大切だ。
『てか侑花今日どこ行ってたの?』
『河元』
端的に駅名だけ答える。高校がある駅からはだいぶ離れている。
『やば、帰ってくるの何時?』
『七時回るかも』
乗り換えアプリで調べた案内を思い出しながら返しておく。帰ったところで夕飯を食べてお風呂に入らなければいけないのだから、すぐに電話は掛けられない。
ちまちまと連絡をしていると、駅にアナウンスが鳴り響いた。音質が荒い。何と言っているのか、あまり綺麗に聞き取れない。ベンチから立ち上がって、一旦連絡する手を止める。 電車内くらい、本の世界に浸りたかった。この時間はどうせ座れないのだし。




