ぼく
ぼくはたくさんの人と出会ってきた。数えきれないほどの冒険をしてきた。覚えきれないほどの知識を教わってきた。仲間たちと共に、様々な苦難を乗り越えて、笑い合って、泣き合って、そうやって生きてきた。仲間たちと言葉を直接交わすことはなくても、ぼくだけが自分のペースで生きていても、それが絶対的な幸せであることは絶対に覆らない。これこそが幸福であると、ぼくはずっと信じている。誰にとっても、平等に公平に、天から与えられた最大級の幸せの在り方なんだって、ずっと思っている。
たとえそれが、瞬きをするほどの時間の間に過ぎ去ってしまうとしても。
すべての出会いも、冒険も、笑いあった時間も何もかも、終わりが来てしまうとしても。
その終わりが、たった数文字の言葉によってもたらされるとしても。
ぼくにとっての世界は、本の中だけだった。どんな本でも、頁を捲ればそこには必ず、予想もつかないような世界が広がっているから。
抜ける様な青空には雲一つなくて、ひまわり畑が自信満々にその鮮やかな花を咲かせている。線路は夏の照りつける日差しを反射して、鈍い金属色を見せる。近代的な電車の駅なのに、どういうわけかそこにやってくるのは手押しのトロッコで、ぼくはそれに乗り込む。
トロッコを押してきたのは、そのときのぼくよりも少しだけ年上の男の人だった。どうしたらいいかわからなくて縮こまるぼくに、彼は柔らかく笑いかけてくれた。少しだけ吊り目で、笑うと目尻に皺ができる人だ。長いこと生きてきた人なんだろう。そして、穏やかに笑うことの多い人生を歩んできた人なんだろう。彼の話はどれも楽しくて、面白くて、それでいて美しかった。
トロッコの行く先は、幻想的な空間だ。淡い色使いと、煌びやかな装飾、でも、どことなく漂う不気味さ。人の気配の感じられないその不思議な空間に、僕は囚われるんだ。どうしようもなく心を惹かれて、それで、どうしてもここにもう一度来たいと心から願う。彼にそれを希えば、一つだけ試験を課されることになった。内容は、アクロバティックなパルクールだ。ぼくにはできっこない。そこでぼくは、一度手を止めた。
頁は残り僅かになっていた。息が浅くなっているのに気付いて、胸いっぱいに空気を吸って、吐き出す。現実世界のあの夏の日差しが眩しい駅と、夢の世界の輪郭も朧気な空間とが混ざりあって、言い表せないような感情になった。本を閉じて、体育ず割をしていた身体をもっと小さく丸める。この部屋は少しだけぼくにとっては窮屈だけれど、あまり気にはならなかった。瞼の裏に、人一人いない建物群が浮かび上がる。もう一度、行きたい。それでも、そのためにはパルクールを乗り越えなければならない。あの包み込むような笑みを浮かべる彼は、ぼくを応援してくれるだろうか。
扉を強く叩かれる音がして、そちらを振り返る。手元に置いた本の表紙を丁寧になぞってからゆっくりと立ち上がる。背筋を真っ直ぐ伸ばすことはできない。天井に頭が擦れてしまうから。被っていたブランケットを畳む。腕を伸ばし切ることはできない。壁に手をぶつけてしまうから。もうそろそろ行かなければいけない。勢いよく扉を開けることはできない。油の切れた蝶番が悲鳴を上げて、可愛い弟や妹たちが泣いてしまうから。
そろそろと扉を掻い潜って部屋から出ると、大きなグラスを手に持った今の父さんが待っていた。不安定な持ち方をしているせいで、その水面は縁ぎりぎりのところでゆらゆらと揺れていた。
「おっせぇんだよ愚図!」
彼の手元のグラスが振りかざされて、顔を咄嗟に庇おうとした。冷たさは感じなかった。
「ハハッ、鈍臭ぇなお前!面白くねぇお前は今日も夕飯抜き!じゃあな!」
言葉の意味を噛み砕こうと必死な僕の顔に、グラスの水が盛大に掛けられた。父さんはそう言って、明るいリビングへと向かってしまった。母さんの楽し気な声と、弟と妹たちの賑やかな声が聞こえてくる。胸の奥が、ほんの少しだけ、ちくりと痛んだ。
顔から滴った水が服と床を濡らしていく。いけない。これではみんなが転んで怪我をしてしまう。タオルなんて持っていない。部屋からブランケットを持ってきて拭い取る。元々は大判のバスタオルだったブランケットは、すぐに水を吸い取った。これでもうみんな危なくない。安心したぼくは自分の部屋に戻ることにした。
隙間風が吹き込むこの部屋で、大事な読書の相棒であるブランケットが使えなくなってしまったのは惜しいけれど、あまり苦には感じない。
ぼくには、本があるのだから。
閉じたときの頁数を思い出して、そこを開く。少しだけ、開いた跡がついてしまっていた。頁に書かれた文字を、片手のルーペで拡大しつつ一文字一文字を指でなぞって、頭の中で音読する。いつの間にか頭の中で自分の声はしなくなって、本の世界の声に取って代わられていく。周りの光景も、小さな豆電球と薄い座布団と濡れてしまったブランケットしかない部屋から、夏の日差しが空から燦燦と降り注ぐトロッコの中へと変わっていく。袖をまくりたくなるほどの暑さが、陽炎のように立ち上っては消えて行った。
パルクールをするのには、覚悟が必要だった。いつの間にか陽はとっくに落ちて、蒸し暑い夜になっていた。ふかふかのベッドで眠るぼくを、窓の外から聞こえてくる小さなノックの音が起こす。慌てて起き上がり窓を開けると、するりと細身の男の人が入って来た。彼は気難しい顔をして、ぶっきらぼうに試験官だと名乗った。試験の内容は、家々の間を飛び越えて、ずっと先まで行ってここに戻ってくるというものだった。それだけ告げて、ぼくのベッドに腰かけて足を組んだ。
なんだか、鷲みたいな人だと思った。もたもたしていたら食べられてしまいそうだ。ベランダに出て、金属の柵をぎゅっと掴む。柵にそろそろと足を掛けて、立ち上がる。足がふらついて、身体が前のめりになって、落ちるかと思ったその瞬間に、身体はこれ以上ないほど滑らかに動いた。右足が勝手に前に飛び出す。身体中がばねみたいになって、家々の間を自由自在に飛び回る。まるで鳥になったみたいじゃないか。身体が風を切って、まるで足りない何かを必死に求めるかのように、前へ前へと進んでいく。自分の身体ではないみたいで、ぼくはだんだん怖くなってきた。それでも、足は弾むように動いて、鷲の彼の待つ家に辿り着いた。
無口な彼は、手元の小さな紙に何かを書いて、小さく折りたたんでぼくに渡して、すぐにどこかへ帰ってしまった。起きてから見なさい、と言われたけれど何が書いてあるのか気になって仕方なかったぼくは、その紙を急いで開いた。長方形の紙には、綺麗な字で合格とだけ書いてあった。
浮かれたぼくは、もう一度あの幻想的な世界に戻れると思って、ベッドに潜り込む。それでも、どれだけ望んでも、もう二度とあの世界に行けることはなかった。
ぼくには、あの合格と書かれた紙と、忘れられない記憶だけが残った。
最後の頁を捲って、物語が終わったことに気付く。心にぽっかりと穴が開いたような気分だった。あの暖かな日差しが恋しい。ぼくの緊張をほぐすためにたくさん話しかけて来てくれたトロッコのあの男の人が恋しい。ぶっきらぼうな鷲みたいな彼が恋しい。時計を見ることもなく、ぼくはもう一度、本の最初の頁に戻った。
どんなときだって、本はぼくの傍にいてくれた。
ぼくの目が悪くて、そこに書かれた文字を読むことが出来なくて、母さんや前の父さんに叱られるときも、本だけはぼくを急かさなかった。
前の父さんが母さんと上手くいかなくなって、ぼくを理由にして出て行ってしまったときも、本はぼくを受け入れてくれた。
母さんは前よりもずっとぼくに対してきつい物言いをするようになっても、本はぼくを慰めてくれた。
母さんが今の父さんと再婚して、可愛い弟や妹たちがたくさん生まれてからも、本はぼくに共感してくれた。
今の父さんがぼくをどれだけ好きじゃなくても、本は僕を好きでいてくれた。
ぼくがある日出かけて帰ってきて、家に誰もいなくなっていても、本は僕を待っていてくれていた。




