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千円を超えた夜

この時間に、この場所にいれば、GOは鳴る。

それは勘ではなかった。

気分でもない。

偶然でもない。

金沢の夜。

それは、片町の夜を読むことだと思う。

片町の夜の序盤。

店のOPENは二十時。あるいは二十一時。

その三十分ほど前になると、街の手前が動き出す。

夜のお姉ちゃんたちが、部屋を出る。

髪を巻き、メイクを仕上げ、いい服を着る。

香水をつけ、バッグを持ち、ヒールを履く。

その姿で、二キロ歩くのは面倒だ。

歩けない距離ではない。

だが、歩きたい距離でもない。

髪は崩したくない。

汗はかきたくない。

ヒールで足を痛めたくない。

だから、タクシーを使う。

片町から二キロ界隈。

泉、野町、増泉、寺町、笠舞、小立野。

そのあたりを、開店三十分前を目安に流す。

十九時半。

二十時半。

この時間に、その場所をなぞれば、GOは鳴った。

行き先は片町。

距離は短い。

料金も高くはない。

一発一発は小さい。

だが、読み通りに鳴る。

人が動く理由。

金を払う理由。

歩かない理由。

それが重なる場所に、車を置く。

それが、俺の基本的な組み立てだった。

GOアプリには、客の知らないドライバーの順位がある。

順位が高いほど、配車率は上がる。

もちろん、順位だけで全部が決まるわけではない。

距離もある。

空車の数もある。

タイミングもある。

客の評価もあるのかもしれない。

そんな中、俺の先月の順位は、九百六十人中七十六位だった。

上位、約八パーセント。

普通に走っていれば、GOの配車はかなり拾えているはずだと思っていた。

鳴る時間に、鳴る場所にいれば、拾える。

そう思っていた。

だが、一昨日の勤務は違った。

鳴っていた時間にいた。

鳴っていた場所にもいた。

それなのに、鳴らない。

十九時半。

片町の二キロ圏内を流した。

鳴らない。

二十時前。

もう一度、筋を変えて流す。

鳴らない。

二十時半。

二十一時OPENの店に合わせて、同じようになぞる。

それでも、鳴らない。

アプリが壊れたのかと思った。

再起動してみる。

電波の受信を確認する。

問題はない。

なぜ鳴らない。

最初は、供給を疑った。

他のタクシーが多いのか。

俺より近い車が、たまたま先にいたのか。

GOの順位が、思ったほど効いていないのか。

そう考えながら、片町の外側を回った。

だが、どれもしっくり来なかった。

鳴っていないのは、俺だけではない気がした。

同僚にLINEする。

やはり、弱いようだった。

片町スクランブルを確認する。

人はいる。

片町は片町のままだ。

それでも、何かが違った。

流れの中に、ひとつ穴が空いている。

いつもなら、そこに出てくるはずの小さな需要。

店に向かう前の、短い移動。

片町へ吸い込まれていく、細い枝。

それが、消えていた。

押されていない。

客が、GOを押していない。

五月二十五日のことを思い出した。

タクシー料金が値上げされた日だった。

迎車料金は、二百円から三百円へ。

初乗り料金は、六百円から七百円へ。

以前なら、GOで呼んでも、初乗り六百円に迎車二百円。

乗った瞬間は八百円だった。

それが今は、初乗り七百円に迎車三百円。

乗った瞬間に、千円。

メーターに、モロに出る。

客は、財布を開く前に、その数字を見る。

値上げ初日、俺は運転していて罪悪感すら感じていた。

もちろん、俺が決めた料金ではない。

会社が勝手にボッタくっているわけでもない。

メーターはメーターだ。

決まった料金を、決まった通りにもらっているだけだ。

それでも、高いな、と思った。

ドライバーの俺がそう思うくらいだ。

払う側は、もっと思っているに決まっている。

片町から二キロ界隈。

これまでは、タクシーに乗っても千円を超えないことが多かった。

迎車を使っても、ぎりぎり納得できる金額だった。

夜の店に出る女たちにとって、それは贅沢ではなかったのだと思う。

仕事前に髪を崩さないための金。

メイクを守るための金。

ヒールの踵を削らないための金。

出勤前に疲れないための金。

千円以内なら、必要経費だった。

だが、五月二十五日以降、その境界線が動いた。

GOで呼んだ時点で、もう千円。

走り出せば、すぐに千百円、千二百円になる。

二キロの移動に、千円以上。

そうなると、人は考える。

歩けるだろう、と。

少し早く出ればいい。

ヒールは袋に入れて、スニーカーで歩けばいい。

店で履き替えればいい。

雨が降っていなければ、髪もそこまで崩れない。

暑くなければ、汗もかかない。

荷物が少なければ、歩ける。

そうなってくると、タクシーに乗る理由が、一段一段薄くなっていく。

俺のGOが鳴らなかったのは、単に配車に負けたからだけではない。

客がGOを押さなくなったのだと思った。

これは大きい。

配車順位の問題だけではない。

流し方の問題だけでもない。

ポイント選びの失敗だけでもない。

魚はまだ、その川にいる。

ただ、食わない。

餌を追う理由がない。

水温が変わったのだ。

それまでは、片町の二キロ圏内に需要があった。

そこには、タクシーに乗るだけの理由があった。

だが料金が上がったことで、その理由が弱くなった。

客が消えたのではない。

移動が消えたのでもない。

客の判断が変わった。

「乗る」から「歩く」へ。

その差は、数百円かもしれない。

だが、商売の現場では、その数百円が人の行動を変える。

タクシーの中にいると、客の顔を見る。

どこから乗るか。

どこへ行くか。

何時に動くか。

雨で増えるか。

イベントで増えるか。

片町がどのタイミングで吐き出すのか。

だが本当は、乗らなかった客の理由を知る方が大事なのかもしれない。

GOを開かなかった人間。

タクシーを呼ぼうとして、やめた人間。

料金を思い出して、スニーカーを履いた人間。

少し早く家を出た人間。

あくまで、俺の推測だ。

その人間たちは、数字に出ない。

売上にも、本数にも出ない。

ただ、鳴らない時間として現れる。

一昨日の夜、俺はそれを強く感じた。

画面は静かだった。

いつもの時間。

いつもの場所。

いつもの筋。

それでも、鳴らない。

苛立った。

なんで鳴らん。

ここにおるやろ。

この時間やろ。

この順位やぞ。

そう思った。

だが、街は俺の順位など知らない。

客も知らない。

客が知っているのは、自分の財布の中身と、自分の足だけだ。

歩けるか。

歩けないか。

払うか。

払わないか。

それだけだ。

なら、この料金で乗る理由が必要になる。

雨なら乗る。

髪が濡れる。メイクが崩れる。服が濡れる。

ヒールで歩けば足元が悪い。

湿気が強ければ乗る。

歩けば汗が出る。

せっかく整えた髪が広がる。

真夏のような暑さなら乗る。

二キロ歩けば、仕事前に汗だくになる。

時間ギリギリなら乗る。

あと十分で出勤。

歩けば間に合わない。

荷物がある。

同伴がある。

客を待たせている。

坂がある。

風が強い。

体調が悪い。

理由があれば、乗る。

理由がなければ、歩く。

そういう話なのだろう。

料金改定は、タクシー会社にとっては必要なことなのかもしれない。

燃料も上がる。

人件費も上がる。

車の維持費も高い。

維持するために、値上げは避けられなかったのだろう。

それは分かる。

だが、現場の需要は正直だ。

上がった料金に対して、客はすぐに答えを出す。

文句を言う客ばかりではない。

むしろ、黙っている客の方が怖い。

文句を言う客は、まだ乗っている。

黙って歩く客は、もう乗っていない。

その沈黙が、GOの無音になっているのだろう。

俺は片町の外側を流しながら、そう考えていた。

今まで釣れていた場所で釣れなくなった時、釣り人は水の中を見る。

水温。

濁り。

流量。

ベイト。

風。

光。

プレッシャー。

同じ場所でも、条件が変われば魚は食わない。

タクシーも同じだ。

同じ時間。

同じ場所。

同じ客層。

それでも、料金という水温が変われば、客の食いは落ちる。

二キロ圏内を、ただ流すだけではもう駄目だろう。

乗る理由のある場所に寄せる。

暑いなら、坂のある場所。

湿気が強いなら、歩けば髪が崩れる距離。

時間ギリギリなら、店のOPEN直前。

同伴なら、片町へ向かう少し遠いエリア。

近距離ではなく、歩くには少し嫌な距離。

千円を超えても乗る理由がある場所。

そこまで深掘りして探す。

片町は、ただ近いだけでは鳴らなくなったのではないか。

楽だから乗る客は、減るように思う。

必要だから乗る客を拾う。

そういう夜になるのではないだろうか。

GOが鳴らないことは、ただの負けではない。

鳴らなかった理由を考えれば、次の一手になる。

料金が上がった。

客が減った。

そう言って終わるのは簡単だ。

だが、正確には違う。

タクシーに乗る条件が変わったのだ。

千円以内なら、乗る。

千円を超えるなら、考える。

そんな境界線がある気がする。

目には見えない。

地図にも載らない。

だが、確かにあると感じる。

千円の境界線。

その線を越えた瞬間、ヒールの女たちは歩き出したのかもしれない。

片町の夜は、今日も開く。

女たちは、髪を整え、メイクを仕上げ、いい服を着る。

ヒールを手に取り、少しだけ考える。

今日は歩けるか。

それとも、乗るか。

その迷いの中に、俺の仕事がある。

五月二十五日を境に、街は少し変わった。

客が消えたわけではない。

夜が消えたわけでもない。

ただ、タクシーに乗る理由が、少しだけ重くなった。

ならば、俺はその線を見る。

雨の日。

湿気の夜。

汗ばむ夕方。

風の強い日。

出勤まで時間のない女。

坂の上の部屋。

歩くには少し遠い場所。

そこに、車を置く。

GOが鳴らない夜は、ただの無音ではない。

街が条件を変えた音だ。

この時間に、この場所にいれば鳴る。

そう信じていた夜は、終わった。

これからは違う。

この時間に、この場所にいて、なおかつ、客に乗る理由がある時に鳴る。

千円を越えた夜。

街は少しだけ、歩く方へ傾いた。

ならば俺は、歩けない夜を探す。

鳴った場所を覚えるだけでは足りない。

鳴らなくなった理由を読め。

その理由の先に、次の一台を置け。

片町の夜は、まだ終わっていない。

ただ、水温が変わっただけだ。

魚はいる。

食わせる場所を、変えればいい。

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