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  作者: 鈴生
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モンマルトルの大通り、夜

 その子を見かけたのは、全くの偶然だったのだと思う。普段は通ろうともしない道を、その日はなぜか選んで会社に戻ろうとしたのだ。

 その道をあまり使わない理由は二つで、一つ目は築年数の経っていそうな大きくて歪な家が道中に鎮座しているからだった。家そのものも増改築を繰り返してきたのであろうことを感じさせる佇まいで、他の家や道路を監視しているように感じられた。どこにもそんな要素はないのに、前を通るのがなんとなく憚られる家だった。

 二つ目は、その件の家に住んでいる家族が常日頃から大声で喧嘩をしているのか、罵声が飛び交っているからだった。朝でも昼でも夜でも、時間を問わずその声は聞こえて来ていた。それでいて、小さな子供の楽し気な声が聞こえてきているのだから、いっそ不気味だった。あの家の中では何が起こっているのか、知りたいようで、知りたくもなかった。

 そんなある日、その家の前で立ち尽くしているとでもいうのだろうか、家を眺めている比較的若そうな男性がいた。平均よりもややふっくらした体つきで、首を左右に傾げて、手を口元に置いている。所作がどことなく女性らしさを思わせた、妙に品と色気を感じさせるような振る舞いだった。それが本人が意図して行っているものなのかは、私には分からない。

 私が彼を眺めていると、彼も私に気付いたようだった。身体を縮めるようにして細めてゆっくりと振り返る。そして、目をものすごく細めたのが分かった。もう何も見えていないのではないだろうか。眉間に皺が寄っていたが、恐らく慣れていない動作であろうことが伺えた。皺の寄せ方がなんだか滑稽なのだ。それを見ていると少しほほえましくなった。危険人物ではない。自分の経験則でそれがわかった。目の前のこの彼は、私たちと同じだ。

 少しだけ彼の方に近づく。声を掛けることも忘れない。

「少しだけあなたに近づきますね。どのくらい見えていますか?」

 手を振って指を二本立てる。それを差しながら答えを待つと、先ほどよりも目を細めようとした彼が、いよいよ目を瞑ってしまった。まるで梅干しを食べたときのような顔だ。子供のような仕草に、こちらの警戒心はとうに溶かされていた。


 話を聞けば聞くほど、彼の家庭状況の悲惨さというものに戦慄することとなった。彼自身は一言たりとも、両親や再婚相手や兄弟たちに対する恨み辛みを言わなかったが、私からすればこんなものは児童相談所へ行くべきものだ。それにしても、周りは何も言ってこなかったのだろうか。例えば、彼の友人であるとか、家の近所の人とかは、この異常に気付かなかったのだろうか。

「ぼく、この家に、住み続けていいんですか?」

「ああ、いや…何か法的に問題が生じる可能性があるから、一時的にどこかへ住む場所を変えた方が…」

「でも、ぼく、ここがいいんです。他に、行けるところもないので、ここに住みたいんです。」

 彼の意志は頑なだった。しかし、なんとなく首を突っ込んでしまったことである以上、物事は解決させないと気が済まない。自分の優しさばかりが今回は裏目に出てしまった。妻からはまた叱責されるだろう。

 それでも、なぜだろうか。他の今までの誰よりも、彼は妙に私を惹きつけた。救いたくなる、とまではいわないが、いわゆる庇護欲を掻き立てるような、そんな雰囲気を纏った男性だった。

 そういえば名前と年齢を聞くのを忘れていた。彼は珍しい名前だった。はにかむように笑って自分の名を告げる彼の表情は、どことなく恋する乙女を彷彿とさせるような顔をしていた。年齢は恐ろしいことに、十七歳だった。本来ならば親が監督責任を持っているはずの年齢だ。それに、今日は平日の昼間だ。どう考えたって授業があるはずなのに、どうして彼は制服も着ずにこんなところでぼろな服を身に纏って立ち尽くしているのだろう。

「ぼく、学校、中学までしか行ってません。母さんが反対したので。」

 本人があまりにもなんてことないように告げるのが、それはそれでまた不気味だった。母親は何をしているのだろう。

「それに、ぼく、国語以外なんにもできなかったので、受験しても受からないだろうって言われてました」

 あっけらかんと告げる彼は、本当に何も気に留めていないようだった。まるで今日の天気でも教えるかのようだ。

 少なくとも、ここだけで私は確信した。

 彼には、支援が必要だ。


 渋る彼を説得して、私の運営する団体で彼を保護することにした。家については相続の問題があるので、彼の荷物だけを持って引っ越してもらうことになった。そのついでに視力矯正器具も作ることにした。あの日以降何度か彼と面談という形で話し合ったが、どうにも生まれつき彼は視力が弱いようだった。何を読むにも、ルーペなしには手も足も出ない。これは本人談だ。団体の方でお世話になっている眼科医に聞くと、弱視だと判断された。そのまま分厚い眼鏡を作ることとなったが、彼はいたく喜んでいた。

「わあ、世界が綺麗ですね!草木も花も動物も空も人も、こんなにはっきり見えるなんて!ぼく、嬉しいです!」

 その場で踊り出さんほどに喜ぶ彼を、私と眼科医は眺めていた。どことなく心が温まるようなそんな気持ちになった。


 残念ながら彼の両親の足取りは掴めない。巧妙に逃げ回っているようだった。


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