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  作者: 鈴生
10/11

ぼく

 仕事で半休を取って、ぼくは恩田さんのところに顔を出すことにした。会社の寮に本が収まらなくなってきたので、こちらに移したかったのだ。恩田さんたちに甘えているのかもしれないけれど、そのくらいしか会いに行く理由が思いつかなかった。行くことを連絡すると、珍しく奥さんから返信が来た。どうやら他の会社の人が来る予定があるらしく、恩田さんはその方との話し合いで少し遅れる可能性があるとのことだった。それを了承して、菓子折りを持っていくことを思いつく。会社で前にいただいたことのあるお菓子が、くどい甘さではないのに上品な味で、口の中でほろほろと崩れて、渋い緑茶によく合ったのを思い出す。それなら恩田さんたちも喜んでくれるだろう。彼らは、ぼくが持っていったものはなんでもとても喜んでくれるけれど、やはり自分が美味しいと感じられるものを、ぼくは共有したかった。

 柔らかな日差しの中を歩いて行くと、建物の駐車場にあまり見慣れない車があるのがわかった。きっと連絡にあった会社の方だろう。邪魔にならないように裏口から入って、給湯室にそのまま向かう。事務室にいる人たちの刺激にならないように、薄くしか日差しが入らない建物の中は少し見えづらかったけれど、それでも何も困らない。ここは目を瞑ってでも歩けるほどに慣れた場所だ。

 給湯室には人の気配があった。覗き込めば、そこには恩田さんの奥さんがいた。少しつま先立ちになって、頭上にある棚の中の何かを探しているようだった。心配になっておずおずと声を掛ける。

「…あ、と……園子さん、大丈夫ですか…?」

 恩田さんの奥さんのことは、みんな下の名前で呼んでいる。ぼくの声を聞いて、彼女がこちらを振り返る。肩の高さに切り揃えられた綺麗なグレーの髪がぱっと散った。彼女の顔に笑みが広がる。

「あらあら折田さん、もう来たのね。ごめんなさいね気付かなくって」

「そんな、ぼく、裏口から入ったので…」

 てきぱきと動く彼女は、また先ほどの棚に向き直った。菓子折りを置いてからそちらに向かうと、腰に手を当てた園子さんが小さく唇を尖らせた。

「まったく、年を取るのもいやね。お茶菓子を買ったつもりだったのに、すっかり忘れちゃってたわ」

 ぼくの目線より少し下にある彼女の様子を眺めながら、首を傾げる。

「お茶菓子ですか…?ぼく、ちょうど買ってたんです」

 ほんの少し目を輝かせた彼女がこちらを見上げる。

「本当?いただいてもいいかしら…?お客様がいらっしゃってるのに、何にもお出しできないと思って困っちゃってたの」

 笑みを浮かべながら、ぼくも答える。

「もちろんです!いっぱい買ってきたので、他の方にもどうぞ!」


 園子さんはお盆にいくつかお菓子を乗せて、隣の応接室に向かって行った。その間にぼくは久々に会う事務室の顔ぶれに挨拶をしに行った。決して仕事の邪魔にはならないように、身体を縮めるようにして事務室の扉をそっと開けると、すぐ近くの席に座っていた初老の男性がこちらを向いた。彼の目が見開かれる。手招きをされたので、彼のデスクに近づく。囁き声で、彼はぼくを歓迎してくれた。少しだけ挨拶をして戻ろうとすると、手を出すように言われたので、何も考えずに右手の掌を上にして差し出す。

 右手の上には一口サイズの個包装されたパウンドケーキが乗っていた。

「おやつだ、園子さんにバレないようにな」

 少しだけむくれたように返事をする。

「ぼく、もう子供じゃないですよ」

 軽く微笑んで、彼は言った。

「恩田さんたちにとっちゃ永遠の子供だよ、折田さんはな」


 事務室を退室した後も、方々で顔見知りに会い、そのたびに小さなお菓子やらティーバッグの詰め合わせなどをいただいた。小さなかばんを持ってくるべきだったかもしれない。上着のポケットはいっぱいになっていた。

 給湯室に置きっぱなしにしていたリュックを回収して、自室と呼ぶべき部屋に向かう。ぼくのあとに入る人がいなかったために、この部屋の使用者はずっとぼくのままだった。上着のポケットから、いただいたものを大切に取り出して勉強机の上に並べる。重たいリュックを床に静かに下ろして、並べられたお菓子の中から事務室の彼に貰ったパウンドケーキを選んでもぐもぐと咀嚼する。食べ慣れたシンプルなプレーン味だ。味わってから飲み込んで、荷物の整理に取り掛かる。

 リュックから本を取り出す。リュックの底の部分は重さに負けて一部がほつれ始めていた。そろそろ新しいものを買うか、あるいはスーツケースなどを使うべきなのかもしれない。硝子戸の嵌められた本棚は、既にぎっしりと本が詰まっている。寮から本を持って帰ってくるのも、今日が初めてではない。それに、高校のころの教科書からノートからドリルまで全て残してあるのだ。スペースがなくなるのも当然のことだろう。

 本を床に置くのはどうしてもいやだった。勉強机の足元に小さな本棚のようなものがあるのは知っていたので、文庫本はそちらに移すことにした。ハードカバーや大型本は本棚にしまい込む。全て移動させて左腕に嵌めたデジタル時計を見れば、少し時間が経過していた。そろそろ恩田さんもお話が終わったかもしれない。

 裏口から入ると、また気付かれないだろう。恩田さんに、ぼくが来たことをわかりやすく伝えるためには、正面玄関から入るのが一番だ。


 玄関の扉を開けると、恩田さんと見慣れない男性と鉢合わせた。背が高くてガタイのいい男性だ。なんとなく無骨な様は、鉄骨がむき出しの塔を思わせた。慌てて挨拶をしていると、彼の腕時計が視界に入った。男性向けのごついアナログ時計だ。その盤面には白い傷がついていた。挨拶の途中で電話に出た彼は、どことなく疲れた様子で建物を去って行った。

 こちらを見た恩田さんが、口を開く。

「ちょっと焼けたかい?」

「…そうですか?最近あんまり日傘差してないからかもしれないです」

 応接室の方に引き返していく彼について行きながら、話を続ける。

「早めに差し始めた方がいいよお、今年も暑くなるだろうからねえ」

 どことなく間延びした彼の声に懐かしさを感じた。この前こちらに来たのは最近だというのに。

 応接室では、園子さんが既に片付けを始めていた。手伝おうかと申し出ると、部屋の換気を頼まれた。今の彼らにとっては少しだけ高い位置にある窓を開けるのは、ぼくが一番向いているのだ。

 窓の外からは、建物の中庭に植えられた躑躅がよく見えた。もう満開の時期だ。


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