閑話・少し前のお話
夏の大会を終えて、暫く立ったある夏休みの日の事だった。その日は、朝から日課をこなした後、部活に顔を出して自主練していた。
午後3時を過ぎた辺りで、部活仲間達と更衣室のシャワー室でキャッキャしながら、練習でかいた汗を流してさっぱりしてから、あたしは帰宅の途についた。
仲間達はまだ喋り足りないとかで、駅前のファミレスに寄っていくんだって話してた。あたしも誘われたんだけど、いつものように『この後は、別のお稽古があるから』と言って断ってしまった。
それがいけなかったのか、友達と別れて暫くして天気は急変。突然の雷雨に見舞われて、折角シャワーを浴びてさっぱりしたって言うのに、一瞬で濡れ鼠になってしまった。
-あ~あ…嘘なんか吐いたから、罰が当たったのかな。
慌てて商店の軒下に逃げ込んで、ゴロゴロと稲光を光らせながら、まだ夕方前だっていうのに、あたりを真っ暗にしてしまう程の分厚い雨雲を、ため息交じりに見上げる。それと同時に、自分のついた嘘に対する後ろめたさに、瞳が一瞬潤んだ。
あたしは友達に嘘を吐いた。ほんの2ヶ月前だったら、それは嘘にならなかったんだけど…この後ある予定の別のお稽古なんて、実は無いのだ。
本当だったら、続けていたかったんだけれど、続けるのがしんどい状況になってしまったから、辞めざるを得なくなってしまったのだ。
別に、家の金銭面が理由って訳じゃ無いのよ?自分で言うのも何だけど、あたしってかなりの金食い虫で、色々な稽古事や習い事を好きなだけやらせて貰っていたから、その位にはうちの家庭は裕福な方だと思う。
それじゃ何で?って事だけど、その理由は単純に人間関係のもつれが原因だった。その稽古事で、結果を出せるようになってきた事で、先生から本格的に取り組まないかって言われたんだけど、それを断ってから他の生徒達との関係がギスギスしてしまった。
-…まぁ、あたしの断り方も良くなかったのかも知れないけれど…ね。
なんとなく、友達にその事を言い出せなくて、嘘を吐いてしまった。高校に上がる頃に、同じような事で色々心配掛けちゃったから、また心配掛けさせちゃうんじゃ無いかって思ってしまって…
小学生の頃から続けていた様々な稽古事が、実を結んで結果を出すようになり始めたのは、中学2年の辺りだったかな。元々夢中になると、周りが見えなくなりがちだったあたしは、結果が出るようになった事で、素直に嬉しくて更に夢中になった。
そこまでは良かったんだけど、ふと気が付いた中学3年生の頃、各界で『天才潰しの天才』っていうあだ名で呼ばれている事に気が付いた。最初は無視していたけど、あたしが頑張れば頑張る程、努力すればする程に、その風辺りは強くなっていった。
その結果、高校に進学する頃には、一時期両手の指じゃ収まらない位だった習い事の数は、半数以上辞める事になってしまっていた。正直悔しくて、少し荒れた時期もあった位だ。
そして、高校に入ってからもいくつか辞める事になって、この間辞める事になった時は、流石に色々諦める事にした。
今でも続けているのは、実家の居合・剣術・剣道と、父さんがインストラクターしてるジムに、じいちゃんの友達が経営してる柔術道場。それから、たまに本家筋の道場に遊びに行った時に、手慰み程度に教えて貰う位だ。
まぁ、実家の居合道場を継ぐか?って言われてる身としては、居合や剣術に割く時間が増えたって考えれば、それで良いかなって最近は思うようにしてる。けれど、諦めたって言っても気にしてない訳じゃ無いから、どうしても友達に話す事が出来ないのが正直な所だった。
-ふぅ…こうしてると、余計な事ばかり考えて駄目ね。よし!
意を決して、あたしは商店の軒下から、ザァーザァーと激しく煙る位に降り続ける雨の中に、その身を晒して走り出す。もう既に、服はビショビショなんだから、これ以上濡れたって大して変わらないからね。
それに、濡れた服のまま何時止むかも解らない空を見上げて居るよりも、雨の中を走って家路を急いだ方が効率的よね。幸いあたしの足なら、10分も掛からないと思うし、それにこの時期なら、雨に打たれるのも風情があって良いかもしれない。
-な~んて言って!家に着いた途端雨が止むってのがお決まりなのよね、解ります!っと!!
何より、これだけ勢いよく打ち付ける音が響いているのだ。こうして大声で叫んでも、きっと雨音がかき消してくれるだろう。
そして、走り続ける事暫くして、自宅に併設された道場の門が見えてくる。『武人一刀居合道場』と看板が掲げられているその門を潜って、中庭を通って母屋の玄関に直行する。
ガラガラ…
-ただいま~
引き戸を開いて、濡れ鼠のまま中に滑り込む。服も髪もびしょ濡れで、走っている間は気にもならなかったけど、肌に張り付いた部分から一気に体温が下がっていくのがわかる。
「おかえ…うわぁ?!何その恰好!!」
-ただいま、玲ちゃん。あっはは~帰りに見事に振られちゃってさ。
「もう姉さんったら、何笑ってるのよ…ちょっと待ってて。」
あたしの姿を見て、呆れたように妹の玲香がそう言うと、再び奥に引っ込んでいった。多分、あたしの為にバスタオルを持って来てくれるんじゃ無いかな?
そんな期待を胸に、あたしは玄関だって言うのも構わず、制服と靴下をその場で脱ぎはじめて、下着姿のまま家に上がる。
「あ~、ちょっと!待っててった言ったじゃん!!そんな恰好になって、誰か来たらどうすんのよ?!」
ちょうどその時、奥からバスタオルを持って戻ってきた玲香が、あたしのあられも無い姿を見て小言を口にする。
-濡れたままで上がる訳にもいかなじゃない。それに、こんなかわいげ無い身体見たって、誰も喜んだりしないわよ。
「またそんな事言う。姉さんだって女の子なんだから、少しは気にしてあげないと、兄さんだって目のやり場に困っちゃってるんだよ?」
-それがあたしなりの家族サービスなのよ。
「馬鹿言ってるんじゃ無いわよ!もう…」
呆れながらにそう告げられつつ、差し出されたバスタオルを受け取って、濡れた身体を拭いていく。
-別に家なんだし家族なんだから、変に気を遣う必要も無いじゃない?
「…姉さんがそれ言う?まぁ良いけど、そんな恰好でうろうろしてたら、ママにひっぱたかれるわよ?」
-…それは嫌ね。ママのビンタマジ痛いから、ギャン泣きしちゃうわよあたし。
「ならサッサとシャワー浴びて着替えてきてよ。風邪引いちゃうよ?」
-は~い。玲ちゃんの言うとおりにしま~す。
「拗ねないでよ、もぉ…」
口を尖らせて言う彼女の姿を見て、おどけながら舌を出して答えた後、濡れた衣服を持って脱衣所に向かっていく。
「着替え持ってってあげるから、すぐ入っちゃうんだよ?」
-うん、ありがとう玲ちゃん。
背中に掛けられた声に、肩越しに振り返りながら答える。脱衣所に入るとすぐに、洗濯機の中に濡れた制服を放り入れて、パパッと下着も脱いでそれも洗濯機に入れて、お風呂場の扉を開いた。
………
……
…
手早くシャワーを済ませたあたしは、玲香が用意してくれた着替えに着替えて、彼女の姿を探して居間に来ていた。
-玲ちゃんありがとね。
「ん、ど~いたいしまして。」
バスタオルで髪を拭きながら、居間のソファーに仰向けに寝っ転がって、英語の教科書を開いている妹を見つけて声を掛けた。
-受験勉強どう?順調?
「まぁ孝兄さんにさっきも見て貰ってたし、現役生に見て貰えてる分他の子に比べたら順調かな。けど、普通そう言う事受験生に聞く?」
あたしの質問に、読んでいた英語の教科書を下げて、不機嫌そうに返す妹に、あたしは慌てて愛想笑いを浮かべた。
-い、いやほら、あたし特待生枠で推薦貰えたからさ。受験勉強の大変さが、いまいちピンと来ないって言うか…
「…姉さんは凄いもんね、色々。」
取り繕うように言ったあたしの言葉に、突っかかるような言い方で返して、再び教科書で顔を覆ってしまう。そんな彼女を前にして、あたしは内心でため息を吐いた。
馬鹿ね、あたしったら…今年受験本番で、玲香がピリピリしてるって知ってたはずなのに。
自責の念を感じつつ、玲香が寝っ転がっているソファーとは別の、1人掛けのソファーに腰を下ろした。
「…姉さんだって。」
-うん?
あたしがソファーに座ると同時に、教科書を見つめたままに、玲香がぽつりと呟いた。
「姉さんだって、来年は大学受験でしょ?」
-あ~、うんまぁ…
「…もしかして進学しないの?」
彼女の問い掛けに、あたしが濁した感じで答えたのを聞いて、何か感じ取ったのか、慌てた様子で起き上がって、驚いた表情で詰め寄ってくる。
-ち、違う違う!進学はするつもりだよ?ただ、大学で何をしたいって、明確に何かある訳じゃ無いからさ。
「何したいって…このまま行けば、大学もスポーツ推薦貰えるんじゃ無いの?」
-うん、まぁ…けど大学は一般で受験しようかなって。
「…そうなんだ。」
自嘲気味に答えたあたしの言葉を聞いて、玲香もそれ以上問いただしてくる事は無かった。ここ2~3年で、あたしの周辺で色々合ったのを知っているから、きっと察してくれたんだろう。
スポーツ特待生って言うと、聞こえは良いけれど、当たり前だけれどしがらみが何かと多かったりする。学校側は当然、スポーツであたしが活躍する事を期待して、金銭面とか色々な部分で待遇してくれる。
それは素直にありがたいし、何かと部活優先だったけど、それにも特に不満は無かったし、期待されている通りに結果も出した。けれど、特待生って立場の所為もあって、部活以外で個人的に楽しんでいるスポーツでの、人間関係のもつれに繋がる要因になったのも事実だった。
まぁ、他の競技のスポーツ選手から見れば、剣道で特待受けてる奴が、例えば柔道で水泳で陸上でと、いろんな競技の記録会で好成績出してたら、そりゃ反感だって買うわよね。あたしからすれば、身体を動かすのがただ好きで、目に見えた結果が出たらやる気も上がるから、参加してただけなんだけどさ。
それ以外にも、きっとあたしに落ち度は合ったと思うけど、中3の受験期間にスポーツ推薦を早々に貰えた時期から、高校1年の秋に掛けてが、周りの選手から陰口を言われる事が多い時期だったのは事実だ。それもあったから、正直もう特待生って立場にはウンザリしていた。
だから大学に進学する時は、一般入試にしようって早い内から決めていた。
「…まぁ、姉さんなら、その気になったら勉強だって出来るんだから、心配する必要も無いよね。」
そのトゲのある言い方に、胸がチクリとするのを感じたけど、表に出さずにぐっと堪える。普段なら思ってもそんな事言う子じゃないから、きっと長い受験勉強の疲れで、そういう所に気を回す余裕も無いんだと思う。
その証拠に、どこか疲れた表情でため息を吐いた玲香は、再びソファーに寝っ転がると、英語の教科書を再び開いて読み始めた。
-…あんまり根を詰めすぎないでね?
「…さっき兄さんにも言われた。解ってるわよ、もう…」
気遣うあたしの一言にさえ、不機嫌そうに突っ掛かってくる玲香に、あたしは思わず苦笑いを浮かべる。これは、今は何言っても彼女の機嫌を、損ねちゃいそうだけど、少し強引にでもガス抜きさせた方が良いんじゃ無いかな?
-勉強ばかりじゃ身体も鈍っちゃうし、気分転換に少し身体動かすのも良いんじゃ無い?
「え~良いよ別に。今は気分じゃ無いし…」
-そんな事言わないでさ?玲ちゃんだって身体動かすの好きじゃ無い。
「そりゃ好きだけど…今は雨降ってるし…」
そう言いながら、玲香は寝転がったまま、面倒くさそうに首だけ動かして、窓の向こうに視線を向けた。
-なら、久しぶりに一緒に剣道しましょうよ。
「え~?!それこそ嫌だよ。あたしじゃ姉さんに敵わないんだから…」
-そんな事無いわよ。玲香はあたしよりも、剣の才能があるってじいちゃんだって言ってたじゃない。
「…忘れたよ、そんな昔の事…」
-そんな事言わないでさ。久しぶりに…
「やらないって言ってるじゃん!!」
突然、玲香が大声を出した事で、あたしは思わず肩をビクッと震わせながら、驚きに表情を強張らせて妹へと視線を向ける。
-れ、玲ちゃん?
「私に姉さんみたいな才能なんか無いのよ!!人の気も知らないで!!」
あたしが視線を向けると、ソファーから飛び起きた玲香が、興奮気味にそうまくし立てる妹の姿があった。
「いい加減にしてよ!!姉さんは何時だってそう、自分に出来る事は相手にも出来るんだって思ってるんだから!!」
-そ、そんな事…
「思ってるじゃない!!昔っから剣の才能はあたしの方が上だって、そんな風に言うけど、才能だけで誰でも姉さんみたいになれる訳じゃ無いんだから!!私には姉さんみたいな練習量をこなす気力も、根性も無いのよ…いい加減気付いてよ…」
-玲ちゃん…
そうまくし立てる内に、次第に勢いが衰えていくと同時に、顔をくしゃっと歪ませて、瞳を潤ませ出す姿を見て、あたしは胸が締め付けられる思いになった。そんな玲香の姿に、あたしは何も声を掛ける事が出来ずに居た。
「…姉さんは、凛花さんや聖さんみたいに、自分が本気を出せる相手が欲しいだけなんでしょ。」
-ッ!そんな事…
違うと否定したかった。けれど、喉まで出かかったその言葉は、結局口に出す事が出来ずに、あたしは顔を伏せて俯いてしまう。
すぐに否定出来ない後ろめたさと、今にも泣き出しそうな玲香を、それ以上直視出来なかったから…
「…そんなんだから姉さんは…だから姉さんは!!」
そんなあたしを見て、きっと失望したんだろう…玲香の言葉に再び怒気がみなぎり、たまらずあたしは両目を強く閉ざして、唇を噛んでいた。
「…そこまでにしておけよ玲香。」
けれど、その続きが玲香の口から告げられるより前に、別の声があたし達の間に割って入った。
「孝兄さん…」
-タカ兄…
その人物とは、あたし達姉妹とは少し年の離れた大学生の孝兄さんだった。兄さんは、居間の入り口に立って、困った表情を浮かべながらあたし達を見つめていた。
「出来の良い兄貴を持つ俺としても、玲の気持ちは解らんでも無いけどな。優が色々と結構しんどい想いしてるのは、おまえも知ってるだろう。それ以上言ったら、優の心が折れちまうよ
「ッ!」ダッ!
-あ、玲ちゃん!!
兄さんの言葉を聞いて、妹はハッとしたような表情をしてあたしを見た後、突然走り出して居間から出て行ってしまった。それを追おうとするあたしに向かって、兄さんは首を横に振って制止させた。
「今はそっとしておいてやれって。」
-けど…
「ちょっと頭を冷やす時間が、あいつには必要なんだよ。おまえにもだけどな。」コツンッ
そう言いながら近づいてきた兄さんは、呆れたような表情をしながら、あたしの頭を軽く小突いた。
「おまえも、もうちょっと自分を誇って良いんだぞ?自分の才能を過小評価する事は、悪い事じゃないと思うが、度が過ぎたらただの自虐だし、相手からしたらただの嫌味にしか見えないんだからな。」
-うん、解ってる。けど…
「まぁ、バッサリ才能が無いって断言されりゃ、そりゃ尾を引くのも解るよ。俺も同じだからな…」
そう言いながら兄さんは、項垂れるあたしの頭を優しく撫でる。
「けどな、おまえがそこから上り詰めた努力は本物だし、その努力が確実に実を結んでいるのも事実だ。だから、そんなに背中を丸めていないで、シャンッと胸を張っていろって。」
-うん、ありがとう。
そう励ましてくれる兄さんに向かって、自嘲気味に苦笑しながら、あたしはお礼を述べたのだった。




