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  作者: 鈴生
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ひまわり

 単発のアルバイトで入った会社は、福祉施設と関連のある会社らしかった。詳しいところはわからない。私としては稼げればなんだってよかった。今度の連休で遊びに行くお金が足りないのだ。だから授業もサボってこんなところでアルバイトをしている。

 新作のコスメも買わなければ。今回のアイシャドウパレットは天才的な配色で、イエベの私にはぴったりなように見えた。春が終わりかけの時期には、華やかな色はよく映える。まだサンプルしか見られていないから実際の感じはわからないけれど、きっともっとメイクが楽しくなると思った。

 それに、ネイルも新しくしなければならない。友達と遊びに行くのだ。いつものネイリストさんの所に行って色々リクエストしようか。今回は花のモチーフがいい。そうだ、藤とかがいいかもしれない。地味に見えるけれど、今が旬の花を描いたほうがファッションは締まるものだ。私はそう思っている。

 あれこれ考えながら、鞄からお気に入りの一冊の本を取り出す。電車の中は込み合っているが、始発駅から乗り込んだ私は椅子に悠々と座ることができる。いつもと同じ、車両の一番後ろ側の、端っこの席だ。リュックから大事な革のブックカバーに包まれた一冊を取り出す。人ならざる者たちが営む街外れの喫茶店の日常を描いた小説だ。昔読んだ本だが、食事シーンが美味しそうに見えて仕方なくて、いつの間にかお気に入りになってしまった。おかげでそこの頁は撚れている。彼らの開店準備の様子から読み直しているうちに、いつの間にか小説の世界に没頭していた。

 スマートフォンが鞄の中で振動する。その感覚でやっと正気に戻った。本を閉じて、リュックに突っ込む。荷物をまとめて席を立ち上がり、ドアの方へ何とか近づいていく。アラームをかけておいてよかった。バイト先の最寄駅近くで鳴るように設定してあったのだ。そうでもしないと、今まで何度やらかしたかわからない、本にのめり込みすぎて乗り過ごす事件をまたやってしまうところだった。


 アルバイト内容は簡単なものだった。パソコンを使ったデータ入力だ。仕事内容を教えてくれたのは、分厚い眼鏡を掛けた小太りの男性だった。最初に見たときはものすごく警戒したが、挨拶をしたときにその警戒心は霧散した。恐らくこの人も同類だ。

「折田です。今日はよろしくお願いします。」

 律儀にきっちり頭を下げた彼の眼鏡の隙間から、煌めく瞳が見えた。慌ててこちらも返す。

「…大野、です。よろしく、お願いします…」

「大野さんですね、分かりました。今日はパソコンでのデータ入力作業になるけれど、やったことはありますか?」

 彼の動きはゆったりとしているのに、無駄がなかった。首を振って答えると、穏やかに席に案内してくれた。

 席は折田さんの隣のデスクだった。たかが一アルバイト如きが座っていいのだろうか。そんな私の懸念を気にすることもなく、彼は着々と仕事のやり方について教えてくれていた。作業自体は単純なものだった。紙の資料をデータに起こすだけだ。それを見て、折田さんにこんな重要そうな書類を、単発のバイトに任せていいのかと聞いてみた。

「主任がいいって言ってるから大丈夫ですよ~」

 重たそうな眼鏡を何とか押し上げながら、紙の書類に顔がくっ付かんばかりにして何かを読んでいる彼から、のんびりとした返事があった。そういうものなのか。それならいいか。興味もないし。稼げればなんでもいいし。

 データと向き合い続けるのは、想像していたよりもかなり苦行だった。ずっと動きもしない数字を相手にしなければならない。朝読んできた本が恋しい。お昼休みに絶対に読んでやる。その一心で午前中の仕事をこなした。


 お昼休憩はコンビニのおにぎり1個で済ませた。折角稼ぎに来ているのに、無駄遣いはできない。それなら最初からお弁当を作ってもらえばいいだけの話だが、共働きで忙しいお母さんにそれはなんとなく言い出しにくかった。味わうこともなく淡々と咀嚼して飲み込み、水筒と共に持ってきた本を開く。スマホにアラームをかけるのは忘れない。50分もあれば十分だ。物語の佳境までは遠く及ばないけれど、最初の平和なところは読み切れる。

 ページを開けば、そこには春先の暖かな喫茶店の空間が広がっている。店員たちは皆仲が良くて、朝食のフレンチトーストの甘い香りすらしてきそうだった。ベーコンがフライパンでパチパチと音を立てながら、こんがりとカリカリに焼けていく様を想像して、本の中の彼らと同じ物が無性に食べたくなった。よし、今日の夕飯はベーコンエッグだ。パンは買わないといけないからフレンチトーストはまた今度にしよう。

 喫茶店の空気に浸っていると、テーブルの上に置いたスマホが振動した。もうそんな時間なのか。喫茶店では案外おっちょこちょいな女性店員がラザニアを焦がしたところだった。もう少し読みたかったのに。本を閉じるのは名残惜しくて第一章の挿絵を眺めていると、目の前に人がやってきた。顔を上げるとそこには、折田さんが立っていた。

「本、好きなんですね。ぼくもその小説大好きです。」

 挿絵に注がれていた視線がこちらに向いて、私に柔らかく笑いかけながら彼は言った。彼も知っているのか。これはあまり有名な作品ではないと思うのだけれど。社交辞令なのだろうか。それにしては随分と熱がこもっていたように感じられた。彼は一体この作品のどんなところが好きなのだろう。好奇心の方が勝って、恐る恐る口を開く。

「…どこが好きなんですか」

 顎に手をやって、ほんの少し首を傾げた彼が悩みながら答えてくれた。

「んー…穏やかな日常が積み上げられていくところでしょうか…物語の最後は、すごく辛いですけどね。でもぼくは、最初の開店前からのところが一番好きかなあ」

 こちらに視線を戻した彼が、いたずらっぽい笑みを浮かべた。

「なにより、ご飯が美味しそうじゃないですか。とっても。」

 それを聞いて、くす、と笑みが溢れた。彼も、きちんとあの世界に浸っている人だ。


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