財布は、乗車中か?
先月、タクシーの乗務中に財布を落とした。
財布だけなら、まだいい。
いや、よくはない。
現金もカードも入っている。
普通にメチャクチャ痛い。
けれど、本当に痛かったのはそこではなかった。
中に免許証が入っていた。
しかも、俺にとってそれは、ただの免許証ではない。
二種免許である。
タクシードライバーにとっての二種免許は、ただ車を運転していいという証明ではない。
お客様を乗せて、運賃をいただくための資格だ。
つまり、俺の飯の種である。
その飯の種を、乗務中に落とした。
タクシードライバーが、乗務中に二種免許入りの財布を落としたのである。
これはもう、かなり完成度の高い失敗だと思う。
寿司屋が米を炊き忘れる。
美容師が家にハサミを忘れる。
警察官が警察手帳をなくす。
それと同じようなものだ。
いや、警察官が警察手帳をなくしたら、たぶん笑い話では済まない。
そう考えると、俺の失敗もまったく笑えないはずなのだが、字面だけ見ると、少し笑ってしまう。
タクシードライバーが、二種免許を落とす。
もう、この一行だけで負けている。
俺は普段、お客様に聞いている。
「どちらまでですか」
行き先を聞き、道を選び、信号を見て、タイミングを測る。
人を目的地まで運ぶ仕事をしている。
その俺が、自分の財布の行き先を見失った。
お客様には、
「どちらまでですか」
と聞くくせに、財布には、
「どちらへ行かれましたか」
と聞きたい状態になった。
落とした場所は、たぶん金沢駅の降り場あたりだった。
お客様の荷物をトランクから降ろすために車を降りた時、財布まで一緒に降車したらしい。
荷物だけ降ろせばいいのに、財布までサービスで降ろしてしまった。
過剰サービスにもほどがある。
気付いた瞬間、血の気が引いた。
財布がない。
免許証がない。
その中には、二種免許が入っている。
つまり、営業できない。
正確に言えば、資格そのものを失ったわけではない。
けれど、タクシードライバーとして乗務中に免許証を持っていない。
この気持ち悪さは、かなり重い。
タクシードライバーなのに、タクシー営業ができない。
これはもう、ただの制服を着たオッサンである。
車はある。
メーターもある。
GOもある。
Uberもある。
やる気もある。
でも、免許証がない。
この状態でいくら稼ぎたいと思っても、どうにもならない。
鳴るはずの配車アプリより先に、俺の心の中で警報がMAXで鳴った。
財布がない。
免許証がない。
売上もない。
三重苦である。
しかも、その日は忙しい日だった。
街は動いていた。
駅も動いていた。
タクシーを探している客は、間違いなくいた。
こういう日に限って、やらかしてしまった。
暇な日なら、まだ諦めもつく。
どうせ鳴らん。
どうせ乗らん。
そう言い訳もできる。
けれど、その日は違った。
車を走らせていれば、確実に売上を積める日だった。
GOも鳴った。
Uberも鳴った。
手上げの客もいた。
駅前なら、荷物を持った客もいた。
近場を何本も積めた。
ロングを引くチャンスもあった。
それが全部、消えた。
結局、免許の再交付に行くことになった。
この時点で、約四時間のロス。
タクシーの仕事で四時間は重い。
四時間あれば、売上は変わる。
件数も変わる。
一日の流れも変わる。
その四時間を、俺は客ではなく免許に使うことになった。
その日の俺に来たのは配車ではなかった。
再交付である。
免許センターへ向かいながら、俺は何とも言えない気持ちになっていた。
なぜ俺は、客ではなく免許を追いかけているのか。
なぜ俺は、人を乗せる仕事中に、人を乗せるための資格を失いかけているのか。
冷静に考えれば考えるほど、情けない。
二種免許を取るのは、簡単ではなかった。
普通免許とは違う。
お客様を乗せる前提で、運転を見られる。
安全確認も、判断も、落ち着きも求められる。
俺にとって二種免許は、タクシードライバーになるために手に入れた入口だった。
その入口の鍵を、自分でどこかに落としてきた。
そう考えると、笑えない。
でも、少し時間が経つと、腹が立つより先に、笑えてきた。
失敗としての形が良すぎるのだ。
タクシードライバーが二種免許を落とす。
警察官が警察手帳をなくすようなもの。
仕事に必要なものを、自分で失くしている。
これほど見事な自爆もなかなかない。
もちろん、その瞬間は笑えなかった。
四時間のロスは痛い。
あの日の四時間は、ただの四時間ではなかった。
売上に変わるはずの四時間だった。
件数に変わるはずの四時間だった。
自分にも腹が立った。
情けなさもあった。
でも、あとから考えると、こういう失敗はネタになる。
むしろ、ネタにでもしないと割に合わない。
財布を落として、免許を再交付して、忙しい日の四時間を失って、ただ落ち込んで終わり。
それでは損しかない。
せめて笑い話に変えてやる。
そうでも思わないと、やっていられない。
それ以来、俺は財布の位置をかなり意識するようになった。
客の行き先より先に、財布の現在地を確認している。
右ポケット。
左ポケット。
腰に付けたポーチ。
車内。
財布よ、そこにいるか。
今日も俺はタクシーに乗っている。
GOを待ち、Uberを待ち、手上げを狙う。
街の流れを読み、観光客の動きを見て、少しでも売上を積もうとしている。
けれど、その前にひとつだけ確認することがある。
財布は、乗車中か。
二種免許は、乗車中か。
あの日、俺は学んだ。
タクシーに必要なのは、地理感でもある。
接客でもある。
読みでもある。
粘りでもある。
でも、その前に。
二種免許の入った財布を落とさないこと。
これが、いちばん大事やった。




