読書する女
保護した少年は折田さんといった。折田さんにはまず、団体のバックアップを受けて通信制の高校に通ってもらうことになった。最低限の教養はどこで生きていくにも必要だ。私たちのような、どこかに障碍を抱えている人間であるほど、普通の人間に近づくための何かしらの努力は必要だ。例え、それが手に入らないとしても、普通に生きることを希うことは止められない。
しかし、折田さんの努力する姿勢は、私のしてきたものよりもずっと高尚なものに見えた。私がしてきた努力を、泥臭く地面を這いつくばって濁った水を啜るようなものだと形容するならば、彼のものは正反対だった。デザイン性の高い華奢な椅子に緩く腰かけて、ガラスの天板のテーブルで優雅に紅茶でも嗜むようだった。努力に優劣はつけられまい。私が彼を妬む理由はない。それでも、羨ましいと思う心は否定できなかった。彼にも彼なりの苦労があるだろう。それを見ることもなく羨望の眼差しを向けることは簡単だ。それでも、私は自分の過去を否定したくなかった。自分のことを卑下したくなるような現実は見たくなかった。
折田さんは言語能力が抜群に高かった。きっと読書量がものを言っているのだろう。複雑で難解な小説を読み続けてきたためか、物事を理解する能力も高かった。彼自身は国語以外できなかったと言っていたが、それは恐らく彼の弱視が彼本来の能力を妨げていたのだろう。教科書や黒板の字はほとんど見ることもできずに、ここまで暮らしてきたのではないだろうか。そう思うと、いくらか私の心は落ち着くものだった。
私が障碍を抱える人を保護するための団体を設立したのは、明確な理由がある。私は比較的裕福な家の三人兄弟の末っ子として生まれた。兄たちは健常者だったのに、私だけが難聴という障碍を抱えていた。家族は皆私のことをいたく心配して、いっそ過保護なほどに私の面倒を見てくれていたのだが、思春期に差し掛かるとそれが疎ましくなり、置き手紙だけを残して、大学生になったばかりの私は家を飛び出したのだった。それまで自分がどれだけ恵まれた環境で生活していたのかも知らずに、自分の抱える障碍の計り知れない足枷具合も知らずに、自分だけで生きていけると思い込んだのだ。
現実は非情なもので、碌な仕事にも就くことができずに放浪しているときに出会ったのが、今の妻だった。もう連れ添って40年以上になるが、彼女には頭が上がらない。彼女は出会った当時、生活に困難を抱える人のための団体でボランティアをしていた。私は別の福祉団体からの紹介で行った仕事先で彼女と知り合い、紆余曲折を経て結婚したのだ。彼女の献身的な在り方と、自分の苦労を踏まえて、私は今の保護団体を設立することにした。規模は決して大きくない。抱えられる人数も多くはない。それでも、私が手を伸ばせる範囲内にいる人はできる限り助けたいと思った。
そこには、過去の自分を救いたいという思いも、あったのかもしれない。
折田さんはみるみるうちに知識を吸収していった。授業で学んだことを、半ば親代わりとなっていた私たち夫婦に、あれこれ話して聞かせてくれた。身振り手振りだけでなく、ときにはノートとペンを持って、私たちが授業を受けているかのようだった。彼が授業の話をするときの表情は、いつも笑顔に溢れていた。
それはまるで、文字を覚えたての子供が、色々なものを指さしては親に聞く様子に似ていた。
折田さんは瞬く間に通信制の高校を卒業した。三年という期間はあっという間だ。子育てがあっという間だというのは散々聞いてきていたが、私は彼に出会ってからそれを初めて痛感した。私たち夫婦には子供はいない。授かることができなかったのだ。
卒業後、彼は私の運営する団体と交流のあった会社に就職することとなった。事務職ではあるが、彼の切れ者の頭はきっと仕事に役立つだろう。そう言って送り出した。
就職先で、折田さんは随分可愛がられているようだった。小さな会社であったためか、他の社員が彼よりも年上なこともあり、社員によってはほぼ孫のように可愛がられているそうだ。時折団体の事務所のところに遊びにやってきては、はにかむように笑いながら彼が教えてくれたことだ。いくつか写真も見せてもらった。彼は社員寮に住んでいるので食事はほとんどを社食で済ませているそうだが、たまに他の社員からお弁当を作ってもらうそうなのだ。映っていたのは彩り鮮やかで栄養バランスも取れていそうな、大きなお弁当箱だった。きちんとお礼を言って、お弁当箱は洗って返したのかと聞くと、もちろんだと胸を張って答えられた。その様子がとてもほほえましい。妻も隣で笑って聞いていた。
「何かあったらすぐに帰って来るんだよ、いつでも待ってるからね」
「はい!行ってきます!」
分厚い眼鏡の奥で、彼のつぶらな瞳が煌めいた。いつもはレンズに隠されたその瞳には、今は豊かな知性と柔らかな温厚さが宿っている。それが直接見られないのが、少し残念だった。
「行ってらっしゃい」
「気を付けてね」
隣に立つ妻の目尻が少しだけ光を反射していた。まったく、彼はすぐに帰ってこれる場所にいるじゃないか。
手を振りつつ去っていく彼の姿が、少しだけ滲んだ。




